ミャンマー鉄道2019♪♪ヤンゴン行きは何番ホーム♪♪20年ぶりの中央駅♪♪くるり♪♪
朝日が昇り、かなり明るくなって、目が覚めた。
ここは、ミャンマー・ヤンゴン市内のホテル、5階の部屋。
20年前初めてこの国に来てから、3度目のヤンゴン。
昨夜、遅く、このホテルに着いたので、まだ少し疲れていた。
早朝、窓の外では、ビルの屋上に設置された拡声器から、何か大きな音がしていた。
音楽のような、何か鳴らしているような、お経のような。。。
多分、近くのお寺の朝の説教だったのだろう。それで、一度、目が覚めてしまったのだが、その後、知らないうちに二度寝していた。
昨夜、遅くに、このホテルに着き、旅の疲れから、すぐに、ベッドに倒れ込んでいた。中国から、東南アジア各国を回り、タイのバンコクからの飛行機で、また、ヤンゴンにやってきた。3回目のヤンゴン。
「今日は何をしようか、どこへ行こうか」とくに予定は決めていなかったが、窓の外を眺めていると、遠くに、金色に輝く仏塔が見えた。
ミャンマーのパゴダだ。あそこに行こうと思い、準備をしてホテルを出た。
ホテルから歩き出したが、ヤンゴンはすでに、かなり暑かった。
金色に光るミャンマー・ヤンゴンの象徴「シュエダゴン・パゴダ」を目指し歩き出した。高架道路の歩道を歩いていると、左に、線路と列車がみえた。その奥には、大きな駅舎の建物。ヤンゴン中央駅だ。
私は、中央駅近くのホテルに泊まっていた。
20年前、1999年のことを思い出した。
日本語を話すミャンマー人大学生の女神に助けてもらい、少しだけ、ミャンマー鉄道体験旅をした。その時の印象と今見えている、ヤンゴン中央駅は別のモノに見えた。こんな風だっただろうか。駅の裏口方向から見ているからそう見えたのかもしれなかった。
もしかして、あの女神にまた会えるかもしれない。可能性ほぼゼロの淡い期待をいだきながら、黄金のパゴダの前に、中央駅に寄り道することにした。
中央駅正面に来た。立派な駅舎だ。
20年前の印象とは少し違うように感じたが、確かに、ヤンゴン中央駅だった。
大きな、英国とビルマのミックスされたようなデザインの立派な建物にみえたが、一国の大きな都市の中央駅としては、相変わらず、人や車の出入りがそれほど多くないように思えた。20年前よりは、多少、舗装整備がされていて、路線バスも数台あり、そこは、少し、中央駅らしくなったとも思った。
正面入口から、駅構内を見ようと、中へ入った。警備員もおらず、自由に入れるようだった。ここでも、20年前とは違った印象を持った。
鉄骨製の立派は歩道橋で、奥の方のホームへ行った。
何番線だろうか、階段でホームに下りた。ミャンマー語の数字表記でわからなかった。階段近くには、犬が寝ていた。のんびりした雰囲気だった。
ヤンゴンを一周する、環状鉄道路線があるようだ。英語表示の説明看板があった。これは、20年前と違い、外国人旅行者にもわかりやすく良くなっていた。
説明看板を見ていると、ミャンマー人女性が話しかけてきた。
ヤンゴン環状鉄道について簡単に説明して、切符売場を教えてくれた。
20年ぶりのミャンマー鉄道の旅、面白そうだった。
私は、黄金のパゴダに行く予定を変更して、ヤンゴン環状鉄道に乗ることにした。
看板から少しホームを進むと切符売場窓口があった。
何人か並んでいた。切符を買おうと窓口へ近づくと、ミャンマー女性が、切符を買ってあげると、手に持ったミャンマー紙幣を私から取った。
ミャンマー人女性は、数人並んでいた人の横から、紙幣を窓口に差し出し、何か言って、切符とお釣りを受取り、私に手渡した。
金額に間違いはないかと少し疑ったが、正規料金だった。200チャット
切符には、「ヤンゴンからヤンゴン行き」と英語で記されていた。
