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「千古さんへ」の手紙に託す想い——映画『HELLO WORLD』スピンオフ『Record 2036』考

(ネタバレあり)映画『HELLO WORLD』のスピンオフアニメ『ANOTHER WORLD』。その第3話『Record 2036』。この珠玉の短編の中に、一見どうも不可解なひとつのカットがあるのです。そのカットに写りこんだモノを巡って、出来る限り既出の情報を用いながら無理やり解釈を試みたものがこの記事です。

「千古さんへの手紙? エンドロールや後日譚に出てきたけど、『Record 2036』と何の関係が?」と思われた方。はい。そう思っていた時期が私にもありました。

これはあくまでひとつの解釈にすぎません。妄想が行き過ぎないように注意はしていますが、どうしても強引な論理の飛躍はあるかと思います。もっと観察と推論を重ねていくことでこのセカイの解釈の精度を上げていきたいところではありますが、ひとまず現時点で公開します。

(注意:本記事は『HELLO WORLD』映画本編およびノベライズ(原作版)、スピンオフアニメーション『ANOTHER WORLD』、書き下ろし後日譚『遥か先』のネタバレを含みます。未見の方はご注意下さい。『ANOTHER WORLD』の視聴方法についてはこちら

『Record 2036』の不可解なカット

初めて『Record 2036』を見た時にまず感じたのは、ナオミが心の余裕をある程度取り戻していたことへの安堵感でした。『Record 2032』での追い詰められた感じは影を潜め、ちょっぴりギャグ風味な日常の一コマに束の間の平和を感じさせる作品になっていて、さらにストーリーのエモさ、情報密度の高さ、徐さんの活躍度の高さに完全に気圧されてしまいました。

しかし…見終わった後、場面構成になにやら違和感のようなものを感じたんです。

『Record 2036』は次のようなシークエンスからなっています。少々長くなりますが書き起こしてみます(あまり細かく書くと引用の範疇を超えてしまいそうなので端折れる所はできるだけ端折っています)。

・タイトル。走り続けるナオミのイメージ映像。手をのばしかける瑠璃に向けて、大きく踏み出そうとする。(★1)
・アルタラセンター。雑魚寝していたナオミと千古が徐さんによって廊下に追い出される。床に手をついたナオミの回想…?(★2)
・「あの時は…」図書室で本を読む瑠璃(夏服)のカット。「そう…」
ノートの切れ端。一瞬の逡巡ののち、ボールペンで何かを書き始めようと——。(★★)
・「7月の、頭頃だ…」「付き合い始めた俺たちは、初めて出かける場所を探していて」図書準備室で『京都さんぽガイド』の大文字山の記事を見ながら話す二人。「結局花火にしたんだったな」
・廊下に追い出されたナオミの場面に戻る(★3)。個室に入ろうとする徐さんを必死で止める。
・アルタラセンター。千古からの帰宅の問いかけに首を振る。ナオミの自室で白煙を上げるベスト。「ノイズが確率共振を起こしているのか? 両側のバランスをいじれば……」突然、千古からの映話。
・ロビーでのバーベキュー。「なんでロビーで……」「外でやりゃいいでしょ外で」千古とアルタラの調子について会話。「暴れてますよ」「自動修復システムは外せないですね。まだしばらくは限定運用するしか」。アルタラの無限の可能性を説く千古。病室の瑠璃のカット。「ええ…」
・ピーマンを残すナオミ。突然ギャグ調になり(★4)、最後には警備員に全員追われる。徐さんが逃げながら「先生〜〜!」と千古の背中を押す。
突如、冒頭の大きく踏み出すイメージ映像(★1)がスローで再度カットインし——。(★5)
・椅子から転げ落ちるナオミ。ADSによる脊髄損傷の瞬間。病院の廊下を杖をついて歩く。
・アルタラセンター。「麻痺が残るそうですが、仕事への影響は最小限に留めます。来週には復帰を…」府からの事業停止の勧告を告げる千古。愕然とするナオミ。「どうしたら…」
・瑠璃の病室。「どうしたらいいと……思いますか……」「彼女は何も答えない」
・ナオミ、まだぎこちない足取りで釜座通を南へ。「その想いを知るすべはない」慣れ親しんだ四条堀川の交差点を左折。「彼女が本当に」堀川通越しに見えてきた錦高校。「俺との未来を望んでいるのかどうかも…」あの交差点で信号を、待つ。
・母校の図書準備室。図書委員会日誌を見つけページを繰る。7月1日(花火の前々日)の日誌に瑠璃の記述。「この日……」大文字山の記事を見る二人の回想。「山登りは…」杖に支えられた足。「二人とも無理になったな……」日誌に書かれた図書分類番号に気付く。
・分類番号から探し当てた本は「高所恐怖症を克服する」。青ざめた瑠璃、本を探す瑠璃のカット。「僕の……」真剣に本を読む瑠璃。頬を濡らすナオミ。「僕の為に」涙を振り切り決意の表情。
・アルタラセンター。アルタラ修理に苦戦する千古達の映像。「ここがナオミの家みたいなもんだから」と話す千古達に、何かを決心し歩き出す。「千古さん」「家に帰ってきました」助けを求める千古に良い表情のナオミ。
・「事業継続決定」の貼り紙。頑張るねえとの千古に「辛いことでも、諦めない人を知ってるんで」やってやろうという決意の表情。「俺も諦めません」
・暗闇の中、一歩踏み出すイメージ(研究室入室の時と同カット)。
・ナオミ個室。「何度でも、立ち上がろう。もう一度、二人で歩いていくために」机の上、瑠璃のしおりと八咫烏みくじの傍らに置かれた『京都さんぽガイド』——。

