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でっち上げとハッタリ

  インドへの研修旅行―とは名ばかりの、実質観光―のための試験は、文字通りでっち上げとハッタリで合格を勝ち取った。インドへ行くための確たるモチベーションなんてなかった。一時でいい、自分の家を離れたい、バイトをさぼりたい、それだけだった。インドに対する関心がそもそもさほどなかった。大学で語学にヒンディー語を取ったのも、単に第一希望をはねられたからなだけであった。だからあの時、語学研修の試験を受けろとSに無理やり受けさせられなかったら間違いなく試験は受けなかったろうし、つまりはインドに行くことはなかったろう・・・・と、前回までに記したが、さてめでたく?合格したからにはインドに行かなければいけない。しかも現地でヒンディー語の講義も受けさせられることになってしまったのだから、もう引っ込みはつかない。やる以上は気合を入れなければいけない。出発までの日々、私は憑りつかれたような緊張状態に自らを追い込んだ。まず何が要る?カネだ。大学からは20万円しか支給されないのだ。往復の飛行機代であらかた消えてしまう。インド政府観光局の職員や『地球の歩き方』の意見では、最低でも1日15000円かけた方が、という。おいおい、2ヶ月と仮定して、90万円かよ。最初はバイト代を貯めればいい、支給額と同じ20万もあればとタカをくくっていたが、そんなレベルじゃない。どこぞの王侯貴族になっちまう。とても90万なんて貯められない。もっと倹約した旅のプランを練らないといけない。再度観光局を尋ねたところ、職員からは、
「では、文字通り、ヒッチハイクの、ほら60年代のヒッピーのような旅にするしかないでしょうね。でもそれはかなりリスキーですよ」と諭された。
「ええ。ハナからヒッチハイクで、と思っていましたから。それはやはりだめなんでしょうか」
「2ヶ月ですか。その期間でどれくらいの出費をお望みですか?」
「20万と見積もっていました。単純に・・・・」
「うーん」相手は一瞬、苦悶の表情を浮かべ、
「1日3000円か。インドの通貨は日本の円より相当に今は安いから、まあまるっきり不可能ではないが」と言って、A4版の紙にさらさらと走り書きをした。
「ホテルは、このような・・・・日本でいう木賃宿的な・・・・。素泊まりで1泊10ルピーのようなレベルの所に限定されましょうね。食事も、屋台でいわゆる・・・・マクドナルトとか、イギリスのフィッシュ&チップス様なものに、強いられるでしょうな。でもそれは精神的にも肉体的にも相当タフでないといけないでしょう。同じファーストフードでも、マックとは相当に・・・・。現地で知り合いもいらっしゃらないのでしょう?何かトラブルがあった時のケアも考えると、しかも初めてのご旅行。そのご予算ではお勧めしかねますねえ」
 職員のメモ書きには、宿代10ルピー/日→ミニマム。食事10ルピー/日。+電車代などなどと書かれていた。結局、この場では解決はまるで得られなかった。
 そうなったらSにアドバイスを仰ぐか。いや、奴はまるで助けになりやしない。甘ったれるな、俺は忙しいんだ。それにおまえなんぞ気に入らねえとハナもひっかけてくれないのは目に見えている。それに私の方だって、奴のオハナシは1分たりとも聞きたくはない。
 それではわが両親はというと、父は「俺が大学生の頃は旅行なんて考えられもしなかった。おまえは恵まれてるなあ。それだけでも感謝しないとな。なにカネ?見返りはあるんだろうな?おまえじゃない。俺だよ」母は「あたしは、そんな、インドのようなわけのわからないところに行くなんて、一度たりとも賛成したことなんてありませんからね」と言ったきりであったから、聞くだけ無駄なのであった。
 出発は大学の定期試験が終わった直後の7月末。それまでバイト代は、どう見ても20万を貯めるのが精いっぱいだ。80年代当時のバイト代は安かった。大学の講義もあるから労働時間はこれ以上増やせなかった。何としてでも20万以下で収まりをつけないといけない。試験や面接、レポートはでっち上げもハッタリもきくが、実際に使うカネに関してはでっち上げもハッタリもきかない。ローンを組むことは論外であった。返す当てもない。当時はビットコインなんてなかったし、第一あったところでそれを手に入れる手立てもなかった。
 ではもっと短い期間に、とも考えたが、短くしたところでたいして経費削減にはならなかった。それにあんまり短くしたら大学当局から「おまえは真面目にやったのか」と疑われる恐れもあった。前年中国に行った先輩が「20日とかにスケジュールを設定したら、教師から、それは短すぎる。研修の意味ないぞと脅されたよ。他の連中も大体皆、夏休み目いっぱい使っているね。それが一種の常識になっている」と言っていた。
「け!実質観光じゃねえか。現にヴィザは観光名義で取るんだからよ!」と私はむくれたが、当局からひんしゅくを買ったら20万の支給が減らされることもあり得た。
 仕方ない。インド全土をくまなく回るのはあきらめることにした。移動すればするだけカネがかかるからである。その代わり一つ所をくまなく見てやる。そうすれば研修したとカッコが付くだろう。移動手段は極力足を使う事は変わらず、但し宿は同じところを長く利用する。そうすれば少しは部屋代も割り引いてくれるかもしれない。宿の主人と仲良くなれば安い飯屋も教えてくれるかもしれないし、あらぬ情報もくれるだろう、とせこい意見に無理やりまとめた。結局、移動範囲はほぼ北インドの、さらにごく限定された場所での行動に制限されることになった。マドラスなどの南インドや、カルカットなどの東インドには全く足を踏み入れなかったし、西インドのテリトリーではアジャンタとエローラ、ボンベイを駆け足で通り過ぎただけであった。だが、たとえ金銭面で余裕があったとしても、こういう旅程になることは避けられなかっただろう。私の健康状態が、それを強いたのである。後段で詳しく記そうと思うが、インド滞在中、3回酷い下痢にやられ、1度は高熱も出してその都度寝込んだ。当初もくろんだような全インド走破など、ハナから不可能だったのである。
