母の指輪

今年の一時帰国では、私は母の宝石と着物をもらって帰ろうと決めていた。いつも身軽に旅行するのが身上の私としては珍しく、大ぶりのスーツケースで日本に帰ってきた。中身はスカスカ。帰りに着物を入れて帰るつもりだったから。

母は去年の秋から介護付き老人ホームに入っている。60代半ばで病気をしてから、母はずっとどこかが痛いと言っていたが、どこも悪いところは見つからず、様々な病名がついた。自律神経失調症、という病名が一番長くついていたのかもしれないが、程なく抗うつ剤を処方され、やがては、典型的な痴呆の症状が出てきた。ありさがテレビに出ていると言って、女子アナを指差しては喜んでいたというが、ご近所に出かけて行っては、有ることないこと言いふらして帰ってくるらしかった。そのうち父との会話が成り立たなくなり、夜中に徘徊するようになり、排泄に粗相が出るようになり、父は白旗を揚げた。

正直言って、共倒れにならないうちに父がギブアップしてくれて本当に良かったと思っている。70歳を過ぎてから、父は体の衰えを気にするようになった。私から見ればまだまだ若いのに、もう歳だから、が口癖になった。思えば、父の父、私の祖父は70歳で亡くなった。自分の父の年を超えてしまったというのが、驚きとして体に現れているのだろうか。前立腺肥大や心臓の持病が見つかり、痴呆以外は元気そうにしている母と対象的に、頭ははっきりしているのに体が追いつかない父。歳をとって気が短くなって、お母さんにも怒鳴るようになってしまったと悲しそうに言っていたが、おそらく体の効かない自分に腹を立てていたのだろう。自分が近くに住んでいない後ろめたさから、両親とは付かず離れずの距離でいようとしていた私だったが、もうそろそろ大人になって、両親と過ごす時間をもっと大切にしなくてはと思うようになった。

私と両親との関係は、お世辞に言っても近しいものとは言えなかった。感情を表すのが下手な父と、短気で口の悪い母。感情の起伏が激しい私と両親は、いつもぶつかってばかりだった。私と反対に優しくておとなしい弟は、両親ととても上手く行っているように見えたのだけど。弟が両親の面倒を見るはず、と勝手に思い込んでいたが、あては外れて、親元から離れて行った大学の近くで、弟は就職し所帯を持った。私が家の近くに住んで仕事をしていたら何も問題はなかったのに、私は海外に出ることを選んだ。親を捨てた娘、というレッテルを自分に貼った私は、本当は罪悪感で押しつぶされそうだったのだ。申し訳なくてたまらなかった。親を喜ばす生き方ができない自分を、心の底では責めていた。一時帰国の度に親孝行してみようと、旅行しようとかご馳走しようとか言ってみたけど、両親はどちらも浮かぬ顔をして乗ってこない。なかなか親を喜ばせられない自分と、自分の提案をなかなか喜んでくれない親との両方にイライラしていたが、本当のところは、親は私のことを認めてくれていたのだ。私が、私の好きな生き方をすることを、受け入れてくれてくれていたのだ。私が親孝行などする必要はなかったのだ。

お母さんの着物と宝石をもらいたい、と言ったとき、父は驚いたようだった。そりゃそうだ。まだ母が元気なのに、形見分けをして欲しいと言っているようなものだから、失礼だと思われても仕方がない。だけど私は、母がもう宝石も着物も身につけることがなくなったであろう今、少しでも長くそれらを私が身に付けたいと思っていた。伯母の時の後悔もあった。母の姉で私を可愛がってくれた伯母が亡くなった10年前、私はビザの申請中でお葬式に帰ることができなかった。呆然としながら日本に帰った数ヶ月後、私は考える余裕すらなかったが、気がついてみると私は伯母の形見を一つももらえなかった。生前何度も約束された、着物も宝石も、全部親戚が売ってしまったという。執着があったわけではないが、伯母を偲ぶ形見が私のところに一つも残らなかったこと、誰も形見分けの声をかけてくれなかったことは、苦い教訓になった。人の死とはそういうものなのだ。どんなに望んでも、亡くなる時にそばに居られるとは限らない。約束したことが起こるとは限らない。何事も「業者に任せておけばいい」が口癖の父が、母の持ち物を全部始末してしまう前に、何としても母のものを手元に引き取りたかった。

母を訪ねたのは、ホームのおやつの時間だった。このホームに入居しているのはほとんどが女性。母がどこに座っているか一瞬わからなかったくらい、母の横顔は変わっていた。この1年ほどで驚くほど痩せ、髪も短く切り、つやつやしていた丸い頬はへこんでいた。ありさが帰ってきたよ、と父が声をかけても、母の視線はテレビから動かない。おやつのケーキも、半分も食べずに残すようだ。カップに残っているミルクティーを、ほら飲んでごらんと促したが、母はイヤイヤと首を振った。

足腰が弱ってしまうからと、父は嫌がる母を連れ出して階段を歩かせた。火曜日の午後、ホームに訪ねてきている家族は私たちだけだった。ホームの職員さんが、旦那さんは毎日来て外までお散歩に連れ出しているんですよ、と教えてくれた。あんなに頑固に嫌がる母を外まで連れ出すとは、相当辛抱強く説得したに違いない。若い頃、単身赴任で家族と暮らす時間が短かった父は、今や母のために生きる人になっていた。母がホームに入り張り合いを無くすかと思ったが、別れて暮らしてもなお、母のために生きているのだった。

