学び
たくさんの目に見えない病気があって、そういった人が幼い頃から側に居たので、何ら不思議に思わない。
小さいときはひたすらに自分を責めるが、正当な問いかけをしても話をすり替えたり、自分の非を認めない姿には嫌悪感を抱くようになる。
なので、感情を抑えて淡々とすることがいつからか自分の防御として培われたことは否めない。
乖離性であったり、二重人格であったり、自傷行為であったりと知り合った人も様々であるが、摂食障害の方から話を聞くことがあり、また新しい視野が拡がったように思う。
小学生の高学年頃から母親からしきりに
『あと10キロ痩せたら可愛いのにね』と言われることが多くあった。
学校でも椅子が狭いので後ろに机をずらしてというと『痩せろよな』と言われたりということは平気であった。
太いと言う自覚はあったが、それを気に病んで食べられないと言うことまではいかなかった。
食べるしか楽しみが無かったとも言える。
ただ、前述した摂食障害の子は
『ご飯行こうは死活問題なんですよ。』と言っていた。
美味しい、楽しいの前に、恐怖が台頭してしまうというから全く分からない感覚ではあった。
ただ、やはり昨今のルッキズムや幼少期の親戚の一言が尾をひくことは、話を聴いていて如実に感じたことではある。
特に姉妹がいたりすると、必ず見た目や性格、頭の出来など絶対に比較される。
それを気にせずに居られたら良いが、心の優しい人々はそれを延々と脳裏に残してしまい、
事あるごとに反芻してネガティブに突き進んでしまう。
またそれを咎められたり理解されないとなれば、二次被害の自傷行為になって最悪死に至ってしまう。
簡単にご飯が食べられないということだけではない。
それは顕在化した極一部でしかなく、その根には複雑な問題が絡み合っている。
私が話したその人は、自分の病気を友達に伝えておらず、かつHSPのような特性も持ち合わせているためより問題が煩雑になっているなという印象を受けた。
優しさ故の苦しみ。
私とはあらゆる意味で対照的である。
ただ、心を傾けてその渦中にいた人がどのように今を生きているのかを聴くことは出来る。
自分が他人に話して心の傷が少し癒えたように感じるのと同様、相手の方も
『言葉にして話して初めて自分の思いが分かる』
ことを体験してほしくもある。
自己対峙して理解していても、外に出して初めて楽になることはいくらでもある。
その時の話す相手は必ず見極めねば心の傷がよりえぐられる結果になることになるので、
慎重には成らねばならないのだけど…。
そういった意味でもどうして私に話してくれるようになったのか、と問いかけたら
『たくさんの知識があって、話しても分かってくれるなと思ったから。』
そう言って貰えたときに、自分が存在する意義を少し感じられることがある。
やはり他人からしか得られないものは、必ずある。
言葉の齟齬があったとしても敬意を払って説明をすれば信頼の元に理解し合える。
ひとつ違えば、私もそちら側にいたかもしれない。
相手の中に自分を見るのだ。
その方の頭のイメージを聞いて、いざ過食ぎみの自分の生活を少し改めようと思い立った。
無職であると当然節制を求められ、普段ならばヘルシーになるはずが、最近は暇で不安を紛らわす為に食べすぎていた。
なので、夜はサラダにタンパク質を取り入れてみたら、主食が要らない程の満腹感。
この感覚は、数年前には持っていたのに仕事も恋愛めいたものからもボコボコに傷つけられていた3年前程にジャンキーな自暴自棄に至ってからその『空腹の心地よさ』を忘却していた。
バナナとオートミールのバーを間食にしていたし、玄米にブロッコリー、チキン、茹で玉子の弁当をほぼ持参していた。
それが砂糖と脂質がふんだんなクッキーやチョコレート、惣菜パンなどをバンバン食べるようになって身体も脳もそれを欲しがるように仕立て上げられて行った。
人間の意思なんていうものは弱い。
サラダを美味しく食べるためのドレッシングを午後、買いに行こうと思っている。
どんな人との出会いにも必ず閃きや気付きをもたらしてくれる芽があると思っている。
それらを探すための会話である。
辛い思いをして生きている人達は多く要るし、自分もそのうちの一人だが、その瞬間笑顔で過ごすことが出来、その後もその時の会話を思い返して心の拠り所になるようなことがあれば人と人との繋がりは悪いばかりでもないなと思えると思う。
私もその日に与えて貰った栄養はとても大きく充たされた。
感謝です。
個性があって素晴らしい、自分で誉められない人が日本人には数多くいます。それとと同時に自分の不快な気持ちも閉じ込めてしまう傾向も多く感じます。 私があなたの肯定感を高めるお手伝い、心の声を発掘するお手伝いをしたいと思います!!