見出し画像

Luna @ Breka Bakery on Robson st._Jun. 23th 00:15a.m.

 満月の夜は眠れないので、ベッドから抜け出して通りに出る。ネオンが消えた午前0時のRobson streetに、さらさらと小雨が降っている。

 24時間開いているBreka Bakeryは、真っ暗な海に浮かぶボートの灯り。どこで眠ればいいのかわからずに難破した人々が、ひとときの甘さや温もりを求めて打ち上げられている。

 わたしもその一人。

 ショーケースに並ぶ色とりどりのケーキの中から、毒々しいチェリーを乗せたBlack Forestと、ダブルショットのエスプレッソをオーダーし、テラス席に出た。

 夜の色を映した樹々と雨の歌声を聴きながら、砂糖を流し込んだエスプレッソを飲み干した。

 少し先の席に、一人の男が座っている。テーブルの上には小さなサイン。目を凝らすと、「Henna Tatoo」とあった。

 よく陽に焼けた肌と長い手足。闇が濃くてよく見えないその横顔。

「Henna、やってるの? こんな真夜中に」

 Black Forestにフォークを入れるふりをして、聞いた。

「必要なひとがいれば、いつでも」

 微笑んでいるようだった。深海に咲く美しい珊瑚に引き寄せられるみたいに、立ち上がって隣に座った。
 
 彼は足元の大きなバックパックからヘナのコーンを取り出し、夜にかざした。

「何を描く?」

「何でもいい。あなたの目に映るものを」

 切っ先が、わたしの左鎖骨に添えられた。

「雲に隠れて今は見えないけど、満月に聞いてみる」

 伏せられた睫毛の下の眼光が、皮膚を、骨を、筋肉を、そのもっと奥を、透かして見ている。

 セロファンに包まれたヘナペーストが、肌の上に降り立った。チョコレートソースのような色と、冷たい感触。

 迷いなく走る線が、何を描こうとしているのかはわからない。でも彼には“それ”が見えていて、香りや音楽のように、目に見えないものの気配を、“今ここ”に留めようとしている。そんな気がした。

 名前も知らないひとの額が、すぐそこにある。不思議な香りがした。ヘナの匂いなのか、彼の髪の匂いなのか。軌跡は途切れずに流れていく。

「いつも来てるの? ここ。こんな真夜中に」

 流線から目を逸らさず彼は聞いた。

「うん、眠れない時は」

「眠れないのにエスプレッソを飲むの?」

 筆致は迷うことなく続く。

「眠れないから、せめて、目を醒ましたまま夢を見るの」

 一瞬だけ手を止めて、彼は顔を上げた。

「チョコレートケーキも素敵だけど、どうせなら、醒めない夢を見た方がいい」

 憐れみとも、慈愛とも違う、静謐な微笑みがそこにあった。

「夢は醒めるし、現実は続く。だから時々、チョコレートケーキが必要なの」

 彼は笑って、「そうだね」、そうしてまたわたしの肌へ帰っていく。

 そうだね。いや、そうじゃない。知ってる。でも、どうすればいいのかは知らない。知らないまま、ただ昼と夜を彷徨っている。

 でも、今は違う。彼の指が絞り出すヘナが、肌に触れ、皮膚を超えて、細胞に染み込んでいく。いのちを吹き込むように、流れ込んでくる。

 夜が時を隔離する。温度が重なり、ひとつになる。醒めないで欲しい。それは、誰の願いだったのだろう。
 
 ほんの瞬き、それとも永遠に近いほど長い間。

 気がつくと、左の鎖骨に大輪の花が咲いていた。満月の夜にだけ開く花。描かれた流線は肌の稜線とひとつになり、月光に映し出された花弁となって踊る。

「雨、やんだみたい」

 顔を上げると、ヘナで染まった指先の向こうに満月が浮かんでいた。わたしたちは微笑み合った。生まれる前から知っているふたりのように。

「ありがとう」

 ヘナが崩れないようにそっと、でも強く、ハグをした。

「こちらこそ、ありがとう」

 腕をほどいて向き合った時、わたしが口を開く前に、彼は言った。

「いつでも、また。地球のどこかにいます」

 その夜は、とてもよく眠れた。Black Forestを食べ忘れたことに、目が覚めてから気がついた。

 それから何度かBrekaに行ったが、彼に会うことはなかった。

 鎖骨の上の月下美人は少しずつ薄れ、やがて消えてしまった。でも、肌の奥に刻印された何かは、消えることはない。

 あの満月の夜、彼が吹き込んでくれたもの。“今”という瞬間にだけ咲く花。どんな夜の下でも、どんな闇の底でも、誰の中にも、必ず咲いている。

 きっとまた、眠れない夜もあるだろう。でも、エスプレッソとチョコレートケーキは、もういらない。


画像1


『Ku:Cafe in Vancouver』はバンクーバーに実在するCafeを舞台にした12のショートストーリー。2014~2015年にフリーマガジン『Oops!』で連載されたものです。

挿絵は愛知在住の画家/シンガーソングライターの原田章生さん。

書籍購入は、コチラから。

この記事が参加している募集

ここから愛を感じたら、愛を循環させてみてください^^ LOVE & HUG!! 愛より愛こめ。