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明日へ向かって 68

 それから城戸からのサポートも受けながら、発表資料作りは始まった。これまでの活動経緯を一枚のスライドにまとめ、議事録を頼りにこれまでのトピックスを拾い上げていった。
 やはり最大のトピックスは、合併前に開催した三河製薬との合同ミーティング、それと年末に訪問した六甲の家だった。
 製薬会社の研究員が、薬を作ることの本当の意味を知るために、実際の医療現場を訪ねた、というところがこれまでの活動の中から生まれたメインテーマだった。
 科学も経営も目の届かないような場所に着目しているところが、この活動の意義なのかもしれない。とここまで考えたときに、希美の中に新たな疑問が生まれた。でも、それって本当に必要なことなの?
 城戸にもその疑問をぶつけてみると、次のような返事が返ってきた。
「本来の自分たちの仕事を振り返ろうとするとき、どこに立ち返るかは組織によって様々ですが、製薬会社と世の中との関わり方を考えていく上では、とてもよい問いだと思います」
 しかし、希美には、城戸の文脈の中に、明確な答えを見出すことができなかった。自分たちの仕事を振り返らずとも、科学の法則に則り、法規制に従えば薬を作ることはできる。そもそもそんな面倒なことから考えを始めてしまえば、自分たちの仕事や存在意義そのものを否定することにもなりかねないのではないか。
 第一、私たちは薬作りの原点に立ち返っています、と報告したところで、本部長の納得は得られるだろうか。それどころか、そんな余計なことは考えなくてよろしい、ときっぱり跳ね除けられたりしないだろうか。そんな不安が頭をもたげた。
 やっぱり、本部長への説明なんて、わたしなんかには無理だって。希美は、半ベソを掻きながらも、忙しい実験の合間を縫ってスライド作りに勤しんだ。

 いよいよ本部長への説明する日がやってきた。
 その朝、一張羅のスーツに袖を通した瞬間から希美の緊張は最高潮に達した。まず、朝ごはんのパンはまともに喉を通らなかった。それを無理矢理グレープフルーツジュースで流し込んで家を出た。
 すっかりと春めいた暖かな日であったにも関わらず、手先はすっかり冷たくなっていた。地に足がついていないように歩くとふわふわした。電車に揺られながら、プレゼンテーションの内容を呪文のように頭の中で繰り返した。
 本社ビルを訪れるのは今日が初めてだった。榎本とは最寄りの淀屋橋駅で待ち合わせた。淀屋橋駅の改札に着くと、希美は辺りを見渡した。榎本はまだ到着していないようである。
 いつもの通勤風景とは異なり、スーツやオフィスカジュアルに身を包んだ黒っぽい光景が目の前をぞろぞろと流れていた。改札を出ると各々の出口を目指して、せかせかと歩いて行く。そんな光景を眺めながら、希美はアリの巣の中にいるような気分になった。働きアリたちは地下の巣穴から、今日も獲物を求めざわざわと這い出していくのだ。
 ほとんど待ち合わせ時刻きっかりに榎本は現れた。榎本は、ストライプ柄のダークスーツ姿でビシッときめていた。
 榎本の姿を見て、希美の緊張はこれまでに経験したことのないほどまでの頂点に達した。耳から煙を出しながら、右手と右足を同時に出して歩き出してもおかしくないほどの錯乱状態だった。
「練習はばっちりだろ」
 希美がガチガチに緊張しているのを見てとった榎本が尋ねた。
「あ、はい」と返事をしながら、いくら練習したとはいえ、口から心臓が飛び出しそうなくらいのこの緊張をどうにかして鎮めなければどうにもならない、と希美は思った。
 どうしてこんなに緊張しいなのか、我ながら情けなくて涙が出そうだった。よほどこの状況から逃げ出したかった。引き受けたことを今更ながら深く後悔した。
 隣では榎本が、今日の段取りについて話し始めるが、頭からすっぽり金魚鉢を被ったように、その声は遠のいて聞こえた。

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