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「あなたは、それでいいの」―高野悦子『二十歳の原点』

    私はその言葉を聞いた。実際には‘音’として、聞いたわけではない。だが私の心は、確かにその言葉を聞いた。二十歳の秋。1988年。翌年から消費税が導入されることで賛否両論が喧しく踊っていた。億ションがどうとか、海外では日本人が爆買いしているとか、そんなニュースも流れていた。日本人の多くがバブリーに浮かれていた時代。だが私の生活は、私の心は、まるっきりそんな事柄とは縁がなかった。大学ではつまらぬ講義を聞き、ゼミでは教授の追求に青息吐息になっていた、そんな日々のさなか、大学の購買会でその本を、私は手に取っていたのだった。
    『ニ十歳の原点』は高校生の時にはすでに、その存在を知ってはいた。幾冊かの新潮文庫を読んでいて、その巻末に他の新潮文庫の宣伝が載っており、そこに『ニ十歳の原点』もあったのである。
(ニ十歳・・・・。なんか面白そうだ)ニ十歳というある種特別な響きを与える、つまり成人という免罪符―酒を飲んでもいいー私は飲めないが―、煙草を喫ってもいいー私は嫌いだがー、選挙権を得たとみなされるニ十歳という年齢―今は十八歳だが―、その原点とはなんだろう。大人になったときの原点?いや、もっと深いものがあるような・・・・。しかし生来から怠け者であり、加えて日々の雑事に振り回されているうちにその年の秋まで、私は『原点』を読まずに過ぎてしまったのである。ただ、『原点』のタイトルだけは、常にひっかかり続けた。大学3年生となっていた私は何の気なしに購買会でその本を見つけた時に、記憶の端にあったひっかかりがクローズアップされてきたのだった。
(ちょうどいい。これも何かの縁だ)フトコロもこの時はあったかかった。ゼミ関係の本ばかり読まされていて、息が詰まっていたという状況から息抜きしたいという卑近な目的が一番の理由であったのだろう。同じニ十歳という著者がどんな文言を吐くのか、単純な好奇心もあった。そのままレジに持っていき、帰りの電車で読んでいるうちに、私の胸がざわつきだした。何かとんでもない世界が、今開いている本の中でうごめいている。これを書いた人は、本当に自分と同じニ十歳なのか。呆けた頭を有している自分とはなんたる違いなのか。その時である。冒頭の言葉が、脳内で響いたのである。

「あなたは、それでいいの」

    ちょうどインドから帰って来て、再び惰性の只中に埋没する日常に逆戻りしていた私に、その言葉はあたかも砂かけババアのように登場してきた。『原点』は私が浸りきっていた淀んだ惰性と妥協を、一切拒絶していた。夾雑物の介在を許さない、ひりひりするような言葉のひとつひとつが、眼前の対象を容赦なく切り裂き、そこに塩をすり込んでいくかのような苛烈さがあった。苛烈さの底には焦燥と、渇望と、絶望と、孤独があった。それらが私を緊縛し、心をかき乱した。このままたるんだ暮らをしていていいのか。俺は今よりもっと違う何者か、どんな何者かわからぬが、とにかくも一段ちがう者にならないといけない―。彼女の言葉に接するたび、私の心はざわつき、揺れ動いた。私もまたやり場のない焦燥にかきたてられた。だが、もがいてももがいても、これだというものを掴むことはできないのであった。じれったくてたまらないのにどうしようもない。焦燥は積もる。そのたびに、私は高野悦子の言葉を追った。さらにもがく、焦燥がつのる。そして聞こえてくる「あなたは、それでいいの」の声。

「旅に出よう
   テントとシェラフの入ったザックをしょい
   ポケットには1箱の煙草と笛をもち
   旅に出よう

   出発の日は雨がよい
   霧のようにやわらかい春の日がよい
   萌え出でた若芽がしっかりとぬれながら
   そして富士の山にあるという
    原始林の中にゆこう
    ゆっくりとあせることなく

 大きな杉の古木にきたら
   一層暗いその根本に腰をおろして休もう
   そして独占の機械工場で作られた1箱の煙草を取り出して
   暗い古樹の下で1本の煙草を喫(す)おう

