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〝私は◯◯です〟はたくさんあっていい


〝私は◯◯です〟という表現

noteのつぶやき機能を時々使うようになって以降、他の機会もあわせると、短い言葉でいかに表現するか、を考える場面が少し増えてきたように思う。

そんな中、短いから伝えられることもあるけれど、ある程度の長さがあるからこそ伝えられることもある。

そんな当たり前のことも考えたくなった。

短さ、簡潔さ、スピード感が一層求められるような気がする今日この頃。

言葉のひとつひとつが放つイメージの影響力みたいなものが、ますます大きくなっている気がする。

そのせいなのか…

〝私は◯◯です〟。

そう一言二言で言い表わしながらプチ自分語りをすることには、ますます苦手意識が強くなってきている気もする。

例えば、
私は食いしん坊です。

このぐらいならあまりインパクトないかもしれない。
ちょっと笑いを誘うかも。

でも、
私はHSPです。

さらには、
私は虐待サバイバーです。

とちょっと大変そうな言葉を並べていくと、私、甘辛って人は重いものを背負っている人という印象に次第に変化していくんだろうなと思う。

重たい眼鏡を通して私を見る人が増えるような気がする。
もちろん自分でも重たい感じがする。

〝当事者〟を意識しすぎることへの抵抗感

言葉が持つイメージと影響力をあれこれ考えていたら、
今の私が(虐待サバイバーの)当事者であることを全面に出して進むことへの抵抗感の強い理由も見えてきた。

そう。
私は一応虐待サバイバーと書いているわりに、当事者としての話をメインにするということはあえてしていない。
したくないなと思って今まできている。

私の育った環境は、私の成長にとてつもない影響を及ぼしていた。ネガティブたっぷりだった。
だからもっとなんとかしたい、せっかくなら活かして活かし切りたい、という思いは強くある。

けれど、
当事者としての分厚くて重い印象の眼鏡を手にしてしまったなら…
それをかけることが頻繁になったなら…

重そうな眼鏡ひとつだけ、いつも片手に持っている自分がいると、その他の可能性を全て遠ざけてしまいそうな気がするのだ。

もはや違う眼鏡はかけられないのではないか?
何もかけずに過ごすことは出来ないのではないか?
いつ何時も、当事者ってことばかり意識することになるのでは?

そんな不安が出てくるのだ。

私の世界をもっと色とりどりにしたい

私は自分自身に対して、いつもたくさんの可能性を維持しておきたいという気持ちがどこかにある。
たくさんの可能性こそ、それまでの私が手にしにくかった選択肢。
そして自由だ。

時々虐待サバイバーの方達のnoteの記事を読むとき、私も当事者としてもっと語った方がいいのではないか?と思うことがある。

私しか語れないことや役割もあるのかもしれない…
この思考の先にはあるのは、自分にやれることをやっていないことへの罪悪感。

当事者だからこそわかることを伝えられる。
当事者能力は高く活かしたい。

頭で理解していながらそういったことに自分がそこにノリノリに乗れないのは、おそらくそれ以外の〝自分の世界〟と言えるものがまだまだ小さくて脆い気がしているからなのだと思う。

自分の世界、誰にも侵されない世界というものが、自分の中でまだ十分に確立された気がしない。
当事者という表現を使った途端、当事者一色に染まりそうな小さな世界。それが今の私の世界。

もっと色とりどり。色んな◯◯な私がいていい。
色んなものが詰まった世界であっていい。

私は◯◯です。

すでにいくつかの◯◯が私の中にあるけれど、

今年はこの◯◯を増やす。
私の中に新たな一面を見つける。
ひとつと言わず、いくつも。

そうしたら…当事者という世界もやがて手のひらに乗せて、もっとうまく扱えそうな気がする。

そんな一年にしてみたい。

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