全体構造としては比較的わかりやすく、数回の回想シーンを交えつつほぼ時系列的に並んだシークエンスです。前半は脊髄損傷になる前のセンターでの日常。そして後半は脊髄損傷になってからの一幕と母校訪問。しかしそのつなぎ方が少々奇妙なのです。前半から後半へ、脈絡のない突然の場面転換(★5)。突然のギャグ風味(★4)。回想シーンの切り替わりもやや唐突です(★2、3)。そして何よりも、全く浮いた存在である、ノートの切れ端のワンカット(★★)。少なくとも廊下に追い出された時の動作ではなさそうです。

『HELLO WORLD』映画本編をすでに見た僕らは、この作品のシーン構成やカット割りが徹底的に考え抜かれたものであること、観客の違和感を極力遠ざけた自然なシークエンスを実現していることを良く知っています。また時折インサートされる映像が全て重要な意味を持つ作品であることも良く知っています。だからこそこのシーンのつなげ方、意味深なカットのインサートになんとも形容しがたい引っかかりを覚えました。まさかイーガンの塵理論の実装とも思えないし。

「ノートの切れ端」の背後にあるものは

このノートの切れ端のシーンは、一体何を意味しているのでしょうか。

映画本編にノートは何度も出てきますが、最強マニュアルの執筆ならノートを破る理由がありません。

破ったノートの切れ端が出てくる場面がひとつだけあります。エンドロール。「千古さんへ」と書かれた置き手紙のカット(上賀茂神社のコラボページで見ることができます)。ナオミの机の上、ノートの切れ端を半分に折ったものに「千古さんへ」という走り書き。傍らには青いボールペンが置かれています。…そしてこの『Record 2036』でも、ノートの切れ端に今まさに何かを書こうとしているのは、どうやら全く同じ青いボールペンのようです。つまりこれは、エンドロールの置き手紙を今まさに書こうとしているシーンなのではないか? という推測が容易に思いつきます。しかし確証が持てません。全く関係ないカットという可能性も否定できません。