 近代社会の臭いのする その煙を
 古木よ おまえは何と感じるか

 原始林の中にあるという湖をさがそう
 そしてその岸辺にたたずんで
 1本の煙草を喫(す)おう
 煙をすべて吐き出して
 ザックのかたわらで静かに休もう
 原始林を暗やみが包みこむ頃になったら
 湖に小舟をうかべよう

 衣服を脱ぎすて
 すべらかな肌をやみにつつみ
 左手に笛をもって
 湖の水面を暗やみの中に漂いながら
 笛をふこう

 小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中
 中天より涼風を肌に流させながら
 静かに眠ろう

 そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう[1]」


 『ニ十歳の原点』の、最後に置かれた詩である。それまで横溢していた焦燥感や絶望感は失せ、不思議な透明感、いや諦念がある。それもまた、私の心をかきむしる。果てのないと思われたもがき苦しみを、自らの意思で捨て去ったことの証なのか。もはや彼女の心は彼岸に達していたということか。

 高野悦子と『二十歳の原点』は、ウィキペディアで検索すれば、ちゃんと彼女や著書に関する基本的な情報は出てくる。さらに突っ込んで調べたければ、彼女のことを研究した論文や、彼女の軌跡をたどった『高野悦子「ニ十歳の原点」案内』というホームページー以下、『高野HP』と略―もネットにはある。数年に一度くらいの割合でメディアでも注目されてテレビや雑誌でも特集が組まれたりもしている。出版業界でも彼女をテーマにした本が出たりする。『二十歳の原点』は他に続編―厳密には『原点』に到る前に書かれた文章から成る―の二冊が出され、計三冊すべてが文庫化までされた。2009年には文庫版では削除されてしまっていた父親の後記を復刻し、さらには独自の脚注もつけた新装版までカンゼンという別の出版社から公刊されるに至っている。『二十歳の原点』三部作は出版社側にとって安定的な売り上げを記録してくれ、死せる高野悦子はいわば固定著者にして有名人なのである。だからこの場で彼女の表層的な紹介など、する価値は有さない。私がここで記したいのは、彼女の言葉を、いかに私が受け取ってきたか、彼女の存在をどう思っているか、なのである。

 私は彼女の言葉を、あれから30数年が経ったというのに、いまだに折に触れて読み返す。それは私が到達しなかったいくつものother sideに、彼女が達したのだろうかということを、知りたいからである。other sideとは具体的に何か。語彙力の乏しい今の私には答えることができないけれども、私が見ることのできなかった景色を、彼女の言葉を通してみてみたいのである。そして私を緊縛したあの言葉の数々を、いかにして彼女は紡ぎ出すことができたのか、その秘密をみてみたいのである。たとえ故人の墓暴きと誹られようとも。
 高野悦子は、本当のところどんな思いで己の生を生きたのか。どんな思いであの言葉を紡ぎ出し得たのか。

