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「死ぬ気になりゃ何でもできるだろ?」って簡単に言ってしまう自称成功者の心理③

 お久しぶりです。毎日投稿を掲げていましたが、なかなか難しいものです。
 しかし、これはこれでいいのかもしれない。
 前回までで、生育環境や様々な人間関係で、ある人は人生のメインストリームから外れ、アイデンティティを確立できずに、停滞してしまうこと、しかし、そうなったとしても人は人生に自分なりの幸福をみつけたいと思う生き物だと思うことを書かせていただきました。
 
 幸せになりたくない人など、世界のどこにいるのでしょうか?私はいろいろな人を見てきましたが、一人として、「幸せになりたくない人」を見たことがありません。世界中には様々な人間がいて、我々が想像できないような生活を送っているでしょう。
 使い切れないお金を手にして、それでも尚、富を求めて躍起になっている人もいる。
 周りから見たら何不自由ない生活を与えてくれる夫に恵まれながら、陰では、その夫にDVを受けていることを隠し通している女性がいる。
 難病と診断され、体の痛みに耐えながらも、心の平穏を求めて、田舎に移住し、心豊かに静かに暮らす人もいる。
 大金を得たいがために、銀行の襲撃を企て、うまくいかず刑務所にいるものもいる。
 ホームレス生活者が、元の生活に戻りたいか?と問われても「戻りたくない」と答える。
 
 全ては、その手段や結末はどうあれ自らが望む幸せに向かって、動いた結果、本当にいろいろな人生になってしまっただけであって、皆、「自分の幸せ」を求めて動いたのだと思います。

 つまり、その人でない限り、その人の真の幸せを完全には理解できないし、一見、その人が幸せに見えなくても、その人は自分の幸せを手にする過程にいるのかもしれないなんて、他の人には簡単には理解できないのである。
 
 それと同じことが「死ぬ気になる」という考え方を簡単に判断してはいけない理由なのだと思う。
 
 俗に言う、昭和に現役世代だった方、いわゆる親世代の方は、これ以上ないほどに頑張って、努力し、生産性を向上させた、という意味で
「死ぬ気になって働いた」と言います。
 そんな方々は、今現在、20代から40代くらいの人が「死にたい」「生きる気力がなくなった」という言葉を自分達のころの、「死ぬ気になった」と混同しているのではないかと思います。
 「死にたいのか、じゃあ、死ぬ気になって一から頑張れよ」みたいな言葉に直結しているのだと感じて仕方ありません。
 「決死の覚悟」と「生きるエネルギーが枯渇したためのスイッチオフ」の違いが、親世代にはわからないのだと思います。
 
 何故なら、今の若者(と言っても、18〜45才くらい)の置かれている環境が、昭和親世代のものとかけ離れているので、そりゃ想像つかないのも無理はないほど違うからです。

 少子化の煽りを受けて、今の若い人達は一つのクラスの人数が少ない。これは一見、簡単に見えますが、ほとんどの人間が顔見知りというのも、しんどい人にとってはしんどいでしょう。人数が少ないほど、人間関係が複雑になることも多々ありますからね。
 スマホやPCがある。これはいつでも連絡が取れる環境だともいえますが、スマホがなかった時のように、学校や職場から帰ったら、次の日まで、その場所で出会う人には会わないのが普通だった頃と比べると、いつでも連絡できてしまう環境とも言えます。グループラインや社内のライン、そんな見たくない、スルーしたい連絡さえ、なかなか無視できない状況にあります。

 そして、やはりSNSがあると言うのは、精神的にあまり良いものではありません。
 
 人はSNSによって、どのように精神を蝕むのか、次回、その様子に少し触れてみたいと思います。

私が今、表現できる限界を見ていただけたら幸いです。ご期待に応える努力を惜しみません。よろしくお願いいたします。