枯れ落ちる秋の葉と忘却の冬(『枯葉』比較論考)
ここ数年のカラオケでの冬のレパートリーのひとつに、イヴ・モンタンの「枯葉」がある。
フランス語のシャンソンなので歌う人が少なくブルーオーシャン状態で楽しむことができ、ウケもいい。デュエットしてくれる友達もいる。
だからこそ、無反省に歌い捨てるのではなく、より磨くために、この歌曲について考察してみる。
特に今回は、このスタンダード・ナンバーの数あるパフォーマンスを①フランス語歌唱(「オリジナル」)、②英語版歌唱に分類し、下記二点を主眼に考察したい。
(当初はマイルス・デイヴィスやビル・エヴァンスのインストゥルメンタルのパフォーマンスや、スキャットが多くより「器楽」的なサラ・ヴォーンも扱いたかったが、少々テーマが広がり過ぎるので次回論じたい)
1、季節感(時間感覚)
2、「私」はどこにいるか?
①フランス語歌唱(「オリジナル」)
まず、僕がカラオケでよく歌うバージョンから。
まず断りを入れなければならないが、これはいわゆる「オリジナル」ではない。もともとこの曲はバレエの伴奏用音楽で歌詞はついていなかったし、後に映画の挿入歌に使われたことがきっかけで歌唱曲として歌い継がれることになるが、最初期のモンタンのパフォーマンスはヴァースがまさに「語り」として処理されていて、よく知られている(カラオケに入っている)バージョンとは印象がかなり違う。
しかし今回は、英語版との比較で「原語」版という意味で、「オリジナル」と呼称する。かなり乱暴ではあるが。
フランス語版の歌詞をゆっくり読むと、「音」と「時間」がライトモチーフになっているような印象を受ける。
枯葉が地面に落ちる「音」。
北風が落ち葉を散らす「音」。
寄せる波が地面をさらう「音」。
こうした「音」が立ち上がる様が、音数が詰まったヴァース部分で語られる。囁きにも似たその語り自体が、葉音や波音を再現するかのように。
しかし「音」とは消え去っていく、「時間」的なものである。音と共に季節は移り、忘却が訪れる。
太陽が今よりもっと輝いていた頃咲き誇っていた幸せの日々は、葉が落ちるとともに落日を迎え、枯れ果てる。
北風が落ち葉を散らした後には、忘却の寒い夜が訪れる。
(恐らく夏に)浜辺ではしゃいだ恋人達は今では別れ、その足跡は波音と共に消える。
すべて消えていく。風と波、時間の流れと共に。
しかし「私」は忘れたくない。「君」が歌ってくれた歌、二人に似つかわしいあの歌が、二人で過ごした甘い日々を呼び起こしてくれる。
僕がこの曲を歌う時は、なるべく「歌い上げない」ようにしている。波が恋人達の跡をさらってしまうような哀愁の余韻が、ふさわしいと思うのだ。
②英語版歌唱
後に付けられた英語の歌詞も、基本的なストーリーは変わらない。
秋の終わり(冬の始め)、落ち葉を見て男は恋人のこと、彼女と過ごした夏の日々を思い出す、という筋。
しかし注視すると、フランス語の歌詞とは随分違うことがわかる。
構造面で見ると、フランス語版の長いヴァース部分がそっくり削除され、「サビ」の部分だけになっている。そのためストーリーを物語るというより、「私」の心情を吐露する感傷が顕在化している。フランス語版より音数も語数も少なく、歌うとよりゆったりした印象になるため、ますます感傷的に聞こえる。
ライトモチーフもフランス語版とは異なるように思われる。それは「色」と「肉体」だ。
赤と金の落ち葉。
日焼けした手。
短い歌詞の中に、色にまつわる情報が詰め込まれている。色に言及しないフランス語版より、図像性が高い。
そして、恋人の「肉体」。
夏の唇にキスした思い出。
日焼けした手を握った感触。
フランス語版では恋人とのつながりは「歌」で表されていたが、英語版では肉体的な接触、「触覚」が語られている。
フランス語版のライトモチーフだった「音」が時間経過と共に消え去るものであるのに対し、「図像」「肉体」は空間的なもの、時が流れても留まるものである。
もちろん葉の色は季節(時間)によって移ろうし、愛しい人の肉体に触れることはもはやなく、「私」の思い出の中にしかないのだが、その思い出の中での存在感というか、色鮮やかさは随分違うだろう。
ところで、英語の歌詞の中で、「私」はどこにいるのだろう。
冒頭で歌われている。
「落ち葉が私の窓の側で舞っている」
ということは屋内にいるのだ。
家の中から窓という「フレーム」を通して、「私」は風景を、そして思い出を見る。その思い出は時間経過のある「動画」ではなく、「写真」なのだ。いかに色鮮やかに撮られようとも、「生きて」はいない。あの時彼女と「触れ合った」感触を想起しようと試みるが、彼女の唇も手も、「見る」ことはできてももはや「触れる」ことが出来ない。
僕の印象では、フランス語版の「私」は彼女と別れてからまだ日が浅く、彼女との日々が「過ぎ去っていく」只中で歌われている気がする。一方英語版では、もはや「過ぎ去ってしまった」のではないか。別れの日から夏と冬を何度も繰り返し、その度に彼女との日々を思い出す。長い月日が思い出を一枚の写真にまで凝縮してしまった。
ここからは僕の想像だ。
かって恋人と過ごした土地に、あれからずっと留まっている。海沿いの小さいコテージ。窓際の椅子でコーヒーを飲んでいると、秋の葉が落ち、風に吹かれて舞う様が眼に止まる。落ち葉の色鮮やかさに見とれているうちに、赤い葉が彼女の唇を、あの日の海と砂浜を思い出させて、意識が「あの日」にトリップする。それを毎年繰り返すうちに、思い出という写真の中でいつまでも若い彼女と同様に、年老いた「私」の時間も止まってしまった。
英語の「枯葉」は実は歌ったことがない。少々間延びしているというか、甘ったる過ぎるように思われて敬遠していたのだ。
しかし今回分析してみて、バックグラウンドを膨らませるとなかなかに深みがある気がしている。
来年は、挑戦してみてもいいかもしれない。
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