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ご飯と一緒に捨てていた嫌な感覚

先日ご飯を捨てた件。
やっぱり、捨てることにならないほうがよかったなあ、これからきちんと原材料みてチャレンジしよう、と反省。

そう反省ししつつ、ご飯を捨てたことをnoteに書き振り返っていたら、過去の育ちの環境にまつわるエピソードがあれこれ頭に浮かんできた。
ご飯を捨てるということに色んな記憶がたくさん張り付いていた。

小さい頃、お腹が空かなくても食べたい気分じゃなくても、無理やり食べ切る。無理やりでも食べ切ったほうが、残したあとに自分に降りかかってくる言葉で傷つくより、ずっと気持ちが楽だった。食べ切ることにまつわるエピソードは数え切れないほどあった。

本当に嫌と思ったときに、たとえその嫌が些細なことであって、感じないように出来ることであったとしても、嫌という感覚に従った行動の許可を自分に出す。

いまの自分を優先出来た。
そんなふうに脳内でつぶやきながら、今回ようやく捨てられたのはご飯。だけど、同時に、そこにくっついていた過去のエピソードとその時得た嫌な感覚も捨てたのだった。

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このnoteにも、私は虐待サバイバー支援者、と何回か書いているように、育った環境は、’ちょっと嫌’なんて感覚は言わばデフォルトだったし、’すごく嫌’すら感じないような子ども時代を過ごした。それ以外に、自分のいる環境を最適化する方法を当時思いつかなかったゆえのサバイバル術。もちろんそんな冷静に考えて選び取っていたわけではなく、無意識のうちにそうしていた。

今出会う子どもたちの中にも、かつて子どもだった大人の中にも、私と同じような環境で、私と同じような自己防衛の仕方をしている人はたくさんいる。仕事上でも出会うし、直接出会えていなくても、似たような思いをしている人は世の中にたくさんいるだろうと思う。

たくさんのスルーしてきたことがある。サバイバルするために。
これからの自分は、もっと勇気を出せたら、どんなスルーしてきたことと向き合えるようになるだろう?

自分の感覚感情に気づく。そのあと、そこからどういう行動を選ぶかは別として、まず気づくことから何事も始まる。

アウトプットを続けること。
このnoteに書く、というアウトプットをしていると、ますます自分の感覚感情に気づきやすくなる。そうして気づいた私は、何かアウトプットをしたくなる。

まさにアウトプットの好循環。続けることが苦になる感覚は過去のものになりつつある。

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