その女性は、環状線は乗車時間が長いので、食べ物と飲み物が必要だ、買わないかと言った。
切符売場の後ろに、ジュースやお菓子が並んでいた。
その女性は、鉄道関係者ではなく、ホームでモノを売るおばさんだった。
おばさんというには失礼か、おねえさんだったかもしれないが、大学生の歳には、見えなかった。
20年前の大学生の女神ではなかったが、今回も、ミャンマーの優しい人に切符を買うのを助けてもらった。
まあ、英語表記もあり、金額も明示されていたので、自分で簡単に買うことはできたとは思ったが、おばさん女神に感謝しておこう。
お礼に、ジュースでも買ってあげようかと思ったが、ホテルから持ってきたペットボトルの水と非常用お菓子で、ショルダーバッグがいっぱいだったので、申し訳なかったが、商品は買わないと告げた。
女神おばさんは、何度か繰り返し、水だけでも買ったほうが良いと勧めてきたが、苦笑しながら丁寧にお断りした。
女神おばさんは、残念そうな顔をしていたが、私も、買ってあげられなくて残念だった。
♪♪ヤンゴンからヤンゴン行きは、何番ホーム♪♪
予定時刻少し前に、列車がホームに入ってきた。
日本から譲り受けた車両だった。ミャンマー国鉄では、日本から中古の鉄道車両を輸入して利用している。日本で数十年使用され引退した車両なので、相当古いものだと思うが、ミャンマーに来れば、まだまだ、高品質、高性能列車として走ることができるようだ。
車両には、JRのマークや行き先などが日本語表記のまま残っていた。
ミャンマーの人には、読むことができなと思われるが、古い車両であるが、「日本製の高品質の証」として、そのままになっているように思えた。
私は、切符を片手に、ニホン製ヤンゴン環状鉄道車両に乗り込んだ。
車内は、地元の人、外国人観光客と覚しき人で、いっぱいだった。
なんとか、窓側の席に座わることができた。
列車は、ゆっくり動き出した。
時速30キロほどで、ヤンゴン市内の駅を一つずつ、停車しては、乗客を乗り降りさせて、走った。
時速30キロは、ゆっくりだと思ったが、20年前は、時速10キロくらいだったように感じられたので、結構、速くなったものだと思った。
ゆっくり、のんびり、快適に、ニホン製ヤンゴン列車旅を楽しんだ。
1時間ほど乗って、途中、インセインという駅で下車した。
実は、この時、ヤンゴン環状鉄道は、工事中で、ヤンゴンをクルリと一周することはできなかった。そのことを、車内の車掌や外国人観光客、地元の人などの断片的な情報をつなぎあわせて、わかったので、急遽、比較的大きい駅と思われた「インセイン」で下車することにした。
インセイン駅は、比較的大きな主要駅のようだった。
地元の人、外国人旅行者も大勢降りた。近くに、何か大きな施設もあるようだった。
後で調べると、空港も比較的近いようで、ここから、乗り合いバスかタクシーで行く人もいるようだった。
駅構内や線路は工事をしていた。日本の援助による鉄道高速化プロジェクトが進めら、線路取り替え、駅ホーム改修などの工事が行われていた。
インセイン駅を降りた時には、大きな音楽が聞こえていたが、駅出入り口付近は、待合室兼食堂兼カラオケスペースのようになっていて、地元の人が楽しそうに唄っていた。
その近くのホームには、犬が寝ていた。タイ・バンコクのコンビニ前と同じような風景だった。
1時間ほど、ヤンゴン中央駅へ戻る列車を待つ間、インセイン駅の内外周辺を散策した。
そんなこともあって、「インセイン」という地名が、強く記憶に残ることになった。
「インセイン」の記憶を呼び起こすことになるのは、この2年後ぐらいか、軍事政権が復活し、多くの若者などが、「インセイン刑務所」に入れられたとのニュース報道を聞いた時である。
