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「水筒落ちましたよ、どうぞ、、。」

お久しぶりです、よしです。
今日も夜にボランティアの研修がありました。ボランティアっていうのは子どもと関わるものです。
その帰り道での出来事です。

ホームについた電車に乗って席につき、いつものように発車を待っていたら”あの”全盲のおばさんが同じ車両に乗ってきた。(↓詳しくはこちらをご覧ください)

おばさんは前の時と同じように椅子に座ってリュックの中をごそごそ。その時だった。水筒がポロッと床に落ちた。あ、拾わなきゃ。頭で考えるより先に体が動いた。落ちた水筒はおばさんが探す前に渡すことができた。「申し訳ないです。ありがとうございます」おばさんは丁寧に言った。いやいやそんなことないよ、おばさん、、助け合いやで、、。
やっと前のやるせなさを少しだけ挽回できてよかった。が、
お礼を言われてなんだか心がむずむずした。

そのあとおばさんは前と同じようにリュックからおにぎりを出して封を開けて食べていた。

周りが全く見えないようだが他の人間と同じように当たり前のように1人で行動ができている。これって相当大変なことなのではないか。僕は思う。今日は自分の周りにも何人か人が乗っていたが、みんな一様に携帯に目を落としていておばさんに気をかける様子が全くなかった。、

これってどうなんだろう。

先日noteで、東南アジアや東アジアでは障害を持った方を助けるのが当たり前であるといった記事を見つけた。それはその土地の宗教に理由があり、助けるといった徳を積むことで極楽浄土に行けるという上座部仏教の考えがあるからだと知った。

僕はそれを読んでそういった国もあるのかと、障害を持つ人への接し方を深く考えるきっかけになった。


理想に過ぎないと鼻で笑われるかもしれないけれど、宗教的な理由とか関係なく、ギブアンドテイクとか言う損得感情なく誰もが気軽に手を貸せる社会になったらいいなと僕は思う。

障害があるから障害者なのではなく、その人その人の生活のしづらさが克服できていない社会にも問題があるのだと最近授業で学んだ。要するに、眼鏡をかけている僕も眼鏡が生まれる前の時代では障害者として扱われた、というわけだ。

この例えは大げさに聞こえるかもしれないが、生活をしている身近なところでもそんな風に感じる部分は多々ある。

年配の方や障害を持った方が1人で頑張っている姿を見るとどうしても手を貸したくなってしまう。今までの20年間でそんな場面をいくつも見てきた。その気持ちをこれからは心だけでなく行動に移していきたいと心から思った、そんな日だった。

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