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「愛する」あなたと「私」の彼岸で~合一の中の孤独、『ひとつ』になった時の『ひとり』~

「『愛』について、書いてみたら?」
友達からそう言われた。
それも、「愛されるより愛したい」(KinKi Kids)をデュエットした、その直後に。
彼女に言われる前から自分の中で最も関心のあるテーマのひとつではあったので、この機会に書いてみる。

「他者」を「他者」として愛することの不可能性、ないし困難

ごくごく個人的な経験だが、恋が芽生える瞬間には、他者との「共感」や「共鳴」があった気がする。

例えばヴェルテルとシャルロッテが、嵐の夜の風景を前にして同じクロップシュトックの頌歌を思い浮かべ、心震わせたように(ゲーテ「若きヴェルテルの悩み」)。
あるいはアムロとララァが、白鳥の死を共に見、共に悲しんだように(「機動戦士ガンダム」)。
このような深い共感、言い換えると「ひとつになれた」と感じた瞬間、「恋」が始まるのではないか。

事実上、「愛する」という行為には「ひとつになる」というイメージがつきまとう。
あくまで言語表現の上でだが、愛する人を「食べてしまいたい」と表現する語法はある時代のある文化圏ではしばしば用いられた。実際「キスする(küssen)」と「噛みつく(bissen)」はドイツ語では韻を踏む。両者は私たちが思うほどにはかけ離れていないのかもしれない(クライスト「ペンテジネーア」)。

だからこそ、難しいと思う。
「他者」を「他者」として尊重しながら「愛する」、ということが。

「ふたりでひとつになれちゃうことを/気持ちいいと思ううちに/少しのズレも許せない/せこい人間になっていた(B'z「LOVE PHANTOM」)」経験が、僕には数え切れないほどある。

本当の愛ではなかったのかもしれない。多少乱暴な言い方になるが、「疑似他者」=「私」に対する愛、つまり自己愛の延長でしかなかったのだろう。

「他者」に擬態させた「私」。
「他者」の中の「私」。
「他者」に投影した「私」。

そんな疑似他者へのナルシズム的な愛を、いくつかに分類してみる。

ー「他者」を自己の延長とみなす「愛」
(例 アクセサリー=自分を飾る道具としての恋人)

ー「他者」を自己と同一視、同一化する「愛」
(例 ペアルック?)

ー「私」で恋人(「他者」)を満たしたい「愛」
(例 啓蒙主義の時代の、「教育」を通じた「ピグマリオン」制作)

ー恋人(「他者」)で「私」が満たされたいという「愛」
(この時の「他者」とは多くの場合、「私」が創るイメージ、「疑似他者」=「私」に過ぎない)

下世話な話になるが、「他者を他者として愛する」ことが不可能だとしたら、その不可能性は性交という行為に凝縮されていると思う。
その瞬間両者の身体は密着し、文字通り「ひとつ」になる。抱き合った二人は互いの身体の境界を侵犯し合い、境界自体が限りなく曖昧になる。消滅したかとすら思える。
しかしその一方で、「私」はどこまでも「私」で、他の誰とも混ざり合わないことも気付かされる。他人の身体という異物と接触した瞬間、「私」の身体の輪郭、外郭はかえって明確に意識させる。私たちは「ひとつ」になった瞬間、最も「ひとり」なのだ。

「ひとつ」になった時の「ひとり」、合一の中の孤独。それに耐えられない弱い心が、「愛」ではない「愛」を生み出すのかもしれない。

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