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Yukihira @ Urban Fair in Coal Harbour_Oct. 23th 11:45a.m.

「どうしてそんなところに座ってるの」


 突然声をかけられて振り向くと、見たことのない女が立っていた。

 水曜日、少し早めの昼休み、コールハーバー沿いのUrban Fairでデリとコーヒーを買い、レジ横のカウンター席に腰をかけてから30秒後のことだった。

 フード付きの青いコートにブーツ姿の彼女は、歳のころは三十を少し過ぎたくらいだろうか。厚みのある唇につんと小高い鼻、決して大きくはないが、一瞬引き込まれるような瞳が、まっすぐに雪平を見つめている。

 素早く脳内の記憶を探ったが、見覚えはない。


「めずらしく晴れてるのに。外で食べない?」

 そう言って女は、右手に持ったタンブラーを促すように少し上げると、返事を待たずにくるりと踵を返し、出口へ向かった。



 三年間務めた会社を辞め、ワーキングホリデーでバンクーバーに来て半年。小さなプリントショップでの仕事と、気が向いた時に顔を出す語学サークルの集まりの他には特にすることもなく、水に浮かぶような毎日を過ごしていた。

 東京での営業職がつらかったわけでも、追いたい夢があったわけでも、ない。ただ、スーツにネクタイを締め、笑顔を張り付けてひたすら歩き、その繰り返しの日々の中、そびえ立つビルの群れは巨大な壁のように見えた。

 それを見上げるたび、意識の底に降り積もる澱、視界を白く閉ざす故郷の雪から逃れようと東京へ向かったように、その澱がまた、雪平をバンクーバーへと向かわせたのだった。

 交差点を渡るとすぐに公園があり、樹々の緑の向こうに海が見える。さわさわと揺れる葉っぱの一枚一枚が陽光を受けて光っている。

 眩しそうに手をかざしながら歩く、名前も知らない女。その背中を、今自分は追っている。

 彼女は陽当たりのよいベンチを選んで腰かけ、振り返って微笑んだ。微笑の先に広がるのは、バンクーバーハーバーだ。向こう岸には、ノースバンの山々が青空の下で憩っている。

 ハーバー沿いには遊歩道が設けられており、歩く人、走る人、自転車に乗る人、様々な人々が行き交う。彼らはどこに行くともなく、ただその時間を楽しんでいるように見える。

 彼女は肩に掛けたバッグから小さな包みを取り出した。ジップロックに入ったサンドイッチには、ポテトサラダが挟まれている。

 雪平は一瞬ためらった後、隣に腰を掛けた。

「あの、バンクーバーは、長いんすか」


 サンドイッチにかじりつきながら彼女は、さあ、とでも言うように首をかしげた。もぐもぐと口を動かしたまま、答えはない。

 雪平は仕方なく、脇に抱えていたデリの箱を開けた。チキンとアボカドのパスタ、サイドにガーリックトースト。わりと気に入っているメニューだったが、隣のサンドイッチが妙に美味そうに見えた。


「それ、美味そうですね」


「ん? ありがと。でも、あげないよ」

 なんなんだ、この人は、と思いながらも、不思議と嫌な感じはしない。雪平は少し冷めてしまったガーリックトーストをかじった。


 夏が終わった後のたまの晴れの日は、日差しは強くても風が冷たい。サマータイムが終ったら一気に冬へとまっしぐらだ。太陽を浴びておけるうちに浴びておいたほうがいいと、誰もが言う。

 このひとが自分を、薄明るいカウンター席から外へ連れ出したのは、そういう理由なのだろうか。いや、単なる変な女の気まぐれ? 

 最後の一口を大切そうに口に運び、彼女は丁寧にそれを味わっていた。ものを食べる時の女は、どんな瞬間よりも幸せそうに見える。


(名前は? 住んでいるところ、職業は?)

 そんな質問は意味がないような気がして、雪平は黙ってパスタを咀嚼した。

 知らない女が隣でコーヒーを飲みながら、満足そうに息をついている。そう、それだけだ。でも、悪くない。

 黙ったまま、二人は隣り合って海を眺めていた。遠くに浮かぶ巨大なコンテナ。向こう岸の山の斜面に並ぶ家々。山の頂にかぶる雪と、それと戯れるように流れては消える雲。


(このひとの言う通りだ)


 まだ熱すぎるコーヒーを口に運び、雪平は思う。


(こんな景色が“ここ”にあるのに、どうして俺は“あんなところ”に座っていたんだろう?)

