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支援者の〝かわいそう〟という言葉とギフト

この子どもたち、かわいそうなのよー。
同僚が、新たに支援するケース概要を確認しながら話しかけてきた。
私は、この〝かわいそう〟という言葉に反応した。

私も、こういうときに使う〝かわいそう〟という表現は嫌いだ。
怒りすら込み上げてきた。

そして、これまでの自分だと、そういう表現をすべきじゃない!と自分の中で持論を繰り広げていたと思う。
でも、自分の気持ちに、アウトプットに、集中!と思ったら、他人の反応にあまり関心がなくなり、私はなぜこんなに怒るの?と掘り下げたくなった。

私は、自分が経験したことは虐待だった、と気づく前から、現場でたまに支援者が使う〝かわいそう〟には違和感があった。

自分がサバイバーだから、支援者であると同時に支援される側の気持ちも常に持ち合わせているのだ。

支援者がかける言葉は自分がかけられる言葉。
〝かわいそう〟なんて、私が言われたら、上から目線で同情されてる感じだ。
そんな思いから出てきた怒りだった。

支援する人と支援される人。
サバイバー支援者である私はいつも両方の立場に片方ずつ足を突っ込んでいる。

そんな自分の立ち位置だから、常にどんな立場でも、目の前の人と対等でいたい。私はどんなときもどんな人ともただ対等でいたい。

サバイバーでなければ、頭では理解していても、ここまで心の奥底から対等を求めなかったかもしれない。対等という価値を実感する環境がなければ、実際に身につけるのはそう簡単ではない気もする。

対等ということを大切にする。
まさにサバイバーだからこそ手にした、自分の中にある大切なギフト。
またひとつ見つけた。

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