見出し画像

私と海と世界と、

はじめまして、ENGAWAのれいなです。

自己紹介なんて興味無いと思うし、私も自己開示範囲が苦手なのでこれくらいにする。加えて、私が文章を書くときに読者を想定していない。対象を意識すると、見せ方を考えてしまうから。ここでは論理性もわかりやすさも結論もない。感じたことを徒然なるままに書く。

海に行きたい。最近よくそう思う。
2年前くらいに山と海が近いところに家を借りて、海をみると心が落ち着く。あそこには沢山の何かがあって、そしてなにもない。多くの生物は住んで息をしているのだろうけど、私にとって海は死の象徴に見える。海が死を誘ってくれるように感じる。

結局は飛び込む勇気なのだと。
飛び込むところは川の中でも海の中でもいいけど。飛び降りと表現してもいい。同じことだ。
死ぬ勇気も生きる意志も同じな気がするのは私だけかな。

海に行ったら「楽園」がある気がして、一度父母ヶ浜に行ったことがある。本当はサークルで同じプロジェクトの人と行く予定だった。でも体調不良者が出て結局いけなかった。あのときいけなくて、でも誰のせいにもできなくて。そして一番は、そのプロジェクトに縋ってしまっているもしくは依存してしまっている自分が気持ち悪くて仕方が無かった。

皆でいけなかったからひとりでいった。その日は誰とも連絡を取っていないし、私は1人だった。旅と称したひとりぼっちの移動でしかなかった。父母ヶ浜って雨だと反射しないんだね、ウユニ塩湖なんて夢のまた夢だった。でも雨は好きだから、何も憎めなかった。ただ「楽園」はないことがしれた。それだけで十分な気もした。

私は間に価値を見出す人間なのかもしれない。父母ヶ浜もひとりでいってなければ楽しかったのかも。たとえ雨が降っていても。
そこにある自然や世界を美しいと思うけど、それ以上はなにもなかった。最近は特にそれが助長された。空の写真を撮らなくなって、周りの風景からこぼれる音に耳を傾けなくなったのはいつからだっけな。忙しない日常の中に埋もれていってしまった感覚。

自分の中に閉じこもっていたいのだ。学校、バイト、インターン、サークル。様々なことをして、それは勿論楽しいのだけれど、何かを発し、表現し、伝えるという行為の反動で、ひとりの時間に自分の世界に没頭しなければ干涸らびてしまいそうだ。

自分の世界はそんなに明るくなくて、夜には豆電球くらいのちっぽけなものしかない。そんなところで閉じこもっている私は、外界の世界に対して例えようのないまだ言葉にもなり得ない感情を抱いている。またいつかかけるときに。今はまだ難しいけど、もう少し落ち着いたら世界を愛せるようになりたいな

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?