感想:吉本ばなな『ハードボイルド/ハードラック』

※この記事には基本的に物語の直接的な内容は含まれていませんが、いくつか登場人物やその立ち位置に触れることがあります。

吉本ばななの本は『キッチン』しか読んだことがなかった。彼女が吉本隆明の子だということも最近になって知った。吉本ばななは、名前だけは知っているけど意識の端に時々登場するくらいの作家だった。(失礼のないように、軽視していたとかいうことではなくて単に触れる機会がなかった。)

そういう作家の本を読むと、たいていその物語や文章の彩りに引きずり込まれてしまう。沼は、意識して入り込むものじゃなくて、気づいたら浸かっていたというものでもない。ある日突然落ちてしまうのだ。

『ハードボイルド/ハードラック』はそういう意味での沼だったと思う。表紙には奈良美智さんの女の子?成人?の絵があり、それが沼の入り口になっていた。本全体の雰囲気は、間違いなくこの表紙と数枚挟み込まれている挿絵によって形作られている。

この本の中には「ハードボイルド」と「ハードラック」の二作品が収められており、両者には生と死という共通したテーマがある。一般的に生と死は対比することで語られると思う。この世とあの世、生者と死者、若さと老い、有と無、持続と断絶などなど。その構造を簡単に壊してしまうことはできない。現代を生きている人の多くにとってこの二項対立は自明のものだ。

ただし、その二つの概念の境界線が揺らぐことはある。そもそも境界なんてあるのだろうか。「ハードボイルド」では、夢や彼岸と現実・此岸との境界は曖昧である。そこにいる死者ははっきりした存在ではなくて、存在のグラデーションみたいな何かだ。それは常に生者とともにいるわけではないし、忘れていたのに段々と思い出されて来たりする。

「ハードラック」において、生と死はよりはっきりとした境界があり、主人公や境くんはそれを意識している。しかし、ここでも死というものは生と対立するのではない。死はむしろ生を映す鏡だ。でも直接的に死が何かを教えてくれるわけではないので、登場人物は死の周りにいる人や自分自身を解釈する。

読者はこの二つの物語からどのような印象を持つだろう。物語の中で生者が死(者)と向かい合うことで、生者の輪郭ははっきりとしてくる。生者はおそらくそういう仕方で自分自身を型取り(象り)続ける。そして死とは、そうしてできた生者の輪郭の外側でなぞることしかできないものだと思う。

死を明確に捉えることはできない。だから、死者は時々生者の生活に入り込んだりする。その時死と触れ合うことで、私たちは生とは何かを考える。私たちが各々の生について何かしらの答えを見つけたときにはじめて、死は私たちに表情を見せる。死は生を映す鏡であるのと同時に、生の側からでしか認識することができないのかもしれない。

壮大な物語ではないし、おそらく展開で読者を唸らせるようなものでもない。大して厚みもない文庫本の一冊ではあるけれど、『ハードボイルド/ハードラック』は読者の生に何かしら影響を与えてくれる本だと思う。生活に深みを与えてくれるがはっきりとしない何かが、この本の中にはある。

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