見出し画像

アルパカ社長物語

注意‼
※以下長文で、自己中心的な表現を含んでいるので不快になるかもしれません。また、精神状態に影響を与える可能性もあるので下記の方はお控えください。
・精神疾患をお持ちの方
・体調のすぐれない方
・怒りっぽかったり、感情が過敏な方


アルパカ社長は泣き虫でした。今もです…。


姉と妹に挟まれて産まれた幼き頃のアルパカしゃちょは戦隊ヒーロー系のTVが大好きで、正義のヒーローになりたかった。とにかく強くなりたかった。近所の年上の少年としょっちゅうケンカした。理由は何でもよかった。いつも泣かされていた。勝ちたかった。


ある夜、上に姉が眠る二段ベッドの下の段で眠れずに泣いていた。両親の間に眠る妹に嫉妬していた。強くなろうとしている自分をもっと見て欲しかったのかもしれない。


それだけで済んでいたら私の人生はまた違ったものになっていただろう。


いつの事なのかはっきりと記憶にはない。両親と両祖父母がなぜか家に集まってきて何やら深刻そうに話していた。内容はわからない。とにかく重苦しい空気に耐えられずにわざとふざけたりした。胡坐で床に座っている父の懐に飛び込んだ。「ジッとしとれ」と思いっきりゲンコツで殴られた。耐え難い空気と叱られたことに泣きそうなのを必死に堪えていた。


それから数日すると知らないところへ「お泊り会」だと言われて兄弟共々連れていかれた。そこには年齢の違う子供達が20人くらいと数人の大人がいた。何日そこで過ごしたかは記憶にない。両親が迎えに来るのをまだかまだかと待っていた。そこにいた大人に聞くと「後〇日だよ」と教えてくれた。無邪気な私はそこで一番の年長であろうお兄さんに「○○君のお父さんとお母さんはいつ迎えに来るの?」と聞いた。しばらく沈黙して笑顔で「来ないよ」と言われた。意味がわからない私は「なんで?」「帰りたくないの?」としつこく聞いた。それでも「僕にはお父さんとお母さんがいないんだ」と目に涙を貯めながら笑顔で教えてくれた。誰とどんなにケンカをしようと絶対に謝ることが無かった私が「ごめんね」と振り絞るように声にした。声は震えていた。許してもらえるかどうかわからない、とんでもない恐怖に襲われていた。彼は「いいよ」と笑顔で許してくれた。そして「遊ぼっか」と誘ってくれて積木で遊んだ。途中彼は何度も目に涙を貯めていた。そのたびに恐怖に襲われて「ごめんね」と謝り続けた。彼が私を責めることはなかった。でも私のやらかしてしまったという罪悪感が消えることは無かった。今でもだ。それでも私は彼と一番の仲良しになれた。


それからしばらくすると迎えが来た。素直にやっと帰れると思うと嬉しかった。すっかり彼に懐いてしまっていた私は父に「今度はいつここに来るの?」と楽しみに聞いた。「もう来ないよ」と言われた。意味がわからない私は「なんで?」と問い詰める。「来ないのがあんたらのためだ」と言った。意味がわからなかった。父はここへ来ないことの方が幸せなんだということを言っていた。また来たいと思う私は「じゃあ帰らない」と言い張った。これには大人たちも苦笑いだった。それでももう帰らなきゃいけないことを徐々に受け入れ始めると一番仲良くなった彼とのできごとが一気に頭に巡り涙が溢れた。彼を傷つけた罪悪感もぶり返して涙が止まらなかった。見送りに出てきてくれていた彼も泣いていた。帰ろうとしない私を見て彼は奥へ行ってしまった。きっと私に気を使ってくれたのだろう。


