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明日へ向かって 3

 研究所での契約社員の仕事は主に実験補助である。入社以来しばらく長原と小夜子の実験を補佐してきた希美であったが、あるときから分析装置も触らせてみたところ、希美は装置の原理から職人技ともいえる測定ノウハウに至るまでたちまちマスターしてしまった。希美は分析することの楽しさ、とりわけ混合物から目的とする化合物を単離するというクロマトグラフィーの虜になった。
 液体クロマトグラフィーの装置自体はいたって単純であるため、一通りの操作を憶えるには一年もあれば十分である。しかし、分析条件を自力で検討できるようになるためには、それなりの経験を必要とするため、何年で習得できるかはひとそれぞれである。分析技術を習得する一番の近道は、できる限り多くの化合物にじっくり触れることである。そのことをよく知っていた長原は、新たな化合物の測定を希美に任せ、化合物とじっくり向き合う時間を与えた。もちろん、長原の手にかかれば化合物の構造を見るだけで分析条件はたちどころに思いつくものだが、希美が少し慣れてきて考える力が養われてきたかに見えたところで一から任せてみることにした。これは小夜子とも相談し、希美の成長のためを思った結果であった。
 それからはまるで水を得た魚のように、希美は次々と新たな化合物の測定をこなし、確実に分析技術を高めていった。経験以外に研究所に出入りするメーカーから得られる情報も役に立った。分析に関する基礎から最先端のトレンドを知ることで徐々に知識を増やし、僅か二年の間に小夜子や長原とまともな議論ができるまでに希美は成長した。長原にすれば、せっかく育て上げてきた技術者をみすみす榎本にかすめ取られるような気がしてあまりいい印象を抱くことができなかったのである。
「大丈夫、榎本さんの用事がないときは、長原さんの実験も手伝ってもいいって聞いてるから」そう言う小夜子に対し、
「当ったり前や!逆やで。俺の実験の合間に榎本さんの仕事するんやで」と長原は口を尖らせた。
「もう、またそんなこと言ったら希美ちゃんが困っちゃうだけじゃないですか」
 長原の気持ちは痛いほどよく分かったが、小夜子はあくまで中立的な立場を取った。たしかに希美は分析技術者としては十分にひとり立ちできるところにまで成長したが、一方でこのまま希美が分析者として歩んでいくだけが本人のためとも思えなかった。このさき一生この研究所で働けるのであれば、より多くの実験を経験してどんどん技術習得させればよいだろう。しかし、契約社員なら、いつまでもここで働き続けられるというわけにもいかない。だとしたら、いろいろなことを経験しておく方が本人のためなのではないかと小夜子は思っていた。希美は、小夜子からそうした本心を聞いていただけに、実験から少し離れることになる新しい仕事にもチャレンジしてみようと決心したのだった。

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