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「怠学」「学校恐怖症」「学校ぎらい」「登校拒否」「不登校」③



学校のような、「ある者にある行動を強いる」機関のことを権力装置と呼ぶ。

権力装置では、その権力を使って理想的な状態を作り出すことを目的としている。

学校であれば、知識や学ぶ姿勢、集団の中での生き方などを身につけた子供を育てることをねらっている。

さて、ドゥルーズは、この権力装置について非常に興味深い分析を行なった。

「権力装置が機能するためには、人々の欲望がなくてはならない」というのだ。

どういうことだろうか。

学校を例にあげて考えてみよう。

給食の残菜をクラスごとに数値化し、ランキングにして残菜を無くそうとする取り組みを行っている学校がある。

私のいた学校では、よく行われていた。

さて、これは残菜をなくすために行っている方法である。

しかし、この方法を行っただけではうまくいくとは限らない。

この方法が機能するためには、ランキングが発表された子供たちが「え、うちのクラス1番残菜多いじゃん!はずかしい!(だから残菜を残さないようにしなくちゃ!)」と思わなくてはいけない。

子供たちの中の恥ずかしさを駆り立てるからこそ、残菜ランキングシステムはうまく駆動し始める。

では、逆に子供たちが「別に、残菜が出てもよくない?」と考えていたらどうなるだろうか。

当然、ランキングを発表したところで残菜を無くならずに、取り組みは何の意味もなくなってしまうだろう。

ドゥルーズは、権力装置がうまく機能するためには、その前提に人々の「欲望」があるのだと考えた。

(その点において、権力は上から押し付けられるのではなく、権力は下からも発生するのだと考えたのがフーコーである)

逆に、人々の「欲望」(のアレンジメント)が変わってしまえば、権力装置は途端に機能しなくなる。

権力装置は常に、人々の欲望に対応しながら、その方法を変えていかなければいけないということになる。

けれども、現在生じているのは、急速に人々の「欲望」が変化しているという事態である。

この飽食の時代にあって、大量の食品が当たり前のように捨てられていく光景にすっかり慣れた子供が、残菜を数値化させられたところで、何も感じないのは当然のことだろう。

また、そういった数値化による露骨な競争をさける雰囲気もある。

学力テストの順位を廊下に張り出すということは、一般的な学校であればしなくなったのもその一例だろう。

この20年間、テクノロジーの目覚ましい進歩があり、生活が変化し、それに伴って新しい価値観が急速に形成されてきた。

特に、このコロナ禍によって生まれた変化は凄まじい。

すでに揺らぎつつあった「学校に行かなければいけない」という価値観が、さらに大きく揺さぶられる期間だった。

しかし、学校側はその価値観をアップデートしていない。

割と少なくなってはきたが、不登校の子にクラスが手紙を書く登校刺激が未だにある。

そして、それを嫌がる子は意外に多いのである。

教師は「学校に来ることは良いことだ」と考えている。

一昔前はそうだったかもしれない。

しかし、「学校に行かなければいけない」というエートスはかなり無くなった。

人々の欲望は、時代に合わせて急速に変化している。

相対的に、学校の変化は遅くなる。

今まで通用してきた方法が、途端に機能しなくなる。

そうして残ったのが、残菜ランキングや不要な登校刺激といった、(相対的に)時代遅れな統治システムである。

こうして、ストレスフルな状況が生み出されてきたのがこの20年間なのではないか。

つまり、現在生じているのは「欲望のズレ」なのではないだろうか、と私は考える。

ここまで書いて、時代についてこれない学校が悪者であるかのような書き振りになってしまったが、それも結局「わかりやすい一者へ原因を求めるタイプの論」であって、私の意図するところではないということを、付け足したい。

バランスを取るために学校の擁護をするのであれば、現在生じている人々の「欲望」の変化の量および質は、あまりに急激である。

そこでは、あらゆる統治権力が相対的に時代遅れにならざるを得ない。

反対にいうと、他の統治システムがあまりに巧妙に人々を管理するようになってきている、ということでもある。

(次に続く)

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