自分のnoteアルバムが愛おしくなるとき
ふと思った。
〝noterさん達は皆、どのくらい自分の過去記事を読み返すことがあるだろう?〟
私はnote記事を書いてアップしたら、以降ほぼ見返すことがない。
ほぼ、というのは、時々以前書いた記事にスキがついたというお知らせがあると、記事タイトルが目に飛び込んで、どんなこと書いていたっけ?と久しぶりに見返すことがあるから。
ハッキリとした理由があるわけではないけれど、そういう機会以外に自分から読み返そうと思うことはない。
先日も、スキのお知らせがきっかけで、ずいぶん前に書いた記事に目を通した。
過去記事に目を通すと、当時の感覚が湧いてくる。追体験する。
それとともに、それをキャッチする今の自分の中には少し別の感覚があるな、と気づく。
私は、一度で二度と美味しい、みたいな感覚を味わい、そしてそれは新たな発見だったりもして、案外楽しんでいる。
そういえば、過去自分が書いた記事を読み直すことで自分を再発見出来るようなことを書いたっけ。
もう一度自分の感覚を大事にしよう。
そう改めて自分の中で決めてみたら、本当に大事にしたくなった。
自分が感じたこと。
誰が何と言おうが、
どう評価しようが、
それは私にとっての事実だ。
私にとっての事実を受け止めたところから、私以外の人とのやりとりも始まる。
そして、そのやり取りはより誠実なものになる、と思う。
ネットから情報が溢れる。
私は溢れる情報に溺れないように、ということに神経を注ぎながら、正しそうな情報や知識をひたすらかき集めてきた。それらの理解に頭を使ってもきた。
それこそがすごいことだと思っていた時期もあった。
でも…
いくらたくさん情報を集めても、いくら本当っぽい文献を見ても、つまるところ、最後は自分がどう思うか?どう感じるか?
そこにしか、自分の答えはない。
そして、面白いことに、知識をたくさんつけて思考しまくって出した答えっていうのは、自分が一番最初にこれかな?と感じていたものとやっぱり変らなかった…そんなことなんてしょっちゅうだったりする。
私のセンサーから得たものは私のもの。
これほどまでに強調したくなるのは、それほど私の中から出てくるものをしっかり疑わずにただ受け止めていなかった。そのことの裏返しだろうとも思う。
そして、そんな私にとってこれまで書いてきたnote記事は、向き合おうとする自分自身の瞬間を切り取った写真のようなものだ。
私のnoteアルバムにnote記事が貼られていく。
少しずつ。一枚一枚写真のように。
実際のフォトアルバムもスマホに溜まった画像すらも、私は見返すことはあまりないけれど、瞬間瞬間切り取っては貼る行為自体が大事なのだ。いや尊いのだ。
私にとってnote投稿は毎日のことではないけど、これからも毎週のこととしてnote記事に自分の瞬間を収めていこう。
そして時折そのnoteアルバムをギュッと丸ごと抱える。
もちろん自分の胸の中にあるnoteアルバムを。
それがその時までnote記事を紡いできた私が喜ぶこと。
きっとどんなときの私でも、それだけで嬉しい。
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