どうやらそこは児童養護施設のような場所だったらしい。それを知るのは何十年も後のことだ。


施設を出ると見たこともないアパートへ帰った。父から「今日からここがお家」と教えられた。以前のアパートはボロボロだったので新しい家が嬉しかった。でも帰ったらいると思っていた母がいない。父に「お母さんは?」と聞く。「もういない」「もう帰ってこない」「あんたらを捨てて出ていった」と容赦なく言い放った。その時は真に受けていなかった。そんなわけあるかという思いだった。毎日のように「お母さんいつ帰ってくるの?」と父に聞いたが同じ答えが返ってくるだけだった。日が経つにつれ封印するようにこの時期の記憶を失っていった。毎晩おねしょをするようになった。これが夜尿症という病だったこともこの時期の記憶を失っていたことに気付くのも随分と大人になってからのことだ。


記憶を失った私は相変わらず正義のヒーローに憧れ続けていてケンカばかりしていた。蝶々を乱暴に捕まえようとした園児をいきなり殴ったりした。先生にも父にも叱られた。謝らされた。殴った理由をハッキリと人に伝えることができなかった。叱られるだけで恐怖に縛られるようになっていた。それでも正義のヒーローへの憧れは消えていなかった。小学校に入っても野良犬をイジメる少年を問答無用で殴り飛ばした。理由を説明しないのでやはり叱られるのは私だった。仲が悪かったわけではない、一緒につるんで遊んだりもした。


いつしか正義のヒーローの方向性を見失うようになっていた。善悪の境界線がおかしくなり始めて万引きをするようになっていた。より大きいものを盗んだ方が勝ちだとか言って競い合った。修行と称してマンションの階段の塀の外側をよじ登ったりした。


ある日野良猫にも修行をさせてみようということになった。修行とは猫を高いところから落とすことだった。マンションの3階まではうまく着地していた。次の4階から落とした後その野良猫は片足を引きずり全速力で逃げていった。骨折していたのだろう。もはや善悪の区別がつかないところまできていた。それから数日後子猫を見つけた。また修行をさせることにした。まだ小さいので低いところから始めようと2階の手前1.5階くらいのところから落とした。子猫は聞いたこともないうめき声をあげながらのた打ち回った。一気に自分の血の気が引いていくことがわかった。心の中で「死なないで」と必死に祈った。その願いも叶わず10分ほど経つと動かなくなった。自分がしてしまったことの恐怖に震えが止まらなくなった。なぜか寒くてしょうがなかった。鏡を見ると水風呂に入ったあとのように唇が紫色に変色していた。生まれて初めて「死」というものを本当の意味で理解できた瞬間だった。正確に言うと殺すということの意味だろう。


それからの私は自分で悪いことだと判断できることは全て止めた。万引きなんかもちろんだ。償うようにいつも自分が何か悪いことをしていないか確認するように自問自答した。悪いことをしようとすると子猫のことが頭をよぎる。道端にガムの包み紙も捨てられなくなった。家事の手伝いだって前にも増してするようになっていた。このままでは地獄に落ちてしまうと本気で思っていた。


夜尿症は小3くらいまで続いていた。その頃にはなぜ自分に母がいないのか知らない状態になっていた。自分には母がいないものなのだと信じ込んでいた。


ある日学校のクラスで友達の名字が変わるということを知らされた。友達に「なんで変わるの?」と聞いた。「離婚するから」だと知らされた。「りこんて何?」と聞いた。どんな説明をされたか記憶にないが薄っすらと離婚の意味を理解した。同時に自分の母親がいないのも離婚によるものだと悟った。


学校から帰った私は父に問いただした。「うちにお母さんがいないのって離婚したからやろ?」と冗談めかして言った。「そうだよ。あんたらの母親はあんたらを捨てて出ていった悪魔だ」と教えられた。離婚協議の上、妹だけなら連れていくと言っていたらしい。実際には父が兄弟をバラバラにするのを否定したため私達は父に引き取られた。それからというもの自分の母親のことを本気で悪魔だと、最悪の人間だと信じ込むようになっていた。なぜ母親がいないのか聞かれれば父と同じように答えるようになっていた。自分を捨てて出て行ったんだと説明した。