そもそも、あの置き手紙はどの時点で書かれたものなのでしょうか。本編のストーリーからすると、恐らく病院で千古さんから呼び出しを受けた後と考えるのが自然です。しかし確証が持てないまま十数日が過ぎ、そして2019年10月31日に発表された後日譚『遥か先』。貪るようにそれを読み、何度も読み返して、少なくともあの置き手紙が狐面が現れた後に書かれたことは確実らしいということを知りました。

それでもまだ、『2036』のノートの切れ端は本当にこの置き手紙なのか、これは実は全く関係ないカットなのではないか、という疑念を拭い去れませんでした。というのは、カットの背景がどう見てもナオミの机ではない、しかし正体のわからない何かだったからです。だって置き手紙はきっと机の上で書いたに決まってる。

——『2036』をもう一度見る。映画館と違っていつでも自由に一時停止(ポーズ)ができるのが動画配信の長所だ。切れ端のシーンで止めて、スマホの小さな画面を凝視する。切れ端の後ろに広がる背景に注意を集中する。これは一体何だ。こののっぺりとした、しかし何やらテープのようなものが貼られ、わずかに歪んだ奇妙な物体は。


…その気づきは唐突に訪れました。
これは、段ボールだ。
ガムテープの貼られた段ボール箱だ。

切れ端は段ボール箱の上に置かれている。
段ボール箱の上でこの手紙を書こうとしているんだ。

映画本編でずっと引っかかっていたシーンが脳裏をフラッシュバックする。堀川五条の交差点に現れた先生の車。後部座席の後ろにはなぜか大量の段ボールが積まれていたんだった。そういえばあれもすごく奇妙なシーンだった。

これで、ようやく上記の仮説にある程度の確信が持てました。背景の段ボールの存在、そして車に積まれた段ボールのシーンから、両者は時間的にかなり近いイベントである。すなわちこのカットは、やはり「千古さんへ」を今まさに書かんとするシーンに間違いなさそうです。しかも執筆タイミングは少なくとも、狐面が現れてから車を出すまでの短時間に絞られます。自室に戻って慌ただしく荷造りする合間に、デスクで落ち着いてじっくり手紙を書く余裕もなく、ノートを引きちぎり、段ボールの上で走り書いて、それをデスクの上に置き、段ボールを車に積み込む——その一連の動作が、その緊迫した状況が、たった1秒そこらのあのカットに凝縮されていたことになります。

このカットが示唆する『Record 2036』の物語構造

…しかし、ここまで来てもなお、まだわからないことが残っています。

なぜ、そのカットが『2036』に唐突に入っているのか

置き手紙を書くのは2037年のはずじゃないか。徐さんに追い出された場面とも、図書準備室の場面とも、関係ないじゃないか。

もう一度、この作品の周到なコンテを思い出してみます。ここまで細かく作り込まれたカットが無意味なわけがない。
いや。待てよ。
むしろ、これこそが『2036』におけるメイン映像なのではないか。
つまりこの1秒だけが、三人称によるナオミの客観的な描写であって。

『2036』の残りのシーンはすべて、手紙を書く直前の回想なのではないか。

…あくまでひとつの解釈ですが、ここまで考えた時点で、気付けば深夜に絶叫してました。なんという、なんという構成。

回想だから、一人称の主観的な記憶だから、まるで夢の中のワンシーンのように時系列が滅茶苦茶でフリーダムな演出だったのか。

あの切れ端に千古さんに向けた手紙を書く直前、ナオミは思い出していたのか。アルタラセンターでの日々を。「家」における家族同然の仲間たちとの日常を。事業停止の絶望と、母校で見つけた一行さんの想いを。

あそこでなぜいきなりゆるゆる日常系コメディが始まったのかとずっと不思議だったけれども、ようやくわかった気がしました。千古さんと頑張ってきた事業を自ら滅茶苦茶にした挙げ句にそこから去ろうとする時、思い起こされたものこそがここでの「日常」だったのではないか。そしてそれは、ストイックに走り続けたナオミにとって、ある意味では束の間の「幸せな記憶」だったのではないか。その主観が反映されているのがあのシーンのタッチなのではないか。

