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過去の言葉が起きられない原因?【自分観察日記】
今日は、カフェで自分と向き合う時間をとりました。
たまには外に出よう、という理由もありますが、父が休みで家にいて、「今日はあまり一緒にいない方が心が健やかだな」と思ったのが一番の理由です。
申し訳なさもありますが、変に我慢してイライラするのではなく、自分の意思で距離を置く選択ができるようになったのは進歩だなぁと思っています。
今日の気づきは、
・しっかり者のイメージを壊さないように必死だった
・周囲が持つイメージでしか自分を認識できていなかった
などです。
実際の内省の流れに沿って、振り返りたいと思います。
①父がいると起きたくない
以前も私の睡眠について記事にしたのですが、最近はまたちょっと質の違う睡眠になっていて、昼の11時〜14時頃が最もよく眠れているように感じます。
これには色々理由がありそうですが、今日は「父が家にいるから起きたくない」という気持ちが特に強く働きました。
父は基本土日休みなので、平日の昼に家にいるのはイレギュラーです。
私の部屋はリビングと近いので、目が覚めると、人の気配やテレビの音を感じます。それに加えて家族の行動はある程度推測できるので、ベッドの中にいながら「あぁ、お父さんしばらく家にいるんだろうな」と思い、起きるタイミングを見失う、という感じでした。
②「おそよう」の呪縛
別に父がいたって起きればいいのですが、なぜか起きられない。起きたくない。
それはなぜだろうと考えたら、過去に父に言われた「おそよう」という言葉が蘇ってきました。
私は子どもの頃からよく寝る子で、小学生の頃も土日はお昼近くまで寝ていました。
私が「おはよ〜」とリビングに行くと、父はよく、からかうように「おそよ〜」と言ってきました。
「おはよう」と言うには遅いから、「起きるの遅いね」というニュアンスを込めて「おそよう」と言う。
父は面白おかしく言っているつもりだし、私も合わせて「おそよ〜」と言ったりしていましたが、今思うとそれが嫌だったようです。
③なぜ嫌だったのか
「おそよう」には、
・朝早く起きるのがいいこと
・お昼近くまで寝ているのは悪いこと
というニュアンスが含まれているように感じます。
「こんな時間まで寝ていたなんて」
「もっと早く起きなきゃダメでしょう」
直接そう言われているわけではないけれど、私は否定的なニュアンスを感じ取っていたのだと思います。
そして、私にとってそれは、しっかり者としてあってはならないことというふうに捉えていたと考えられます。
私の周囲からのイメージは、しっかり者や真面目というものが多かったと思います。
特に学校では、先生を困らせないよう、空気を読んで最適な行動をするのが当たり前になっていたので、大人からの期待に応えることがアイデンティティのようになっていたのかもしれません(小さい頃からの家での過ごし方を思うと、こうなるのも当然だなと今では思います)。
そのため、「しっかり者でいなければならないのに、朝起きられない私はダメだ」と自分を否定することに繋がったと考えられそうです。
周囲のイメージでしか自分を認識できていなかった
この件から私は、周囲のイメージに縛られ、その通りに生きなければならないと思っていたことに気づきました。
イメージに捉われず自分は自分なんだと思うことができなかった。
しっかりしていなくてもいい。
真面目でも、不真面目でもいい。
どんな自分だろうと、自分であることに変わりはない。
そんなふうには、思えないまま育ったように感じます。
大学では、「ゆめってちゃんと課題やりそうに見えて案外やらないよね」と友人に言われました。
その発言には否定的なニュアンスはあまり感じず、ただギャップがあることを言われているようでした。
また、所属していた団体の先輩には、「しっかりしてそうに見えて、ポコンツなところもあるのがいい」と言ってもらえて、少しずつ氷が溶けるような感覚がありました。
言ってもらった当時は、こんなにも根深い問題だと思っておらず「そんなふうに思ってもらえて嬉しいなぁ」くらいに思っていましたが、今思うと、イメージの中にしか生きられなかった私にとって、これらの声かけは革命的なことだったのかもしれません。
まとめ
「お父さんがいると起きたくないなぁ」というところからこんなに深まるとは、人間って面白い…
これからも地道に、自分のことを知っていきたいと思います。
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