子猫を殺してしまったことの償いと母が悪魔だと信じ込むことで私のひねくれた正義感は日増しに強くなっていった。同時に私の日常は父がいなくなったらという恐怖との戦いでもあった。父の帰りが遅いとどうしようもない恐怖に包まれた。これから自分はどうしたらいいのか、姉や妹をどうしたらいいのか自問自答し続けた。いつもその答えが出ることは無かった。


姉や妹と協力して家事をするようになっていた。すでに炊事、洗濯、掃除、一般的に専業主婦がするようなことは不器用ではあったがこなせるようになっていた。


小4の終わりに引っ越すことになった。転校だ。転校前後の2週間ほどは毎日のように吐き続けた。恐らくストレスからだろう。父はさほど心配はしていなかったようだ。病院にも行っていない。


父が働いている間せっせと兄弟で引っ越しの準備をした。引っ越し当日、父の勤める会社の人が4tトラックで手伝いに来てくれた。なんとか全てを詰め込もうとしているのか積んだり降ろしたりを繰り返していた。子供ながらにじれったいと思った私は「1回で行こうとするから無理があるんじゃない?」となんの悪気もなく言い放った。父のゲンコツが頭へ落ちた。私はなぜ殴られたのか理解できなかった。本当のことを言っただけだと後で抗議した。なにを言われても納得しない私に父は「あんたにはわからん。人の気持ちを理解できんお前は二度と口を開くな。あんたは人を傷つけることしかできん。転校しても人前で絶対に口を開くな。その方があんたのため」だと怒鳴られた。今ではもちろん怒っていた理由は理解できる。しかしそう怒鳴られた私は心臓に何かが突き刺さる感じがして息ができなくなった。目眩がしていたがフラフラしながらやっと床にしゃがみ込んだ。


転校した私はなぜか学校でしゃべることができなくなっていた。数人だけしゃべれる相手がいた。自分でもそれがなぜかわからなかった。これが場面緘黙症だったと知ったのも大人になってからだ。学校ではからかわれることもあった。しかしケンカは負ける気がしなかったのでからかわれたら殺す気で殴りかかった。おかげでイジメられることはなかった。


数少ない友達と釣りに行った。友達が自転車のカギを無くして帰れないことに気付いた。私の自転車はマウンテンバイクで後ろに乗せることもできず、仕方なく交代で自転車に乗った。走るのに疲れたら交代した。「先に帰っていいよ」と何度も言ってくれたがそんなことはできなかった。


家につくと案の定、鍵が閉まっていた。門限を過ぎていたからだ。チャイムを何度も鳴らした。開けてもらえないので仕方なくアパートの階段に座り込んだ。不思議と後悔もなにもなく逆に誇らしげな気持ちだった。1時間ほどで入れてもらえた。夕飯はなかった。おまけに楽しみにしていた翌日の家族でのサッカー観戦の予定が連帯責任と言われて無しにされてしまった。家族で出かけることなんか1年に1度あるかどうかくらいだったが、父子家庭向けに学校からチケットがもらえていたのだ。姉や妹も当然楽しみだったはずだ。だから相当に恨まれた。父も「あいつを恨め。それが連帯責任」と姉や妹に言った。友達を置いて帰らなかった自分は誇らしかったが恨まれているこの事実が悔しくてしょうがなかった。


この頃から私は自分の不幸さに父をも恨むようになっていた。どんなに善いことをしても報われない。何かに対する正義は誰かに恨まれることなんだと理解するようになっていた。


分団登校をするときいつも予定時刻を過ぎるやつがいた。挙句の果てに散々待たせておいて今日は車で行くだの休むだの言った。そんなことが何度も続いた。我慢ならなかった私は久々に時間通りに来たそいつを問い詰めた。「なんでいつも時間通りに来んのや。みんな待っとるんやぞ」と乱暴に言い放った。無視された。許せなかった。ドロップキックをお見舞いしてやった。それでも黙っていた。何度も背中を蹴ってやった。当然職員室に呼び出しをくらった。また叱られた。理由を説明しても理解されなった。どうやらみんなのためと思って私がしたことはイジメだったらしい。