 次は備品だ。旅なんてろくにしたこともない。何が必要で何が必要でないのか。これはいらんだろう、いや、なければもし、何かあったら・・・・悩むばかりでろくに進捗しないから悩んだものは、一切持って行かないことに決めた。持っていかねばならないと判っているモノは、アシムル先生への土産と、着替え。着替えはたくさん持って行かないことにした。向こうは高温だ。洗濯すればすぐ乾くだろうと踏み、Tシャツと下着のパンツ5枚にGパン1枚、チノパン1枚に短パン2枚程度にとどめた。これだけでも煩わしいと思ってしまったくらいであるのだから、私は旅には向いていないのだろう。そしてペンとノート。これは当然だろう。カメラはインスタントの使い捨てにした。写真も面倒くさかったのだが、旅に行ってきた証拠を得るためにも、仕方なかった。
 持っていかねばならないものでとりわけ嫌だったのはヒンディー語の教科書と辞書である。特にヒンディー語の辞書は当時日本に一種類しかない大学書林刊行の『ヒンディー語小辞典』で、小辞典と謳っているにも関わらず、A4版で厚さ4cm弱、466ページのはなはだ大きく重い代物で携行する毎に多大な労苦を味わった。私は何度となくこの辞書を恨めしく思ったものだ。これがなければ移動にもはるかに楽であったろうにと。現在はもっとコンパクトなヒンディー語の辞書が複数出ているようである。
 辞書と言えば、英和辞典も持っていったのだが、こちらは何かと重宝した。ヒンディー語は全てのインド人に通用する言葉ではなかったが、英語ははるかに汎用性があった。全くと言っていいほど使えないヒンディー語よりも、ブロークンながら読み書きが(辛うじて)出来る英語の方が、いざという時身を助けてくれたわけである。それに、あんな巨大なヒンディー語の辞書を外出先にもっていくわけにもいかなかったろう。
 あとはカネがそろったらトラベラーズ・チェックー以下、T/Cと略―と・・・・、忘れていた。アシムル先生への土産だ。さすがに手ぶらはまずいだろう。では何が良いのか?仕方ない。Sに聞くか。
「は?あの人の好み、何だったかな?憶えてねえなあ。何でもいいんじゃね?」おいおい、ほんとにお世話になったのかよ。インドでも人の心を踏みにじり、不快な思いをさせてきたのであろう。全く頼りにならない野郎だ。さて、本当にどうするか。迷うと余計答えが遠くなる。これだから逡巡するのは嫌である。
 先生の家族は5人だとは聞いていた。5人分食えるものならいいだろう。下手にいつまでも残るモノだと片づけにも面倒だ。というわけで、出発の直前、我が地元吉祥寺の「小ざさ」の最中(もなか)にした。インド人にアンコは口に合わないかもしれぬが、まあいいだろう。気に入らないなら、ノラ牛にでも恵んでやればよかろう。
 7月下旬。前期最後のゼミのあった日。翌週には旅立つという時だった。いつもの通り報告をさんざんとっちめられ、へたばり切っているところに、K教授は突然、
「インドに行くのはいつですか」と問うてきた。私が答えると
「空港に着くのは夜中ですか」とさらに聞く。
「ええ。現地では10時近くだと思います」
「そうですか。では朝になるまで空港にとどまっていたまえ」
 意外なコメントに、私が答えられずにいると、
「君も知っているだろう。インディラ・ガンディーの件。あれからまだそんなに経っていない。夜中に街に出て右も左もわからぬところに引っ張られて行かれたら大ごとだ。空港の人に行ってロビーに朝までいた方がいい」
 インディラ・ガンディー前首相が暗殺されて3年余り。国境沿いでは封鎖されている箇所もあり、私の周囲では何かと物騒だとされていた。そんな時期に単身、現地での身元保証人もない状況でヒッチハイクよろしく出かけようというのだから、怖いもの知らずというべきか、はたまた能天気というべきか。しかし普段はまるで愛想のないK教授らしからぬ言葉だ。少々驚いたが、素直に礼を言って従うことにした。
 いよいよ日本を離れる当日。父は当日普通の仕事で朝からおらず、母は「今日友達と会うから」と、私より早く家を出て行った。家にポツンと残されたわけだが、私のアタマはすでにインドの事で一杯であり、我が家の事など考える余裕もなかった。前の晩も興奮してろくに寝れなかったのだから。
 成田までどうやって行ったのか、今はまるで憶えていない。中央線はいつも混んでいたから、電車に乗っている間、でかいリュックを背負っていた私は窮屈でウンザリしていたはずなのだが、その記憶すらない。周りの乗客はさぞリュックが邪魔で迷惑したであろうと思う。空港で飛行機を待っている記憶も、不思議なほど何も残っていないから、これではとても旅行記なんて書けやしないと我ながら呆れてしまうが、当時の私は早く日本を飛び出したかったからこそ、記憶がないのではなかろうか。日本の風景なんぞもはや眼中になく、来たるインドのことばかりがアタマを占領していたからではなかったか。
 昼の12時20分。AI307便は成田を発った。飛行機の中、私はほとんど眠りこけてしまっていた。前の晩ほとんど寝ていなかった反動だと思うが、それにしても、この日を迎えるまで緊張しっぱなしとは対蹠的な反応である。少しは起きておればと、少々後悔している。機内食を食べ損ない、目を覚ました時には食器を回収しにスタッフが機内を回っているところであった。