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明日へ向かって 98(残りあと2話)

「楽しかったかしら?」
 清掃員の彼女にそう訊かれ、ほんの少しだけ考えてから、希美は、もちろんです、と言って頷いた。
「そうね、あなた、いい顔してるもの。いい仕事をやり終えたみたいに」
 いいえ、と謙遜がちに首を振る希美になおも清掃員は語りかけた。
「仕事って不思議よね。やっている最中はしんどくてつらいことも多いけど、終わって振り返ると楽しい思い出が浮かび上がる。まるでお掃除みたいに。掃除しているときはただ夢中で、額に汗しながらやってるけど、終わって綺麗になった部屋を見ると満足するでしょ」
 たしかに彼女の言う通りだと思った。仕事は掃除に似ている。彼女はさらに語り続けた。
「仕事も掃除と同じように、気が付いたところや大事なところからやり始めて、次第に苦手なところや細かいところに至るでしょ。次第に足りてないところが見えてくる。仕事を続けていると、自分の足りないところが見えてくるでしょ。あ、ここまだ汚れてるって思うみたいに。そうして自分の足りないことに気付くことで隠れた能力を引き出してくれたり、成長を促したりして自分の可能性を広げてくれるのが仕事だとわたしは思うの。
 あなたはいい仕事をやり終えたのね。わたしにはよく分かる。そんな顔をしてるもの。成長こそが仕事の証、自分へのご褒美よね。人生が自分探しの旅であるのと同じように、仕事の中にもまた自分がいる。
 わたしはそれを見つけるのが好きなの。本当に自分らしい仕事ができたときには、必ずそこに自分がいるわ。そんなに大きなことでなくても、毎日の小さな仕事の中にだって必ずそれを見つけることはできる。わたしって単純なのかもしれないけど」
 同意を求めるような彼女の問いかけに、いいえ、と希美は首を横に振った。
「単純でも何でもいいの。結局ね、幸せなひとって、ほしいものを手に入れたひとじゃないのよ。手に入れたものを気に入ることができるかどうか。気に入ることのできるひとが幸せになるの。たったそれだけのことなのよ」
 彼女の言葉は、まるで啓示のように希美の心に響き渡った。自分の成長こそが仕事から得られる最大の喜びであること。それと同じようなことを社内報のコラムに希美は書いた。
 自分の書いた文章の中に、彼女は自分らしさを見出すことができた。成長こそが仕事における最大のインセンティブであることは、希美がここでの経験として学んだことだった。
 いま彼女の言葉を聞いて、そのことをはっきりと確信した。彼女の言う通りだと思った。
 仕事を通じて、本当の自分に出会うこと、それが働くことのもうひとつの意味なのかもしれない。
 仕事をしていれば実にいろいろなことがある。叱られたり、腹を立てたり、嬉しかったり、悲しかったり、悔しかったり。
 でも、その中で、どれほど本当の自分でいられるか。自分らしく仕事ができるか。嘘偽りのない、本当の自分に近づけるのか。それが幸せへの一番の近道なのかもしれない。
「ごめんなさい。引き留めてべらべらと一方的にお話して」
「いいえ、とても勉強になりました」
「お疲れ様、どうかお元気で」
 希美は深々と頭を下げながら、最後に彼女と話ができてよかったと思った。
 彼女の言葉を聞いて、希美は自分の気持ちに大きく、そしてもっとも重要な句読点を打つことができたのだから。

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