私が善かれと思ってすることはことごとく悪と判断されている気になっていた。それでも自分が正しいと思うことをしようと思っていた。


ある日もう夕飯を準備するのが嫌になった。作らずにいてもやはり誰も作ろうとしない。父に向って「なんで俺が作らなあかんの」と言った。「食べたいやつが作る。そういうルール」と言われた。友達の家では普通親が作っていると抗議した。「あんたらが俺がいなくなっても生活に困らんように教えている」となにも悪びれることなく言った。


もはや自分の生まれの不幸を恨むしかなかった。中学に入る頃にはいつ死んでもいいと思うようになっていた。男手一つで育ててくれている父に感謝しなさいという大人の言葉が鬱陶しくてたまらなかった。「軽々しく言うな。殺してやろうか?」と思っていた。その思いとは裏腹にどこに行っても同じことを言われた。担任は腫物に触るように接してきた。ほっといてくれる方が気が楽だった。大人が全員偽善者に見えていた。「どいつもこいつも恨まれる覚悟もないくせに正義面しやがって」と思っていた。


妹は中学へ入る頃にはすでにヤンキーだった。そしてなぜか妹にタバコを教えてもらった。今考えると口封じのためだったのだろう。タバコを吸いながら受験勉強をしていた。妹は家出や万引き、シンナーなどを繰り返していた。


ある日父に言われた。妹が非行を繰り返すのはお前のせいだと。どうやらたいして勉強もせずにテストで高得点を取ってくる私に引け目を感じていることが理由らしい。進路指導員とやらが妹から聞き出したのだそうだ。今までギリギリに保っていた医者になって誰かを救いたいという正義感がその時からどうでもよくなった。受験勉強もやめた。受験もやめると父に伝えた。学校も行かなくなった。理由は言わなかった。それでも「絶対に後悔する」「できるのにもったいない」「行けない人だっているのに」などとありふれた大人たちからの説得に嫌気がさした。「自分で行かないことを選択できないのなら不幸度は行けない人と変わらない」と頭の中で反抗していた。


とりあえずやかましいので受験だけは行った。滑り止めも受けた。


ラスト数か月受験勉強をしていなかったわりにどちらも受かってしまった。担任に祝福されたが嬉しくもなんともなかった。自分の能力に自惚れていた。


高校に入ってからも場面緘黙症は続いていた。心理学を専攻していたという担任と交換日記のような形で会話した。初めて自分を理解してくれる人に出会った気がしていた。それだけがなんとか学校へ行けるモチベーションだった。もともとすでにやる気を失っていたので夏休みに入る前には学校へ行かなくなっていた。学校へ行かないので担任との会話は手紙になった。


ある日なぜかは記憶にないが父と大喧嘩になり「お前を生んだのが間違いだった」と言われた。「そんなにあいつと同じ運命を歩みたいならここに電話して迎えに来てもらえ。あんたの母親だ」とメモに書かれた電話番号を受け取った。悪魔だと信じ込んできた人に電話なんかできるわけがない。そのまま捨てることもできずに机の上に放っておいた。なにもかも諦めていた。死にたいと毎日思うようになっていた。


この頃姉に子供が生まれて私は叔父さんになっていた。甥っ子はかわいかった。かわいくて家に来ている時には寝ていてもお構いなしにいじくりまわしていた。その時間だけ全て忘れられる気がした。


父には何度も学校を辞めると言っていた。その説得は年をまたいだ。一向に学校へ行く気配のない私に諦めたのか退学届を提出に行ってくれた。母親の電話番号を受け取ったことを伝えていた担任との手紙のやり取りは続くと思っていた。しかし年度が変われば返事は来なくなっていた。


母に二度捨てられた気分だった。「いつものことだ」と「以前に戻っただけだ」と自分に言い聞かせた。でもやっぱり涙が出た。いつもさよならさえ言ってもらえない。私のことがよほど悪魔に見えるのだろう。仕方ない悪魔の子だから。


