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何も知らなかった過去の自分に寄り添いたくなった

久しぶりに〝キツい〟と思った

学生時代の知り合いから突然の連絡。

かつてのボランティア仲間からだった。知り合いは最近海外移住して、現在一時帰国中。

社会人になってから年賀状以外のやりとりがほぼなかった。

今どうしてる?と聞かれた。

ご挨拶がわりの一言だったはず。

それなのに、
(その知り合いと出会った)学生時代から今までをどう過ごしてきたか?という問いかけにいつのまにか自分自身が変えていた。

瞬時に学生の頃の自分にアクセスするきっかけを自ら作ってしまった。

大学生のときの私は、授業にバイトにボランティアに、と日々スケジュールびっしり。

とにかく忙しくしていたし、忙しければ忙しいほど、すごく充実している、と思っていた。

そのときは、何も悪いことなんてなくて、いいことばかりだった。
そのときはそう思っていた。

親の支援がなくて危ぶまれた進学もなんとかなったし、普通にみんなと同じ学生生活を送れている。
その嬉しさでいっぱいだった。

そう思っていたはずなのに…
自己理解が進んでいる今の自分から見える過去の自分は、外へ外へと意識を向けて動いていた自分

そのときに背負っていた大きくて重い荷物に気づかないまま。
自分と向き合うなんて思いもつかないまま。

そう思ったら、なんだか複雑な思いが込み上げてきて、きつくなってしまった。

向き合わずに駆け抜けたかつての自分

自分でもちょっと変な気もするが、充実した学生時代を思い出したら、懐かしさが込み上げてくるだろう。

どこかでそんな予想をしていた。

こんなことにまで、リアクションのスタンダードみたいなものが自分の中で用意されているなんて、自分でも笑ってしまう…。

だから、知り合いから連絡が来た時、何とも思わず、学生時代にまで気持ちが一気に飛んだのだと思う。

だって、普通そうだ。

知り合いは、僅かな帰国の時に私に連絡をくれることで、一緒に、いやー懐かしいねえ、なんて分かち合いたかっただろう。

そういう雰囲気を感じたし、私もそれっぽく答えた。出来る限り。

でも実際は違った。

学生時代の自分にアクセスしたとき、私が感じたのは、単純な懐かしさではなく、辛さ。
あのときの自分が気の毒な感じすらした。

確かにあの時は頑張りたくて頑張っていた。
目の前のタスクは自分で決めてやっていた。

ただ…
タスクを決める以前の、そもそもの前提全てが、自分由来ではなかった…

端的に言えば、私はいわゆる経済的・精神的DVを受けていたので、そんな環境下でようやく進むことを許された細い道を、自分が選んだと思い込んで、レールの上を走っていた。

私がどうしたいか?
私はどう感じているか?

親は私に対してこういう投げかけをしたことがなかったし、関心を持っていなかったと思う。当然のように私も私自身の本音の部分には触れずにきた。

それ以上傷つかないように。
身を守るために。

〝頑張ったで賞〟の前に…

その後今に至るまで、自分で選べる限り、進む道を少しずつ修正してきた。

自分の興味関心を追い続けていたら自然と方向転換してきた、といったほうが正確かもしれない。

そして今は確実に、自分自身を理解しながら、自分が納得したことを行動に移している。

だから、今どうしてる?って聞かれても何もきつくないはず。

なのに、昔の自分の大変さを知ってしまった今の私には、過去の自分への突然のアクセスが辛かった。
ちっとも懐かしくなかった。

もちろんそのときの自分がいて今の自分がいる。

だから本当なら、〝頑張ったで賞〟モノだ。

けれど、今の私が何かの賞や証となるものをもらうよりも、ただ昔の自分に寄り添っていたい。

そう思った。
辛さにすら気づかずひたむきだった頃の自分に。

…そうしてしばらく寄り添っていたら、少しキツさが和らいだ。

どんな自分であれ、過去生きてきた自分がいるから、今の自分がいる。
どっちの自分も自分らしい。

もっと胸を張ってもいい気がした。

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