明日へ向かって 27
希美たちがオープンディスカッションをしているちょうどその頃、ある抗がん剤に関する問題が明るみに出ようとしていた。
従来とはまったく異なる新たな作用機序を有することから、開発段階ですでにかなりの注目を集めていたこの抗がん剤は、販売後まもなく病院から次々と副作用報告が寄せられた。さらに死亡例が報告されるようになると事態はより一層深刻さを増した。そして、ついにこの日、緊急安全性情報が発出されるにいたったのである。
安全性情報とは、予期せぬ重大な副作用など、薬の安全性に関する緊急かつ重篤な情報の伝達が必要とされる場合に、厚生労働省の指示で製薬企業が配布する文書のことである。製薬企業は、厚生労働省の指示から四週間以内に当該医薬品を使用している医療機関、医療関係者に医薬情報担当者(MR)を派遣し、原則として直接配布の上で内容の説明を行うとされており、配布用紙は目立つように黄色に規定されていることから、イエローペーパーとも呼ばれている。緊急安全性情報は、配布される以外に、独立行政法人医薬品医療機器総合機構のホームページで誰でも自由に閲覧することができる。
緊急安全性情報が発出されたからといって、直ちにその医薬品の承認が取り消されるというものではない。その医薬品を取り扱う製薬会社に対し、副作用に関する追加試験の要請や添付文書の記載変更が求められることの他、結果として適用範囲を制限されることも多い。
これらは製薬会社にとって相当なダメージとなる。膨大な時間と研究費を費やしてやっと作り上げた新薬の売上にブレーキがかけられるからだ。幾多の苦難を乗り越えようやく結実した金の卵が、その研究開発費を回収することなく水泡に帰してしまっては元も子もない。それこそが製薬会社の一番恐れる事態である。
副作用から死者を出してしまったことについて、まだ正確な因果関係が明らかになってもいないうちから、マスコミに取り上げられ、世間の脚光を浴びてしまうこともまた製薬会社にとっては好ましくないことのひとつである。それは、副作用から死者を出したとする汚名を着せられるというだけに止まらない。世論を味方につけた被害者支援団体が立ち上がり、そのうち訴訟問題にも発展しかねないからである。そんなことにでもなれば、売上損失どころの騒ぎではすまされない。ただでさえ医薬品開発の厳しさにあえぐ製薬会社にとって、これはまさに死活問題である。
今回の抗がん剤の問題は、希美たちの働く高津製薬にとってまさに他人事ではなかった。なぜなら、その抗がん剤を開発し、製造販売していたのは、合併先の三河製薬だったからである。
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