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明日へ向かって 48

 やや長原の言葉に納得できる部分があったのか、片山は真剣な眼差しで遠くを見つめた視線のまま、じっと固まっていた。
「僕も同じようなことを考えたことあります」そう言ったのは啓大だった。
「製薬会社だけでなく、他の企業にしても、どれだけ社会のことを考えているんだろうって思うことがあります」
 何事も利益優先になりすぎたいまの日本社会。そのことへの疑問はいつも啓大の心の中にあった。
「おっしゃられることの意味はよく分かります」片山は長原に向かって言った。
「でも、そうしていまの日本が発展してきたんですよ」
 片山の言葉に、それ以上は誰も反論しなかった。

「でも、とても深い議論もできましたし、まずはよかったと思うんですよ」
 希美の不安を少しでも取り除こうと気遣って城戸が声をかけてくれているのが、希美にはよく分かった。
 たしかに深い議論には及んだ。長原の問いかけに対して、薬を作るということの核心にも迫るような、根源的な議論ができた。そのこと自体はとてもよいことのように思う。
 しかし、それとは裏腹に、その場の雰囲気が、その議論を境にギクシャクしたものに変わったのもたしかだった。何か見えない糸で引っ張られでもしたかのように、三河製薬の三人の存在が遠のいて見えた。いや、遠のいたように見えたのは、あのあと踏ん反り返ったまま一言も発しなかった片山がそう見えたのかもしれない。もしかしたら、長原さんの語ったことは、この業界ではタブーだったのではないか、そんな思いが希美の頭を掠めた。
 城戸とてあの緊張感に気づかなかったはずはない。だが、彼女はよかったという感想を口にした。
 本当にそうですか?希美は喉まで言葉が出かかったが、すんでのところでそれを飲み込んだ。どんよりとした不安を感じた。何かよからぬことになりやしまいか、そんな不安が、ただ漠然と頭の中に薄い靄のように漂っていた。

 啓大は、それまでの長原の印象を改めたところだった。これまで啓大が長原に抱いていたイメージといえば、超一流の研究者でありながら、頑固な分析者でもあり、医薬品の開発のためなら手段さえも選ばない冷徹さすら持ちえる典型的な製薬ビジネスマンといった印象だった。
 長原の頭にあるのは、ひとつでも多く、薬という商品を世に送り出したい。いや、承認医薬品という作品の中にひとつでも多く、自分の名前を刻みたいという野心に目が眩んでいるのではないかとすら思っていた。それが昨日の発言で百八十度がらりと印象を変えてしまった。本当に患者のこと、世の中のことを考えた医薬品開発をしたい、そんな想いが長原さんに満ちているのなら、俺は一生あのひとについていきたい、そんなことを思い始めていた。
 いいことがあったときよりも、ちょっとくらい落ち込むことがあった方が、いい曲が書けそうな気がする。啓大はそんなギターリストだった。ギターだけが、世の中のむしゃくしゃしたフラストレーションを吹き飛ばしてくれた。
 仕事は、バンドが続けられるのであれば、何でもいいとさえ思っていた。テツオには羨ましがられる薬の研究も、日々毎日続くただの作業、目の前に並ぶガラスの試験管と同じだと思っていた。ガラス試験管にサンプルを入れた後、次にどんな溶液を添加して、どんな作業をするのかはあらかじめ決まっていた。ただ淡々とその作業を繰り返すだけ、そこには個性も人間味も感情さえも存在しない。研究とは名ばかりで、日々繰り返される実験作業と作業記録の中にクリエイティブさを見つけるのは困難だった。
 だから、自分は目の前に並ぶガラス試験管と同じ存在だと思うことにした。毎日繰り返される作業の一部として、俺は存在している。そうして仕事の中にある自分の存在を卑下することで、仕事とバンドという符号のバランスを保っていたのかもしれない。

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