 コールハーバー周辺は仕事場が近い事もあり、時々雪平も足を運ぶ。それにしても、ピーカン照りの夏の午後でさえ、今日のように目の前の景色を眺めたことはあっただろうか?
 
 エンジン音が聞こえる。海の方からだ。

 ヨットが並ぶハーバーの右手方向には Water Airport があり、水上飛行機の発着所となっている。海から飛び立つ小さな飛行機たちは、通りかかる人々へのちょっとしたショーのようだ。

「見て、もうすぐ飛ぶよ」

 尾翼に青い鳥が描かれた小型飛行機が、水面をすべっていく。ゆっくりと、しかし次第にスピードを増しながら、エンジン音は激しくなる。

 水しぶきが白い軌跡となり、機体を追うようにして海の上を走っていく。波と唸りが最高潮に達すると、一瞬、空っぽになる瞬間がある。音は消え去り、まるで何かから解き放たれるようにして、機体はふわりと宙に浮き上がる。

 そこからはあっという間だ。飛行機はみるみるうちに水面から離れ、まっすぐに山の向こうへ消えるかと思うと、その美しい翼を地上に誇るかのように、大きく弧を描いて旋回する。

そうして色づき始めたスタンレーパークの森を飛び越え、やがて山々の稜線の彼方へと消えていく。鳥が、それに続くようにして数匹、同じ方向を目指して翼をはためかせる。

 雪平は、空に溶けて見えなくなった飛行機から目をそらせずにいた。コーヒーカップを持った手が、なぜだか少し震えていた。


「飛行機が飛ぶ原理って、科学的にはまだ証明されていないんだって」

 視線を空に留めたまま、彼女は言う。


「でも、ああやって飛んでいる。毎日、世界中で、たくさんの飛行機が」

 タンブラーの蓋をパチンと開け、一口飲む。それから雪平をまっすぐに見つめて、聞いた。

「ねえ、どうして飛行機は飛ぶのだと思う?」


「どうしてって……、えと、エンジンとプロペラと、あと確か場力とか浮力とか、そういう原理じゃなかったっけ」

「自分が飛べないって、ひとかけらも疑っていないからだよ。だから飛べるの」

 ……何を言っているんだ。飛行機が、そりゃあ自分を疑ったりはしないだろう。鉄の塊なんだから。

 一瞬、そんな想いが脳裏をかすめたが、言葉にする前に消えてしまった。その代わりに、長い間忘れていた、ある温度、熱のようなものが、静かに広がっていくのを感じた。


「鳥も、昆虫もそう」


「人間も?」

 雪平は聞いた。


「もちろん」

「ほんとかな」

 答えないまま、ただ微笑む。最初に振り返った時に魅きよせられたその瞳が、そこに湛えられた水が、鏡のように反射し、雪平を映し出していた。


「きみが、飛んでみせたら? 思っているより、ずっと簡単だよ」。
 
 彼女は立ち上がり、両手を空にかざして伸びをする。

「じゃあね」

 少し笑って手を振ると、タンブラーを抱え、そのまま背を向けて歩き出した。海からの風が頬をなでる。同じ風が彼女の髪を優しく揺らすのを、雪平はただ見つめていた。

 もっと声を聞いていたい。いつの間にかそう思っていたことに、今気が付いた。でも、引き止める言葉は出てこなかった。

 ベンチに座ったまま、雪平は待機中の飛行機を見つめた。もう一度、飛び立つ瞬間を見たいと思った。水面に並ぶ飛行機達は翼を休めたまま、どれも動こうとはしない。


 雪平は立ち上がり、彼女がそうしたように、ひとつ、伸びをした。風が通り過ぎ、頭上に茂る樹々の枝に触れていった。

 木漏れ日の向こうにそびえる、幾つもの高層ビル。その巨大な体に空を写す摩天楼の群れさえも、次々と飛び立つ小さな飛行機たちを、愛おしく眺めている。 それは雪平にとって、もう壁ではなかった。

 手の平に包んだコーヒーの熱を感じながら、雪平は歩き出した。



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『Ku:Cafe in Vancouver』はバンクーバーに実在するCafeを舞台にした12のショートストーリー。2014~2015年にフリーマガジン『Oops!』で連載されたものです。

挿絵は愛知在住の画家/シンガーソングライターの原田章生さん。

書籍購入は、コチラから。

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