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「今日は◯◯を頑張りました。」と言わせないで

学校での違和感


仕事柄、たまに学校(主に小学校)で子どもたちの授業の様子を見る。

可愛い笑顔に会えるのは楽しみだけど、実は同時にちょっと憂鬱。
楽しみ&憂鬱がセットのパターンが割合多いからちょっと困る。

行くたびに、学校、という大人が子どもに提供している環境やあり方に違和感を覚える。

少子化で子どもたちが少なくなっているのに、なぜこれほどまで集団でばかり、同じ学年でばかり、同じペースで同じことを長時間学ばせるのだろう??

確かに色んな教育スタイルや学びの場が提供されるようになってきた。

いいところと言えるかは、それぞれの子どもによるけれど、とにかく選択肢は増えてきた。

でもそれらのほとんどは、金銭的な対価を支払えることで得られる選択肢に過ぎない。誰もが得られる環境ではないのだ。

今国内には不登校の子どもが20万人以上もいる。

学校という場所に行かない理由は様々で大抵いくつかある。
今の学校という場を覗くたび、正直不思議とは思わないし驚きもしない。

家でも学校でも頑張るしかなかった


最近学校で様子を見たときに気になった時間

⚫︎下駄箱にきちんと揃って飛び出ずに靴が入っているか、クラス全員で
 しっかりと確認する時間…
⚫︎「今日は◯◯を頑張りました。」と皆の前で発表する時間…

このことが大人になったときどれほど大切なのか??

私は小中とほぼ皆勤賞モノで学校という場所に行って過ごしてきた。
やるべきと課されたことは、相当真面目にほぼ完璧にこなした方だと思う。

でも、毎日真面目に通い、課されたことをやるのがいいことだ、とだけ評価されることに異議を唱えたい、元子どもの私がここにいる。

緊張だらけの家庭環境で育った私は、家で頑張って生き抜き、学校でも頑張り…

もし今私が子どもなら…
特に、〝◯◯を頑張りました〟の発表は、きっと我慢ならないレベルだ。

意味があるとしたら、あくまで本人の自発的な頑張り。それを言いたい人が言う。言いたいときに。
でも、頑張ったことを全員に発表させる時点で全てが強制だ。

私が子どものときは、同じような発表をする時間というのはなかったけれど、なにを頑張ったのか?なんで頑張れなかったのか?というメッセージは常にいろんな形で伝わってきた。

それだけで十分過ぎた。

毎日学校に行き、靴を揃えてチェックされたからといって、頑張りましたと発表したからといって、もちろんみんなが私と同じように感じるわけではない。

でも、家庭環境も厳しかった私にとっては、頑張らないと自分には価値がないといつしか思い込み、頑張れない自分を責める。
学校時間の中で、そういうきっかけの種がたくさん蒔かれてきた。

それが学校という場所だったと思う。

元子どもの私の主張

私にとって学校という場所は、楽しい、役に立つと思ったことも確かにたくさんあった。
けれど、代償は大き過ぎた。

私は絶えず何か要求してくる周りにアンテナを張り巡らせる一方、自分自身に目を向ける機会を相当失ったまま大人になってしまった。

そういう自覚がある。

今大人の私がそのまま子どもになって紛れることが出来たとしたら…(相当面倒な子どもに違いない…汗)

どんな時どの程度頑張るか頑張れないかを含めて、自分がどういう人か理解する時間がほしいと訴えるだろう。

頑張ることありきで、〝◯◯を頑張りました〟と強制的に発表させないで、と訴えるだろう。

自分は自分と一生付き合っていかなくてはならない。

いつのまにか、自分の意思とは関係のないところで与えられた、自分の体や環境を背負って、生まれた瞬間からずっと日々過ごさなくてはならない。

それならば、確かな大人に見守られながら、色んなことにトライして、その過程で自分を周りを理解していくことが何よりの財産で大切なことだと思うのだ。身も心も。

そしてその時間を周りと共有する中で、みんなかけがえのない命で精一杯生きているということぐらい、全身で感じ取れるだろうと思う。

子どもはそんな馬鹿じゃない。

私はそんな大切なことに腹落ちするまで、そして、自分はどう転んだって自分なのだから、自分のままにいよう、と腹を括れるようになるまで、ずいぶん遠回りをした。

でも経験にはなにひとつ無駄はないと思う。

だって現に私の経験や思いをいまこうしてnoteに書くことだって出来る。
同じような思いしてきた元子どもやいまの子どもたちが、少しでもいい方向に向かうようなお手伝いももっと出来るかもしれない。

とりあえず今日も私は自分を大切に過ごそう。それだけで十分頑張っている。

発表終わり🎶


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