【インセイン】【JR久留里線♪くるり♪ばらの花】
ヤンゴン環状鉄道の主要駅「インセイン」に、1時間ほど滞在し、中央駅行き列車で戻ることにした。
列車が来た。行き先表示板に、「JR久留里線」とあった。多分、千葉房総辺りを走っていた車両だと思う。ヤンゴン環状線で「くるり」である。
一瞬、笑ってしまった。同時に、くるりの名曲「ばらの花」のメロディーが頭の中を流れ、フレーズを口ずさんだ。「安心な僕らは旅に出ようぜ」いいフレーズだ。「ジンジャーエール」が飲みたくなった。
列車の乗降ドアは全開であった。時速30キロ程度とはいえ、少し危険に感じた。日本では考えられないが、地元の若者は、全開ドアから身を乗り出して、爽やかな風を楽しんでいるようだった。私も真似てドアから身をのりだした。
くるり「ばらの花」の曲調や歌詞とは、少し違う、ヤンゴン環状列車の状況だった。
ヤンゴンをくるりと一周はできなかったが、「くるり」で戻るという愉快な鉄道旅だった。
列車は、また、ヤンゴン中央駅に戻ってきた。
ミャンマー2019旅は、まだまだ、続きます。
【参考写真画像等 追記】
200チャット 日本円にするといくらだっただろう 2024年の今、円安ドル高であるが、対ミャンマー通貨に対してはどうなんだろう。今の価値もわからない、5年前のことは覚えていない。手書きのメモ帳のどこかにかいてあるかもしれないが、見つける気にはならない。せいぜい50円程度か。
ヤンゴンからヤンゴンというのも少しおかしい感じた。
環状線だから、そういう表記なのか。山手線を東京駅から一周するときは、
「東京から東京まで」となるということだろうか。
ヤンゴン環状線だけでなく、他のミャンマー鉄道路線にも乗ってみたくなった。北部の大都市マンダレーまで行きたかったが、かなり、時間がかかるのとチケットの買い方が、20年前のようにわからなった。比較的、近い、パゴーまでにして、翌日、列車旅をしようと思った。
♪♪♪ヤンゴン行きは何番ホーム♪♪♪「大阪行きは何番ホーム」吉田拓郎
拓郎の「サマルカンド・ブルー」を久しぶりに聴いて、他の拓郎も聴きたくなり、懐かしいアルバムをいくつか連続で聴いた。最近ラックの奥でほこりをかぶっていたLPレコード
元気です 人生を語らず 落陽 夏休み ファイト ♪♪♪
【最大都市ヤンゴン 軍事政権首都ネピドー】
1999年女神と出会ったヤンゴン中央駅 女神の手助けで雰囲気のある列車旅をした。
2019年11月、私は、ミャンマーの最大都市、ヤンゴンにいた。
最大都市というのは、かつては、このヤンゴンは、首都であったが、10年ほど前、内陸部のネピドーに首都が移転したからである。
首都は移転したが、相変わらず、経済と教育、文化などの最大中心地ではある。
【2024年6月現在】
2019年11月ミャンマーを旅して、その後、民主的選挙で、民主的勢力が圧勝して、ミャンマーは、よりよくなる方向になると思われていたが、軍人がクーデターを起こし、また、軍事独裁に戻ってしまった。
最近は、ミャンマーからの情報も少なくなってきているが、軍事政権との闘いが続いているようで、ミャンマーの国、国民は、あまり良くない状態だと思われる。
鉄道も運行しているのかいないのか。日本が支援していた鉄道高速化プロジェクトはどうなっているんだろう。鉄道には、外国人が乗ることが難しいようなことも聞いた。
あの時、会った人たちはどうしているだろうか。街並み風景はどうなっているだろうか。
できれば、近いうちに、ヤンゴンを訪れて状況を見てみたいと考えている。
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