山下かつみ物語 第一章~なんやかんやで音楽!
今までの人生の傍らには常に音楽があった。
人から見ると「そんな波乱万丈の人生ないよ~」と言われる。
確かに振り返ると我ながらなかなかに大波ばかりだったな。
どん底の時に音楽の力に元気をもらい、また音楽に夢を見させてもらって今日まで歩いてきた私。
残りの人生も消化試合ではなく、まだまだ挑戦していきたい。
私をいつも支えてくれた音楽の力をみんなに伝えるべく日々活動しています。
そんな一個人の備忘録を兼ねた自叙伝、よろしければお付き合いください。
幼少期のマイク
ワタシこと山下かつみは1960年10月2日、3人目の次女として尼崎でオギャーと産声を上げた。
ちょうど日本は「高度成長期」真っ只中。
ビニール製で空気入れて膨らませた人形「ダッコちゃん」が発売され、大ブームになった年だ。(懐かしい人とそんなん知らん人にしっかり分かれるよね)
ケネディが大統領選で勝利したのも1960年!
日本も世界も大きく動きだしたこの年にポンと生まれ落ちたかつみ。
実家はいわゆる本家というやつで、常日頃から親戚がわんさか集まる賑やかな家庭ですくすくと育っていた。
昨日の晩ご飯もなかなか思い出せない昨今、幼少の頃のことなど殆ど記憶にないが、唯一クッキリと覚えていること~
それは、延長コードをつけたコンセントをマイク代わりに歌ってたこと!
そう、親戚がワイワイ集まると、皆からリクエストを募ってはコンセントマイクで歌っていたのである。
親戚のおじちゃんやおばちゃんが喜んで手を叩いてくれる、お父ちゃんお母ちゃんが嬉しそうにかつみを見てくれていて、なんだかみんながとっても楽しそう・・・
そんな光景を目の前にしながら歌うかつみはすっかりスター気分、とにかく気持ちいいのだ。
実はひそかに歌手になるのを夢見ていた女の子だった。
(オッ、曲がりなりにも今はその夢叶ってる?)
で?何を歌ってたのかって?
3歳から5歳くらいまでよく歌ってたのが村田英雄の「王将」!
渋すぎるや~ん(笑)
もちろん歌詞の意味など分かるはずもなく、ただ通天閣と将棋盤とオッチャン村田英雄の映像だけを背負って歌ってたんだけど、それがまぁ皆にようウケて嬉しかったなぁ。
モノマネ時代とバンド活動
そんな幼少期を経て、小、中学生の頃は姉ちゃんにピアノ伴奏してもらって歌ってた。
実はかつみの姉さまはですね~現在も現役のクラシックのピアニストざまあすのよ!
もう自慢の姉さまです。
そんな姉さまの伴奏で好きな歌を気持ちよ~く歌ってたな。
周りの女子たちと同じ、ご多聞に漏れずモノマネもよくしてた~
ユーミンとか矢野顕子!
いつかライブでコッソリ披露しよかな(笑)
とにかくこの年代も人を笑わせるのが得意なお茶目な子だったように思うわ~
高校に入ってからは、当時ではまだ珍しかった女子バンド(ロックバンド)を組み、サイドギターとボーカルを担当。
隠しもった特技はギター・・・(かなり小さめの声)
五輪真弓の「煙草のけむり」やカルメン・マキ&OZのコピーバンド。
いや~ちょっとオトナの色気目指してたな。
村田英雄からしたら凄い進化だ。
デザイナーを夢みた?
高校卒業後はアパレル系の専門学校に進学。
オシャレが好きで、なんかかっこええなぁ~と。
将来、かつみのデザインした服を着たモデルさんが華やかなステージを闊歩する、
そんな夢をほんの一瞬見てあまり深く考えずに進学。
ところが!
とにかく「絵ゴコロ」がない。
絵が下手すぎてデザイン画が描けなさすぎて情けないことこの上ない現実を突きつけられたのだ。
ヒーヒー言いながらなんとか卒業はしたものの、時代の先端を行くファッションデザイナーの夢は儚く砕け散ってしまったのである。
老舗カフェでバイト
アパレルの勉強に苦戦しながら傍らに頑張ってたバイト先は紅茶専門店(インドのチャイ)「カンテグランデ」。
当時の阪急ファイブにあり、上階に音楽スタジオがあったのでお客さんもバイトもミュージシャン率高し!
なんとトータス松本さんもここでバイトしてたのよ!
残念ながらワタシが辞めてから入れ違いだったので、素敵な恋に発展することもなく(笑)
その後、メジャーになったウルフルズ、「大阪ストラット」という曲にこのお店も登場してる!
35秒辺りで「カンテGで、やっぱチャイとケーキ!」
何でも素直に受け入れるワタシ、様々なタイプのミュージシャンが出入りしていた影響ももろに受けて、どんどん音楽にハマりこんでいったのだ。
次回へ続く・・・お楽しみに(^▽^)/
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