 高野悦子が人生最後の2年間を過ごした京都を、私は一度も訪れたことはない。故郷の栃木は仕事の関係で訪れたことはあるが、その時は高野悦子のことはまるで意識しなかったし、もし意識しえたとしても、彼女ゆかりの場所に行く時間的心的余裕はなかった。いつか京都や栃木を、彼女の息吹を求めて歩いてみたいと思ってきたが、私自身の健康や家の事情から不可能となってしまっている。幸いというか、現在は『高野HP』などから、彼女の軌跡を裏付ける資料が多く開陳されている。それをつらつら眺めることで、今のところは満足するしかない。
 そうした資料を見かえすたびに、高野悦子が地元から離れた高校に通うことになったことに、さらに一層遠い京都の大学に通うことになったことに、あえて言うなら運命の残酷性を思う。
 『高野HP』でも言及されているが、もし彼女が県立宇都宮女子高に行かず地元の高校に進学していたら、さらに、もし大学も京都の立命館ではなくて、当時他にも受験した東京の立教、あるいは明治などに入学していたら、もっと楽な人生を歩めたのではなかったか。いや、もしそうなって生き永らえたなら、『ニ十歳の原点』三部作は世に出なかっただろう、そうなったら今のこのしようもない私の思考など・・・・、と意味のないif~anyを繰りかえす。彼女が宇都宮に、京都に暮らしたからこそ、今こうして私(たち)は彼女の言葉を味わうことができるというのに。彼女にとって残酷ではあった人生行路を歩んだその代償として。私(たち)もまた、彼女の生をほじくり返すことで、その残酷性を一層上塗りする、そのいわば二重の代償として。
 高野悦子が県立宇都宮女子高等学校に進学したのは、一学年上の姉が同じ高校に通っていたから、というのが一番の理由であったろう。加えてそこが当時の栃木県内の女子高ではトップの進学校であるという自負も働いただろう。だがそれは、幼少期からの気心の知れた仲間~土地が醸し出す安寧-共同体が湛える帰属意識といいかえてもよかろう―を、おそらくは彼女に与えなかったのではないだろうか。同じ高校に通っていたとはいえ、一学年上で、おまけに自身とは別の下宿に住んでいた姉とは密なコミュニケーションを果たすことはできなかっただろうし、自身の下宿生活は規律が厳しく、学校での勉学の上に部活でバスケットボールもやっていたのだから、心身共にリラックスできる場は与えられなかったことも容易に想像できる。[2]そこに加わったのが、自身の心臓弁膜症による部活禁止令である。厳密には選手としての活動禁止~マネージャーとして部活継続という沙汰が下されたわけだが、部活に勤しみ成果を上げることで日常生活の緊張状態を止揚しようとしていたのが水泡に帰した失望感は大きかったと思われる。息もつけない生活環境にいたまま目標を奪われ、緊張に加え虚無感にも苛まれただろう。ここで注意しなければならないのは、この心的状態のまま、高野悦子は大学受験に臨んだのではということである。『原点』の読者には、また『原点』を扱った評論でもさほど認識されていないようだが、案外深刻な事態として受け止めなければならないのではないだろうか。当時は1960年代である。大学進学率は今よりはるかに低かった。つまりそれだけ大学進学は困難な時代だったのである。[3]受験勉強をしていた彼女のプレッシャーはいかばかりであったか。
 高野悦子は無事現役で合格、そのまま直ちに京都の立命館大学へ進学をする。立命館を選んだことについては本人が書き残しているし、他でも様々なところで語られているから、ここでくだくだしく触れることはしないが[4]、京都はさらに、遥かに遠い。物理的な距離(感)は、人の心にも大きな影響を与える。高校の時は実家から離れていたとはいえ、まだ同じ栃木県内であったから、自分が郷里にいるという帰属意識-安寧感―は完全に損なわれずにいただろうが、今度はそうはいかない。まったく気心も知れない、まるっきり風土の異なる、それこそ異郷の地である。くどいが時代は1960年代である。インターネットも携帯電話も、SNSもない時代なのだ。普通の電話-いわゆるイエデンーもテレビも、一人暮らしする学生にはそうそう手に入らない時代なのだ。