だとすると、それに続く母校のシーンもきっと回想なのだろう、ということになります。前へ前へと邁進してきたナオミが初めて味わった絶望。一行さんの思いを再確認し、自らの原点に立ち返った大事な思い出。ずっと孤独に走り続けてきたと思っていたけれど、一行さんも、千古さんや徐さんたちも、さらには『2032』の同級生や先輩達も、それぞれの立場でナオミの幸せを願い続けてくれていたのだという気づき。「僕の為に」。それを反芻しながら手紙を書き、そして車を走らせたのでしょう。

さらに誤解を恐れずに言えば、もしかすると『Record 2027』も『2032』もひっくるめて『ANOTHER WORLD』全体が手紙を書く直前の回想なのかも知れない。…さすがにこれは完全に妄想レベルであって、『2027』『2032』は完全に単独で楽しむことができますが、否定する材料がないのもまた事実です。

『2036』は「この世界の在り方を家族に託す物語」である

未だ残る興奮の余韻に身を任せながら、あらためて置き手紙について思いを馳せてみます。狐面が現れた今、ナオミは自分のなすべきことを正しく理解していたはずです。

ひとつは、一行さんの想いに応えること。彼女と直実を元の世界に帰し、もう一度笑顔になってもらうこと。自分のために高所恐怖症を克服しようとしてくれた彼女なら、きっと直実と一緒にそこで幸せを掴んでくれるはずだから。

そしてもうひとつは、この2037年の世界に自分が招いてしまった事態にけりをつけること。そして「家族」であるアルタラセンターの仲間達にせめてひとかけらの希望を託すこと。それが全てを引き起こした者としての責任。

病院に現れた狐面を見て、ナオミはこの世界もまた記録世界であることに気付きました。そして量子記録技術の第一人者として、かつ順応力の高いかつてのSF好きとして、彼の思考は即座に演繹したはずです。「この世界の在り方」、そしてその先にあるものを。その推論が夢物語でなく紛れもなくこの世界の延長線上にあることを。

千古さんと過ごした穏やかな日常を思い起こしながら、ナオミは万感の想いで「殴り書かれた簡単な図」を書いたに違いありません。千古さんなら、自分がたったいまようやく気付いた「世界の在り方」をきっと理解してくれると確信して。アルタラが消失した世界で生き続けていくだろう彼らを(*)、その先の頂へと連れて行くための「ハーケン」をそこに殴り書いたんです。

(*原作版ではナオミ自身が千古さんに自動修復システムの停止を指示しており、開闢が起こることは予想済のようです。映画ではその描写はありませんが、ナオミであれば千古さんがその結論に達することは容易に想像できただろう、と思います)

つまり『Record 2036』は、ナオミが「家族」を認識し、彼らに「世界の在り方」を託す物語。その一瞬が凝縮されたのが、あのノートの切れ端のカット。ボールペンを持つ手がほんの一瞬かすかに逡巡するのが見えますが、そのとき脳裏に浮かんだ回想を描いたのがそれ以外のシーンであり、それは後に残す千古達への想いそのもの。託す者達への全幅の信頼と感謝を描くために、あれだけの尺(作品のほぼ全体)が回想シーンに割り当てられた。

そして『遥か先』(五)はそれに呼応する、想いを託された者の物語。

自分にはそう思えて仕方ないのです。

オープニングタイトルと同じようにまっさらなノートの切れ端は「世界の在り方」が書かれるのを待っていて、ボールペンの先がノートに接触しようとする寸前でこのカットは終わります。鳥肌が立つカット割り。最初の「一行」を書く直前の逡巡と決意がボールペンの動きに見事に現れています。新しいセカイが生まれる直前の美しい一瞬を捉えた、とんでもないシーンだと思っています。

