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始発ダッシュの人

 社会人生活の火蓋が切られた4月。平日のとある日の朝5時3分に俺はスーツを着てダッシュしていた。目的地は最寄りの西小山駅。

 始発である05:05発の電車に乗り込むためだ。

 別に遅刻を恐れていたわけではない。家から会社へは電車で40分弱。その時は研修期間であったが、研修の開始時刻は9時ジャスト。街中で困ってるおばあさんを5人助けても、まだ遅刻の言い訳にできないほどのゆとりがある。

 かといって別に今後待ち受ける闘争に備え強靭な下半身を手に入れようとしていたわけでもない。

 『始発に乗る』ただそれだけが目的だった。


 日の出前に電車に乗り、オフィスの最寄り駅(地下)へ到着。地上へ上がるエスカレーターの途中でその日初めて陽を浴びる。傷ひとつない社員証をオフィスのゲートに丁寧にかざすと(研修生にノールックはまだ早い)、研修ルームがある階までエレベーターで移動。朝日とブルーライトを同時に浴びつつ、セブンイレブンで購入したグリーンスムージー片手に(カラダが資本と自己啓発本に書いてあったのだ)、本日行われる研修内容の予習を行う。

 そんな生活を研修が終了するまでの1ヶ月間、俺は毎日行っていた。別に膨大な課題を与えられていたわけではない。というか予習する必要性すらなかったはず。俺の次に研修ルームに人が入ってくるのはいつも2時間後だった。

 それでも俺は毎日始発目掛けてダッシュした。この1ヶ月始発ダッシュ生活は、達成したからといって実績解除のバッジをもらえるわけでも、ボスから「君は偉いね」とよしよしされるわけでもない。ただただ謎の使命感に支配されていたのだ。


 今思うと何でもいいからアイデンティティが欲しかったのかもしれない。そういえば中学生の頃、俺は占い師の職務を奪い自分自身に勝手にラッキーナンバーをつけていたな(恥ずかしいね)。高校の時はスマブラで4Pカラーしか使わないと決めていたし、大学の時は人と被らない奇抜な服装に身を包んでいたのだ。(当時2chで俺の服装が叩かれていたと友人から聞かされた。2ch見てなくて良かったね俺!)

 環境が変わるたびいつも、住民票を移す感覚で次のアイデンティティのありかを探していた気がする。
 スーツに身を包むことを余儀なくされ、服装に頼れなくなった俺が見出したアイデンティティの宿り木が今回は『始発ダッシュ』だったのだ。(なんともつらい手段が選ばれてしまった)


 「駆け込み乗車はおやめ下さい。」無人の車両に間一髪で滑り込む俺に、まだ喉が開ききっていない車掌の声帯が酷使される。(ソーリー東急電鉄の車掌さん)

 「ゆとりを持って出なさいよ。早めに起きたら焦って走らなくて済むでしょ。」
 そんな真っ当なお叱りを受けても俺はダッシュをやめられなかった。だってただでさえ朝早いのにこれ以上早く起きられないから。始発ギリギリまで寝ていたいから。でも始発には乗りたいから。どちらの需要も満たす結論が始発ダッシュである。筋は通ってるよね。


 こうして4月の間、毎日俺はダッシュした。(無論、雨の日も風の日も)

 植木につまづいて派手に転んだこともあった。あの時作った擦り傷のわけを聞かれても困ってしまう。

 Aちゃん「どうしたのその傷?」
 俺「あ、ちょっと始発ダッシュした時に転んじゃって。」
 Aちゃん「急ぎの用事でもあったの?」
 俺「いや始発に乗りたくて。」
 Aちゃん「始発に乗らないといけなかったの?」
 俺「いや始発に乗りたくて。」
 Aちゃん「どうして始発に乗りたいの?」
 俺「始発に乗りたくて。」
 Aちゃん「へー」

 Aちゃんの疑問は晴れぬまま俺はダッシュする。幸い、黎明という時間帯のおかげで誰にもこの理不尽な転倒を見られることはなかった。

 終電まで行われた飲み会の次の日も、ぱんぱんに浮腫んだ顔を引っ提げて当然のようにダッシュした。グリーンスムージーは500mlのポカリに変わっていた。

 1度だけ始発を逃したことがあった。悔しくて俺は泣いた。愛するペットの死と同じ熱量で泣いた。途中から乗り込んできた乗客は早朝からトラブルに巻き込まれることを無意識に避け、肩を震わせる俺を見るや否や隣の車両に移動していった。当然この涙のわけを聞かれても困る。

 そんな研修期間を終えると『始発ダッシュの人』というあだ名で、一度も出会ったことがない同期にも俺の名が浸透していた。(アイデンティティGET)



 あれ以降、始発ダッシュをしたことはない。
 グリーンスムージーを目にするたび当時を思い出すが、別にやって良かったなとは思わない。「思い返すとあれもいい思い出だよな」と酒のつまみにできる程の思い入れもない。

 2度寝して正午を過ぎたが、未だに起き上がれないベッドの上で今この文章を書いている。

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