気楽に手に入るメディアはラジオくらいだったろう。交通の便も今よりはるかに悪かった。新幹線は東京から京都まではすでに走っていたが、東北新幹線はまだない。つまり栃木県那須郡―京都府までの距離は、物理的にも心的にも、今よりはるかに大きかった(今だって相当大きいだろうが)。[5]高校時代の、厳しい規則の伴った下宿暮らしによる緊張状態に部活禁止が加わり、それらから来る疲労や傷心も癒えぬうちに大学受験、それが終わるや今度は京都に一人乗り込み、さらなる緊張を、孤独感を背負い込むことになった。いや、今度は完全に自らの郷土とは断ち切られてしまったという疎外感をも味わったのではないか。
 さらに、学生運動が狂的な盛り上がりを見せていた1960年代である。社会の荒波に出る前にせめて4年間はモラトリウムを、なんて言っていられる状況ではなかった。大学では講義もまともに行われず教授陣はことごとく学び舎を去り、アジ演説に機動隊、ゲバ棒に催涙ガス。学生間でもイデオロギーの対立やら派閥を作っての諍いの毎日に、彼ら彼女らはいやも応もなく巻き込まれていき、心身ともに荒廃していったという。
 高野悦子の中で高校~大学時代、真の安寧を得たことは一瞬間たりとてなかったのではないだろうか。実家を出て緊張しっぱなしのまま外界との激しい相克を強いられ、孤独に苛まれ、温もりを求めて異性との関係を持とうにも、束の間の表層的な快楽だけで終わってしまい、信じたものからはことごとく裏切られ、喪失と絶望、疲労はいや増しに増す。高い知性を身に付けたくても大学がまともに機能せず、彼女にはもはや身の置き所がなくなってしまったのではなかったか。これでせめてひとりでもその心のうちを聞いてくれる人間がいれば、まだ救いがあったろうが、不幸にも彼女の元には現れなかったのである。いやその役を果たせる可能性のある者は、わずかながらいた。『ニ十歳の原点』三部作にはそれを予感させる人たちがちらほら見え隠れする。だが、彼女が心を開かなかった。もしくはどうしても胸襟を、互いに開くことはできなかったというべきか。
 『ニ十歳の原点』三部作には、これからはこういう学問を身に付けよう、こういう本を読もうとこまごまと目標を設定し、しかしそれらはことごとく果たせず自己嫌悪に陥る高野悦子の姿が度々記されている。彼女はあまりにも理想が高すぎたのだろうか。自分にも、他人にも、多くを求めすぎたのだろうか。あの、読む者を激しく触発し、心をかきむしる言葉を紡がせたのは、そうした自分にも他人にも容赦できなかったからなのではないか。妥協をすることを認め得なかったからこそ、結晶の如き言葉を、彼女はうみだした。そのひきかえに、自己を崩壊させてしまったのではないか。
 そんなこと、彼女が選んだことなのだ、それで勝手に傷付き疲れ、自死したのは甘いのさ、と切り捨てることはたやすい。私自身、彼女はあまりに身勝手であったと思う。だが人は、たやすく自分の行動を、自分の心を律することなどできやしないのだ。かつ、他者のそれらを、容易に認め、受け入れることもできないものなのだ。それをか弱い、だらしない、いい加減だ我がままだ甘ったれだなどと一方的に切り捨てることはできない。ちょっと脇に逸れるが過日、オノ・ヨーコがかつて残した「貧乏には耐えられる でもさみしさは さみしさには耐えられない」[6]という発言を、いまだに私は受け入れられないと述べたが、それは多くの人にとって共感しうる心のありようであることは認めないといけないのだろう。一方で、漱石の「自由と独立と己(おのれ)れとに充ちた現代に生まれた我々は、其の犠牲(ぎせい)としてみんな此淋(このさび)しみを味はわなくてはならないでせう」[7]という言葉は、まさに高野悦子の置かれた状況をも照射しているが、これをそのまま受け入れられるほどの強さを全ての現代人が持っているわけではないことを、そしておそらくは彼女も持っていなかったことを、認識しておかねばなるまい。高野悦子の甘えと身勝手さを難じるのと、それに寄り添いたくなるという謂わば、相矛盾する感情を、私はどうすることもできないでいる。