高校中退後の父は心成しか優しくなっていた。中退後に毎日のように家にいても怒らなかった。恐らく父が話してくれたのだろう、父が勤める食肉の製造工場にアルバイトにこないかと誘われた。断る理由もないのでありがたく働かせてもらった。仕事は雑用だった。段ボールを作ったり、肉を包んだり。欲深い私はもっと上の仕事を欲した。勝手に父に肉の捌き方を習った。そして許可を得ることもなく捌くようになっていた。始めは叱られた。「こっちの雑用をやれ」と。それでも続けた。誰よりも仕事ができれば文句はないだろうと捌くスピードを極めていった。父には敵わなかったがその他の先輩方には負けないくらいになっていた。その頃には捌きを手伝うよう逆に言われた。


免許を取れる歳になると早く免許を取って社員になれと専務から言われた。早速免許を取ると会社から車の購入代金を貸してくれた。安い中古のマーチを購入して社員になった。


社員になった私は誰よりも仕事をこなしている気になっていた。免許を取って1年ほど経った頃に通勤中事故を起こした。幸いケガは無かった。車が動かせる状態にないので今日は休むと会社に連絡した。支払いは会社がするからタクシーで来てくれと言われた。こうして会社も重宝してくれるのでますます自惚れた。そして自分よりも仕事ができない高給取りのオッサンに不満を抱くようになっていった。自分はもっと評価されるべきだと思っていた。


責任逃れをする奴や本人のいない時に平気で悪口を言うパートのオバちゃん達にウンザリしていた。もう聞きたくなかった。「世の中の不幸や悪事全て自分のせいでいいから止めてくれ」と心底思っていた。悪口を聞くたびに殺してしまった子猫のことが頭を巡っていた。自分の悪事を責め立てられている気がした。今でも人の悪口を聞くとそんな気分になってしまう。


不満はどんどんと増幅し私を支配していった。


いつの間にか給料が安すぎると言い放つようにまでなっていた。時給にして1200円ほどだったが抗議が受け入れられたのか時給にして250円分ほどアップしてくれた。それでも悪口が飛び交う現場に耐えられず辞めることにした。ストレスで昼食が食べられなくなっていた。


あんなに誰よりも必死に仕事をしていた自分がなぜもっと評価されないのか理由を考えるようになった。経営について学べばわかるかもしれないと思った。それから企業の医者と言われる中小企業診断士に心惹かれて簿記から勉強を始めることにした。勉強を始める前に1か月後の日商簿記2級の試験を申し込んだ。簿記のぼの字も知らなかったが勉強のかいあって合格した。


1回目の診断士の試験は1次試験で落ちた。資格が無くても働かないわけにいかないので会計事務所に絞って就職活動を始めた。とにかく経営のことを知りたかった。本もたくさん読むようになった。


この頃からようやく場面緘黙症が和らいでいった。しゃべらざるを得ない環境へ飛び込んでいったからだろう。面接は4件目くらいで採用してもらえる事務所が見つかった。診断士の勉強も続けながら勤めた。


診断士の勉強や会計事務所での経験でだいぶ考え方が変わっていった。肉屋で自分が評価されない理由もわかるようになった。むしろよく雇ってくれていたと思うようになっていた。同時に細かい情報処理にミスが人よりも多いことに気づき始めていた。


この頃に私はかけがえのない2人を手に入れた。一人はアルパカ社長夫人、もう一人はスウ㈱の取締役を務めてくれている相棒だ。2人のおかげで私の心は強くなっていった。歪んだ性格も穏やかになっていった。


4回目の試験でようやく診断士に合格したので、3年勤めた事務所を退所し、新しい事務所を探した。経営コンサルをしている事務所に絞った。職業訓練校から紹介された事務所に勤めることになった。以前の2倍ほどの規模の事務所だ。勤める中で世の中「トレードオフだらけ」だと気付いた。むしろ「トレードオフしか存在しないかもしれない」と思うようになっていた。仕事の方はやはりミスが多いことが目立ち、何度も叱られた。忘れ事も多かった。どんなに注意深くやった気でもミスがあった。所長には「絶対病気だ」とまで言われた。