「師匠に憧れ、師匠を超える」のは直実だけではなかった

アニメ情報サイト「アニメハック」のコラム「【藤津亮太の「新・主人公の条件」】第10回 「HELLO WORLD」堅書直実」において、藤津亮太氏は主人公とその師匠という着眼点で本映画を論じています(とても良いレビューです)。

このコラムにあるように、本作を主人公の成長物語として見たとき、「師匠に憧れ、師匠を超える」主人公はいわゆる「師匠もの」の黄金パターンであるといえます。

しかし今回述べた『Record 2036』そして『遥か先』をふまえると、まったく同じ構造が実はナオミにもあることに気付かされます。

京斗大に入学したナオミは、千古教授の講義で見た脳死のマウスが量子データにより回復した映像に衝撃を受け、千古研究室の門戸を叩きます。必死に勉強してシステム管轄メインディレクターにまでのぼりつめてもなお、ナオミをして「天才」「自分は技術的に、千古の足元にも及ばない」と言わしめる千古教授は、ナオミにとっての永遠の「師匠」です。また母子家庭であったと推測される(ビジュアルガイドの家族構成参照)ナオミにとっては一種、父親のような存在でもあったはずです。

しかし『Record 2036』でナオミはひとり、千古教授より一足先に宇宙の真理に気付きます。そして最終的には千古教授も知らない世界に到達します(さらに今後、技術革新を全部キャッチアップし終わったらもはや最強の存在じゃないでしょうか。とはいえ一行さんには永遠に追い付けない感もありますが…)。つまりナオミは物理的にも心理的にも師を超えたんです。直実が先生を超えたように

ナオミが直実に自分のことを「先生」と呼ばせた理由についてはいくつか考えがありますが(いつか書きます。多分→書きました)、恐らく千古教授を尊敬するからこそ自分をも「先生」と呼ばせたという側面もあったりするのかもしれません。そういえば『Record 2036』で警備員から逃げる徐さんが千古教授の背中を押しながら「先生〜〜!」と叫んだ次の瞬間、場面が切り替わり大きく踏み出すイメージから麻痺のシーンになります。あの「先生〜〜!」の台詞も若干唐突な感じがしていたのですが、あれももしかするとナオミの主観における千古さんへの想いを描いたシーンだからこそなのかも知れません(ナオミが千古教授のことを先生と呼ぶと紛らわしいのであえて徐さんに言わせたのかもしれないですね)。その「先生」の背中に追い付き、そして超えた。

そして場面転換後、麻痺を患ったことにより、ナオミは杖をつくようになります。つまり(スフィンクスの謎かけでいう)「3本足」になります。この辺、完全に強引な解釈ですが、もしかするとこのときから、ナオミは千古さん達を含めた残された者にとっての、遥か先の世界への導きの神、八咫烏になる運命だったのかもしれません(猫のヤタも、ナオミの心境を示す以上に何かメタな意味があるかも知れません)。ノートの切れ端のおさえに「八咫烏みくじ」が使われていたこともそれを後押ししています。金の羽毛のカラスはもう二度とこの世界に来てくれないけれど、ナオミの残したノートの切れ端はきっと、千古さんたちをいつかナオミのもとへと導いてくれる。劇中、直実と「先生」が二度握手を交わしたのと同じように、この弟子と師匠もきっと、お互いから「手を伸ばし」ていつか再会する。そんな反復構造を信じられるくらいに、いまやここでのナオミは藤津氏のいう「主人公の条件」を完全に備えています。

 だって向こうには、ナオミがいる。
 一人では無理でも、両側から手を伸ばしたなら。
 きっと彼に、もう一度会える日が来るだろうと思った。
——野﨑まど『遥か先

こうしてみると、あらためて『ANOTHER WORLD』はナオミがただのエキストラではなく主人公たる作品であったのだと痛感します。
(ちょっと『know』を思い起こさせる部分もありますね)