「  新しい年

 まっ白でそして新しいくつをはいて
 ジロと散歩にいった
 こおりをバリバリとわって
 ザクザクとシモをふんで
 ジロといっしょに走りっこした
 新しい年がひらけてくるみたいで
   何だかうれしくなった
   楽しくなった
 そして走った
 ステンコロリー 初ころび
 へんな気持ちだった
 でも走った
 ジロも走った
 いっしょに走った」[8]


 高野悦子の、その言葉のすべてが、読む者と自己の欺瞞と日和見を糾弾し断罪しているわけではない。時として読み手の表情をやわらげ、微笑を与えるものもある。上記の詩は彼女が14歳になる前日に書いたものとされる。私はこの詩が好きだ。冬の情景が描かれているが、冷たさは感じない。ほのぼのとした温かみがある。氷を割るところは書き手の弾んだ心模様が素直に読み手に飛び込んでくる。つくづく、詩才のある人だったのだなと思う。

 私は再び、しようもないif~Anyを繰り返す。高野悦子は70年代以降世界や日本で起こったことをことごとく知らない。ビートルズが解散し、アルバート・アイラーや三島由紀夫や川端康成が死したことを、沖縄が返還され、あさま山荘やロッキードの事件が起こったことを、学園紛争などまるでなくなってしまったことを、昭和が終わり平成から令和と年号が改まり、バブルがはじけて不況に派遣切りが取りざたされるようになったことを、インターネットに携帯電話、SNSの存在を、そしてコロナにウクライナ、イスラエルのことを、彼女は知らない。高野悦子が70年代以降を生き延びて、これらを見、知ったのなら、何と言うだろう。そのいちいちを悩み、時として絶望するのだろうか。あるいはしようもないと呆けたふりして太平の逸民よろしく傍観するのだろうか。私にはまるでわからない。ただ、故郷であった西那須野町の歴史を自作の詩で表現しようとしていたという試み[9]を、みてみたかったと思う。ひょっとしたらその詩には、彼女が生きた時代の、生きていったはずであった時代の、その時々のエレメントが投影されていったのではないか、時代と切り結びながら、故郷の歴史を語る詩人・高野悦子が生まれていたのではないか。そんな夢想を、ついついしてしまうのである。

 他者の生の楽屋裏に土足で踏み入るという、一個の人間として恥ずべき行為を行ってまでして、その人の心のありようを、心の行方を知ろうとする私は人でなしであるのだろう。そんなことをしたってその人の心なんか読み取れるわけはない、おまえは数寄者だなとせせら笑われもされるだろう。それでも私は、彼女の心を読み取ろうと思うのだ。それは彼女が真面目な人であったからであると断じられるからである。その真面目さが、他者から見れば歪んだ、甘ったれた、偏狭に満ちたものであったとしても。彼女の真面目さから、私は学びたいと思うのだ。これまた独りよがりな思いであるのであろうけれども。
 今日もまた、あの声が聞こえてくる。私はあの本を再び手に取る。ページをめくるたびに、心はかきむしられる。それでも私はページをめくるのだ。そこには確実に、ひとりの人間が生きて悩んだ証があるからだ。彼女とは比べくもないが、私もまた生きる上で悩み続けてきたことを、彼女の言葉を通じて気付くことができるのだ。そうなのだ。悩んでいる―いや、悩んできた―のは私だけではないのだ、と、とうの昔に故人となってしまった人の言葉から、私は共感を得ることができる。そして倦んでいる場合じゃないのだよと、その言葉は私を触発する。まだこれからも、彼女とのえにしは続きそうである。

「あなたは、それでいいの」



[1] 高野悦子『ニ十歳の原点[新装版]』、カンゼン、2009年、198ページ。

[2] 「証言18 宇女高元生徒会長・まゆみさん「尾瀬キャンプとカッコの思い出」(『高野Hp』、所収)にも、同じ趣旨の発言がある。

[3] 高野悦子が大学に進学した1967年の、18歳人口に占める大学進学率は約12.9%だったという。ちなみに2022年は56.7%(『文部統計要覧、1956-66、1967-2001年』『文部科学統計要覧、2001-21年』)。なお『高野HP』の「「ニ十歳の原点序章」1966年11月28日(月)」欄でも、当時の大学進学率に触れた言及がある。

[4] 高野悦子本人は言及していないが、父親が京都帝国大学を卒業したことが、京都で生活するモチベーションの一つとなったのではないか(「1969年1月2日」、前掲HP、所収、参照)。

[5] 『高野HP』の1967年6月12日付けの欄には、当時の国鉄京都駅から、高野悦子の実家の最寄り駅であった西那須野駅までの移動に要した時間が記されている。現在なら5時間ほどで到着するところを、当時は少なくとも18時間ほど―ただし、この場合はその日の未明に出発してである―かかったのである。

[6] ウィキペディア「オノ・ヨーコ」に、この発言が紹介されている。

[7] 『漱石全集』第12巻、1956年、83ページ。

[8] 高野悦子『ニ十歳の原点ノート[新装版]』、カンゼン、2009年、8ページ。

[9] 高野、前掲書、252ページ、参照。