仲良くなったお客さんに紹介されて自己啓発系のセミナーを受けることになった。計3日間に渡るセミナーの中で私の人生を大きく変える出来事が起きた。ワークの中に両親に電話するというのがあった。「最悪だ。帰りたい」と思っていた。参加者が続々と電話を済ませる中、私は躊躇していた。父とも関係が良好とは言い難い。母についてはそもそも今は電話番号がわからない。躊躇しているとセミナーを紹介してくれた方が話をしに来てくれた。なぜかけられないのか話しているうちにフラッシュバックが起きた。


突然涙が止まらなくなった。必死に抑えようとしてもおさまらずに嗚咽を繰り返した。話を聞いてくれていた彼も驚いただろう。何が起きているのか理解できなかったと思う。とにかくしゃべれる状況じゃなく1時間ほど嗚咽を繰り返した。


一番最初に住んでいた家の玄関での出来事だった。幼い私に向かって母が「お父さんとお母さんどっちが好き?」と聞いている。迷ったあげく「お父さん」と私は答えていた。母は私を泣きながら抱きしめていた。当時の私には何が起きているのか全く理解できていないようだった。


延々とこのフラッシュバックが頭の中を巡り続けた。セミナーが終わってからも頭をよぎるたびに嗚咽した。一体誰に許してもらえばいいのかわからなかった。


捨てたのは私の方だった。悪魔は自分だった。


「お願い許して」と叫ぶ心の声がずっと続いた。家にいるとずっと頭から離れなかった。1週間ほどでようやく落ち着いてきた。誰かに許してもらえないと胸が張り裂けそうな私は震えながら父に電話をした。とりあえず電話をした理由を震える声で伝えた時点で嗚咽が始まってしまった。嗚咽しながら「母が妹だけを引き取ると言ったのは自分のせいだから母を悪く言うのはやめてほしい。全部俺が悪かった」と言ったつもりだ。話がかみ合ってる気がしなかったので恐らくあの時言ったことは通じてなかったと思う。自分でもちゃんと言えた気がしていないので父はなおさら何を言っていたのかわからなかっただろう。とにかくそう伝えたつもりのあと父から「不自由させてるつもりは無かったけど、いたらない部分があったかもしれない。申し訳なかった」「こんな親なのにまともに育ってくれてよかった」と言われた。呪縛から解き放たれたような気がした。フワッと身体が軽くなった。生まれて始めて愛をもらった気がした。それまではアルパカ社長夫人のことさえどこか疑っていた。本来の自分に戻れた気がした。


この後私は仕事での睡眠不足やらアルパカ社長夫人の父が亡くなるなどの怒涛のストレスに見舞われ鬱を発症してそのまま退社した。心理カウンセリングもやった。そこで初めて自分が夜尿症だったこと、場面緘黙症だったこと、ADHDだったことを知った。今までの生き辛さが病気のせいだったと知ったことでいくぶん楽になった。ようやく自分を許せるようになった。というより自分を許していなかったことに初めて気付いた。自惚れていると思っていたのに自己評価は実は低かったらしい。弱い自分を隠すために気取っていたようだ。自分を許せると不思議と人も許せるようになった。


人の話をちゃんと聞けるようになったのもこの頃からだ。それまでは自分の考えこそが正しいと思い込んでいた。それまでの自信は自分が悪魔だったと知ったところで崩壊していた。心理カウンセリングで自分について知ることで自分が完全体ではないことに気付いていった。誰にも得手不得手があることを知り、それが悪い事ではないと思えるようになった。何も知らない第三者にも意見を求めるようになった。みんな何か自分よりも優れていることに気付くようになった。素直に人を「すげぇな」と思えるようになった。みんなが得意を発揮できる場所を作りたいと考えるようになっていった。


以上、私の人格形成において重要な役割を果たしたと思われる出来事を書きました。私の人間らしさが伝わればと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?