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Asami @ Tree Organic Coffee on Granville st._ Aug. 9th 4:33p.m.

 海に行こうと誘ったのはLioの方だ。

 週末は晴れる。気象予報士並みに雲を読む彼がそう言ったから、なによりも大好きなスイーツの誘惑をことごとく振り払ってきたのに。(それがどれほどのことなのか、男子という生き物には一生わからない)。

 なのになんでわたしは今、騒々しいカフェの窓際のカウンター席で、ホイップクリームがたっぷり添えられたチーズケーキを目の前に、退屈そうに通りを眺めているのだろう? 

 30分前までは、タンクトップの下に買ったばかりの水着を着て、ベッドルームの鏡の前にいた。白いコットンからターコイズブルーがどんな風に透けて見えるか、最後の最後まで研究して。(われながら、なんてけなげなんだろう)。

 スイーツ断ちの甲斐あって、シルエットも完璧だ(まだちょっとchubbyだけど、それくらいの方が魅力的だと思う)。それなのに、Lioは朝メールをよこしたきり。「ごめん、今オフィス。トラブル発生。あとで連絡する」。

 仕事に向かうLioが好きだ。大きなミッションを持つ雄ほど、多くの雌を魅了する。

 でもね、いくらサマータイムだからって、もう16:00過ぎ。トラブル発生はこっちの方だ。太陽は予報通りカラカラと笑って、ダウンタウンにいるには熱すぎる。

 何よりもビルの群れが青空をさえぎるから、一刻も早くここから脱出しなければ。だけど助けは一向に来ない。こんなキレイな日に、ベッドルームで窒息死なんてゴメンだ。

 わたしはターコイズブルーの水着を脱ぎ捨て、さっさと着替えて部屋を出た。

 晴天の土曜のGranville streetは人通りも多く、誰もが幸福そうに笑っている。サマータイムが終るまでにいかに太陽と愛し合うか。それがバンクーバーに住む人々の使命なのだ。

 それよりも大事なことなんて、存在するのだろうか。思いながら、Lioのオフィスが入ったビルを早足で通り過ぎる。

 こんな時はあれしかない。Tree OrganicのThe Sin Cheese Cake。マーブル模様を描くベルジャンチョコに、鮮烈なサワーチェリーの赤を散らした、わたしの救世主。

 ホイップクリームの塔と一緒に皿の上にそびえ立つこの甘い砦の “罪深い” 美味しさを、Lioは一向に理解しようとしない。

「“罪”と知ってて、どうして食べちゃうのかな」

 なんて色気のないことを言いながら、いつもアメリカーノをすすっている。今日はそんな邪魔者もいない。思いきりかぶりついてやる。

 でも、なんだかつまらないのはなぜだろう? 

 背中には、夏の瞬きを楽しむ人々の喧噪と笑い声。

 そもそも。Lioとわたしは正反対。大きな志もなく、ただここが好きという理由だけで、ビザをつないで過ごしているわたしと、高校を出てすぐこの国に飛び込んで、夢と野望(と若さゆえの無茶)で道を切り拓いてきた彼。

 わたしがぼんやり空ばかり眺めている間に、彼は地面をしっかり固めて次に進む一歩を定めている。一度食べたら爪の先まで甘く染まりそうなチーズケーキと、ミルクも砂糖も入れないアメリカーノ。

 そう、こんなこともあった。

「海の色はどうやってできると思う?」

めずらしくロマンチックな質問をするから、わたしは身を乗り出して答えた。

「空の色を映しているからでしょう。空が悲しい時は、悲しい色。うれしい時は、うれしい色」

 Lioは困ったように笑って、

「Asamiはロマンチストだな。あのね、透明な水が青く見えたり緑に見えたりするのには理由があるんだ。まず太陽の光が水面に吸収されて屈折するだろ。吸収されなかった色が反射して、それを人間の目が捉えることで色が生まれるんだよ」

 ふううん。その後もLioは光の屈折や色の吸収率について熱っぽく語ってくれた。でもわたしは未だに、「空は海を、海は空を好きだから、お互いの色を映し合っている」と信じている。

 まるで噛み合ない、磁石の対極。右と左。東と西。なのに、どうしてわたしたちは一緒にいるんだろう?

 巨大なチーズケーキをフォークですくって、一口食べた。

 甘い罪の味が一瞬にして体中の細胞に染み込んでいく。どんな罰が待っていようが、こんなに気持ちいいこと、その幸福を拒む方が罪深いんだ。

 だけど、Lioにはきっとわからない。今だってコンピュータの画面に向かって格闘しながら、世界がこんなに美しいことを知らずにいる。

 かわいそうなLio。助けが必要なのはLioの方なのかも。でも、知らない。

 こうして一口食べるたび、この7日間でちょっとだけ引き締まったわたしのシルエットは、ふわふわとゆるんでいくだろう。そしてLioはまた、困ったように笑うだろう。

 かわいそうなLio! 何もかも、わたしたちが違いすぎるから。男と女というだけでも大変なのに、海の色すらも違って見ている。なのに海に行こうって誘ったのはLioなんだ。


 二口目のチーズケーキを唇の間に滑り込ませた時、ふと、交差点の向こうのビルの時計台に目が止まった。

 濃い青空を背景に、風見鶏が、港からの風でくるくる回っている。青銅で作られたWとEの文字。West & East。交わることのないふたつの方角の真ん中で、飛べない鶏は誇らしげに尾羽を掲げている。

 “W”と“E”。“WE”。

 そうだ。そう、それが、“わたしたち”なんだ。

 地上と空、違う方向を見ていても、真ん中にあるものはきっと同じ。アメリカーノに砂糖を入れなくても、Lioは、本当は、空と海がどんなに愛し合っているかを知っている。

 だからわたしたちは、(今のところ)、一緒にいる。地上を見つめるLio、空を眺めるわたし。ふたつの視界をひとつにして、世界は生まれる。

 バッグの中からベルの音がした。Lioからのメッセージだ。ターコイズブルーの水着はベッドルームに放り出したまま。でも8月の夜は長いから、今日の罪の分だけひたすら二人でビーチを歩こう。そして海の色の話を、もうちょっとだけ真面目に聞いてあげよう。

 そう思ったら、背中の喧噪が音楽に変わった。

 3分後にLioはやってくる。それもここが好きな理由だったと、今になって思い出した。


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『Ku:Cafe in Vancouver』はバンクーバーに実在するCafeを舞台にした12のショートストーリー。2014~2015年にフリーマガジン『Oops!』で連載されたものです。

挿絵は愛知在住の画家/シンガーソングライターの原田章生さん。

書籍購入は、コチラから。


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