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試し行為と愛着障害

「もういい。知らない」と言って家を出て行く。
相手が追いかけてくるか後ろを気にしながら。

過去何度似たようなことをしただろうか。

今でいうなら、「メンヘラ女」の面倒臭い言動でしかない。
「かまってちゃん」とも言えるかも。

私が初めてそのような類の行為をしたのは、とても昔のこと。
たしか、幼稚園か、小学生の低学年の頃だったと思う。

私には姉がいる。
幼い頃からいつも母に「お姉ちゃんと私どっちが好きなの?」と何度も聞いていた。
母が、「あまちゃよ」と答えるたび安心していた。

ある日姉が私の名前入りのお茶碗を割ってしまった。
私は怒ったが、母はすぐに姉を庇った。
それが、私の心を大きな絶望と悲しみに包み、
真っ黒な何かに呑み込まれる気持ちがした。

…やっぱり、お姉ちゃんの方が好きなんだ。

数日後私は、自分の名前入りのスプーンを持ってゴミ箱の前に立っていた。

「おかあさん、このスプーンすてちゃうよ」

何度も言った。

母は「捨てたいなら捨てなさい」と言った。
私はスプーンをゴミ箱に捨てた。
胸がすこし、キュッとした。
自分の名前入りのスプーンに私はきっと自分自身を重ねていた。
きっと母は後でそっと拾って、元に戻しておいてくれるはず。
そう信じていた。
だって、おかあさんは私のことが家族で1番好きって言ってたから。

予想に反して、母がそのままゴミに出してしまったことに気付いたのは数日後だった。

どこを探してもわたしのスプーンは無い。
ゴミ箱の袋は取り替えられている。
焦って母に訊ねた。

「あまちゃが捨てたんでしょ、要らないんでしょ」

その返事はあまりにも正当で、あまりにも苦しくて、私は大泣きをした。
嘘だと思いたかった。
なんで捨てるの、と怒りながら泣き続けた。

この出来事を書いて、これを読んでいる人はどんな気持ちになるだろうか、と思った。
面倒臭い子供。
ワガママな子供。
意味が分からない。
色々と感想があるかも知れない。

私は愛されているか確認をしたかった。
わざと「要らない」と「自分自身の身代わり」を捨て、それを「そんなことないでしょ」と拾って欲しかった。
なんて屈折した愛情の求め方なんだろう。

その思考を持ち育った私は、当たり前に大人になってからも人間関係でたくさんの問題を抱え、苦しみ、勝手に自分自身を傷つけ、周りの人を傷付けた。

最近になって「愛着障害」という言葉を知った。
これは大人に診断されるケースはまだほとんどないらしくもちろん私もその診断は受けていない。

だがとあるサイトにこういう診断チェックがあった。

「反応性愛着障害」として医学的に診断を受ける大人はあまりいないかもしれません。しかし以下のような困難や生きづらさの当事者で、その背景を幼少期の養育や愛着(アタッチメント)形成のなんらかの不全にあるのではないかと考える人もいます。


安定した人間関係を築くことに不器用さがあり、結果的に仕事やプライベートでトラブルを抱えやすい

精神疾患を発症しやすく、発症した場合、重くなったり長引いたりしやすい

感情のコントロールに困難を抱えている

自分を肯定的に見ることが苦手

「全か無か」思考になりやすい

微熱や胃腸の症状が続く、疲れやすいなどの自律神経系のアンバランスがある

自分の生理的欲求(空腹など)がわかりにくいことがある

発達障害と似た症状がみられることがある

ほぼ全てが当てはまる自分はもしかしたら愛着障害なのかもしれない。

病名が増えることを望んではいない。正直もうたくさんだ。
でも、私だけが変なのではないか、という生きづらさから救ってくれる。世の中には同じような人もいるんだよ、と。

愛着障害については勉強不足なのでこれ以上言及しないけれど、今どこかでわたしと同じ苦しさを抱えている人が居たら、その人に届いたらいいなと思う。

そして人間関係の構築が人並みにできる人間になりたい。

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