離婚と遺言

私は夫とはまだ離婚が成立していない。

日本と違ってこの国では、離婚するためには裁判所を通さなくてはいけない。キリスト教徒にとって、婚姻というのは、日本人以上に神聖な結びつきだと取られているんだろうと思うことがある。何と言っても、離婚には理由が必要なのだ。

理由を作るために、この国ではほとんどのカップルが2年別居する。2年間の別居は離婚の理由にはなるけれど、実際には別居しなくても、理由さえ作り上げて双方が合意すれば離婚ができるのだと気がついた。みんな知らないのかもしれない。あるいは知ってても合意が難しいから別居するのかもしれない。何と言っても理由を挙げるためには、片方がもう片方を責める形にならなくてはいけない。リレーションシップがうまくいかなくなるときは、どちらか一方のせいではなく、両方の責任でうまくいかなくなるのに、こう言う仕組みになっているのはおかしいし悲しいことだよねと、離婚した友達が言っていた。

そして離婚と財産分与は、また別のプロセスらしい。普通この国では、離婚すると財産は折半となる。ただし私たちは、結婚して1年数ヶ月しか一緒にいなかったので、ここまで短い結婚生活では、折半せずにお互いの名義の財産を持ち続けると言う形をとることになるそうだ。おかげで結婚前に買った家を売らずにすみそうで、私は本当にほっとしている。長いこと結婚生活を送らずに夫が出て行って、まさに危機一髪だったと思った。うっかり5年も6年も我慢して彼と暮らさなくてよかった。そんなことをしていたら、彼は私のお金で永住権もとって、さらに私の家も半分手に入れて、万々歳で離婚したことだろう。

逆に、彼がビザ目当てお金目当ての結婚詐欺だとしたら、それが王道だったはず。どうして1年ちょっとで出て行ったのだろうかと不思議でたまらない。Cは、夫が妄想癖があるに違いないといい、自分の勝手な思惑通りに世の中が動くと勘違いしていたんだと言う。そうかもしれない。でも、どこかで私はまだ、夫に愛があったから結婚したんだと思いたいところがあって、Cが夫をビザ狙いだと言うたびに、静かに傷つくのだ。

それにしても離婚には時間がかかる。私たちは双方が離婚に合意しているから、特に裁判で争う必要なんてないのだけど、手続きだけでも半年以上かかる。最初に送られてきた書類に、私が雇った弁護士が返信してからすでに4ヶ月以上、何の音沙汰もない。どうやらそう言うものらしいと言うから放置しているのだけど、最近になって恐ろしいことを聞いた。私が万が一死んだりしたら、夫は私の財産を相続する権利があるのだと言う。離婚の手続きが済むまでは、彼は法律的には私の夫だし、離婚の手続きが済んでも、「彼が」再婚するまでは、法律的には彼にも権利があって、裁判に持ち込めるのだという。私が再婚してもダメなのか?とか、いろいろ頭の中にクエスチョンマークが浮かぶのだけど、電話で相談した弁護士の早口の法律用語は、私には半分くらいしか理解できなかったので、詳しいことはわからないながらもとりあえず遺言に残しておく方がいいと言う結論に達して、遺言のパッケージを取り寄せた。

そしてはたと困ってしまった。夫には財産を残したくない。でも、じゃあ誰に残すのだろう?日本にいる両親に?はたまた弟に?

身近に家族のいない寂しさが、しんしんと小さな音を立てて迫ってくる気がした。私には子どももいないし、これといって寄付したいチャリティーとかもない。友達が冗談で、あんた、猫を飼う団体とかに寄付しないでよって言ってたけど、正直言って、苦労して手に入れた家を、どんな風に運営されているのかもわからないチャリティーなんかに譲る気もないし、ましてや国に没収されるなんてのも嫌だ。

譲る対象としては「パートナー」が一般的のようだ。そう。私も、Cに何かを残せるなら残したいって思っている。でも一方で、私はいつまでCと一緒にいられるんだろうと思ってもいる。失う恐怖が大きいのだ。そして、自分が好きになった人となんて続かない、とも思ってる。好きな人と一緒にいて、だんだんと嫌われる恐怖を味わうくらいなら、今ここで関係を壊してしまった方がいい、くらいに思っている。そんな恐怖を誰のせいで、どこで植え付けてしまったんだろう。

遺言のパッケージを見るたびに、今やらなきゃ、やらなきゃと気持ちは焦るのに、何を書いていいのかわからない。そんな自分がいる。もっと年をとって、自分が死にそうな時に、実際には誰を愛していたのか、もっとわかるようになってから遺言なんて書くものなんだと思う。だけど、死はいつやってくるのかわからない。悲観的だなあと自分でも思うけれど、それが本当のことで、特に私のように身近に家族がいないものは、国家に没収されないためにも、遺言は残しておいた方がいいのだろうと思う。

日本の財産は両親と弟、それに従妹に残すつもり。だから、血の繋がった家族には悪いけれど、この国の財産は、私の一番好きな人に残させてもらおうと思う。

いつまでCと付き合っていられるんだろう。本当にCの名前をここに入れていいんだろうか。病院の緊急連絡先は、まだ空欄のままだ。夫が出て行ってから、私は文字通り、この国では天涯孤独扱いになったのだ。Cは私をどこまで引き受けてくれるんだろうか。これは、Cに対する私の信頼の問題なのか。それとも、Cを愛する自分の気持ちに対する信頼なのか。

今、この時点で、世界で一番大好きな人はCなのだけど。

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