母の口からは、結局、私の名前は一度も出なかった。

私は一人で桐箪笥を開けた。何がどこにしまってあるのか、全くわからなかった。上二つの引き出しは帯だった。その次には下着や小物。着物が見当たらない、と言ったら、父が上の箪笥を開けて見ろという。こちらが着物類だった。

スポーツ万能でおてんばだった母が、着物なんて身につけているのを見たことがない。黒留袖や喪服姿は見たことがあったが、母が着物なんて持っているのかどうかすら、私は本当は知らなかったのだ。

果たして着物は一枚一枚、紙にきちんと包まれていた。その紙に印刷されているのは、着物好きだった伯母がご贔屓にしていた日本橋の呉服屋の名前。その紙の片隅に、小さな鉛筆書きで着物や帯の種類が書かれている。「付け下げ、グレー」「小紋、オレンジ」「おしゃれ織、帯」「名古屋帯、グリーン」これは、母の字だろうか、伯母の字だろうかと私は思いを巡らせた。母だけでなく伯母の名前が書いてあるものもあった。全て売り払われてしまったと思っていた伯母の着物が残っていることを知って、私の頬は熱くなった。着物をきっちり着こなし、お化粧をして出て行く伯母の顔が目に浮かんだ。お気に入りだったシャネルの5番が遠くから香ってくるような気がした。

母がこんなにもたくさん着物を持っていたことは意外だった。この呉服屋のものなら、きっときちんと仕立ててもらったものに違いないし、安いものとは思えない。母は若い頃、給料を少しずつ貯めては、こうやって着物に費やしていたのだろうか。それが母が若い頃の、日本の娘のたしなみだったのだろうか。

父は母の化粧だんすから宝石箱も出して見せてくれた。母は着物同様、宝石にもさして興味がないと思っていたので、思った以上の数に驚いた。ほとんどは、父が昔働いていた中近東から買ってきた金細工だった。太いこれ見よがしの鎖は、遠慮した。私には似合わないし、重さがある程度あるものなら、いざという時に父が売ってもいいし、と思ったから。

指輪やネックレスのほとんどは、半貴石でそんなに高いものではなさそうだったから、私も気兼ねなくもらうことができたが、父がサファイアの指輪を持ってきた時は躊躇した。高そうだからもらうのが申し訳ない、と言ったら、誰もつける人がいないんだからいいんだよ、と父がいう。

これはバンコクで買ったんだと父が言った。あの頃は俺もそんなにお金なかったんだよ、だからそんなにこれも高いものじゃないんだよ、と父は指輪を差し出しながら苦笑した。バンコクに行った時のことは私も覚えている、私はまだ8歳くらいだったと思うから、父も母も、今の私よりも若いくらいの年齢だったのだ。子供を抱えてお金がないのも、さもありなん。それにしても、テニスとゴルフにあけくれ、日に焼けた母が、旅行中に指輪を欲しがったというのも驚きだった。

父と母が仲良くしている姿を、私はあまり記憶していない。父は若い頃は無口で、家で楽しそうに話をしているところを見たことがなかったし、母もつけつけと小言を言う女だった。お父さんはいつもお母さんに怒られている、と私は思っていた。だけど、今更になって気がつく。夫婦というのは、子どもが見ている側面だけでは理解できないということを。バンコクで、宝石屋に夫婦2人で行ったとは思えない。母は決して子どもを誰かに預けたり留守番させたりはしなかった。だからきっと家族全員で行ったのだろうが、子供たちはすっかりそんなことを忘れていた。母はどんな顔をして指輪を選んだのだろうか。父はそんな母をどんな顔をして見守っていたのだろうか。

父の駐在についていき、灼熱の国で父を支えた母。母の家族のゴタゴタに巻き込まれながらも、母の兄弟姉妹を援助し続けた父。単身赴任で20年以上も一緒に住むことなく、それでも夫婦として、2人の子供を育てた両親。そこには愛があり、信頼があり、私たちは間違いなく、望まれて生まれてきた子であり、愛されて育てられた子であることを、今更ながら思い知るのだった。

そう言えば、昔母と、このジュエリーボックスを開けて話をしたような気がする。お母さんが死んだらみんなあんたにあげるんだからね、という母に、私は腹を立てた。あの頃私は20代前半だっただろうか。そもそも、自分がきちんとした宝石なんて身につけている姿をとても想像できなかったし、何よりも母が自分の死なんて口に出したことで、私はイライラと母に怒りをぶつけた。あれから20年近い日々が経ち、私もさらりと宝石を身につけてもおかしくない年になった。そして、全ては移り変わるものであって、人も生まれては死にゆくものだということを知るようになった。

サファイアは偶然だけど私の誕生石だ。恐縮しながら指輪をもらう私に、父は、そうだどこかにオパールがあるはずだ、どこに行ったかなと、探し始めた。オパールのネックレスは2つあった。1つは白い石、もう一つは、オパールだとは言われなければわからないくらいの、深い青紫の石だった。この石は、母が伯母からもらったものだという。大事にしろよ、このオパールは高いんだからな、と父が言った。

姉が妹に宝石を贈るって普通のことなのだろうか、姉妹のいない私にはわからないが、そこにはこの世にもうない伯母が妹に込めた、愛やら感謝やら、複雑な気持ちやらがきっと込められているのに違いなかった。母がもう身につけないのであれば、このオパールをもらうのに一番ふさわしいのは自分だ、と思った。自分を娘のように可愛がり、何度も養女に欲しいと言ってきた伯母。その申し出を断りながらも、どこか伯母に遠慮していた風の母。その2人ともに反発し、結局遠い国に移住した私だったが、やっと、私も2人の「母」の思いを受け止められる時がきたような、そんな気がする。そして、母を思う父の思いも。

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