おまけ:段ボールの中身あれこれ邪推大会

さて、ここから先は余談です。車に積み込んでいた段ボールには一体何が入っていたんでしょうかね。少なくとも数箱は積んであるんですよね。

実はこれ、自分の中では全く見当がついていません。車に乗り込んだナオミのミッションは「狐面をなんとかすること」「一行さんを元の世界に帰すこと」。前者については、「とにかく物理で殴る」本作の戦闘ポリシーに従って色々武器になりそうなものや技術資料を積んでいったのかもしれません。後者については、せめてもということで例のベスト(原作では段ボールに入っていた)やら何やらを一応持って行ったのかも知れません(量子変換については多分金のカラスにうすうす期待はしていたと思いますが)。

あるいは…もうセンターには戻れないことを覚悟して、ばれたらまずいものを持ち出したのかもしれません。研究上の機微情報もあるでしょう。例のベストも研究倫理的にヤバいですし。特に病院に設置してた機器は闇に葬らないと病院側に多大な迷惑をかけますし。…いや、ひょっとしてひょっとすると、きっと本を処分できないだろう性分のナオミは(「京都さんぽガイド」もまだ持っているし)、沢田ひろみや星野すみれの写真集の入ったあの段ボールをまだ捨てられずにいるのかもしれません(笑)(ちなみにこの段ボールの3Dプロップ名は「erobox」だそうです)。自分がいなくなった後、自分の個室に千古さんや徐さんが入るだろうことはナオミには容易に想像できたはず。徐さんに見つかったら殺されそうなそれを、必死に車に積んだのかもしれないですね。しかしその車を京都駅ビルの屋上に乗り捨てたままなので見つかるのは時間の問題。「グッドデザインで今すぐ俺(と段ボール)を消せ」と言ったところでこのグッドデザインは素直に段ボールを消してくれなさそうだし…。

さて、真相はいかに。
よろしければ皆様の解釈もお聞かせ頂ければ幸いです。

追記(2020.3.8):さて、先日『HELLO WORLD』BDスペシャルエディションのデジパック書き下ろしイラストが遂に解禁となり、それぞれの【相の違う世界】において「遥か先」を見やる二人x2に滂沱の涙状態ですが、上記の記事およびerobox談義について昨年から今年にかけてちょっとした後日談がありますので、この機会に追記します。

まず、2019年12月7日に京都・出町座さんで開催された監督トークショー付き上映「やってやりましょう!『HELLO WORLD』出町座アルタラ大作戦!」において、「ANOTHER WORLD 3話でノートの切れ端とペンが写っていたのは千古さんへの手紙を書いているところなのか。ANOTHER WORLD全体が回想なのか」という、まさにこの記事の真偽を監督に質問して下さった方がおられたとのことでした(参加されたフォロワーさんから「今日来てました?」と聞かれて気付いた次第。自分は全く参加していなかったのですが、こじらせすぎてドッペルゲンガーとか10年後から来た自分のアバターが参加していた可能性も否定できない…)。まあ誰でも思いつく疑問だとは思いますが、もしこの記事を読んで質問して下さったのであれば、大変有難く思うと同時にこんな妄想を代弁して下さって本当に申し訳ございません(さらにおーるてーるに間違えられるという不名誉を被らせてしまい、もう顔向けできない…)。これに対して監督は「そう見えるならそうかも知れない」「その可能性はゼロではない」と、まあいつもの「そういうつもりで作ったわけではないけれどその解釈もまた肯定されているよというのを優しさに包んだ言い方」の回答があったようで、公式に否定されたことに正直ほっとしております(笑)。

さらに何と、フォロワーのクロさん(@yurufuwa_nyanco)からも、ANOTHERと車内の段ボールが同じものなのかを質問頂いてしまいまして、監督から作画上の理由で車内に段ボールを積んでいること、写真集は入っていないことが明言されたそうです。しかも写真集の有無についてはクロさんは聞いておらず監督から話があったそうなんです…え!?

いや、あの…まず真っ先にクロさん大変申し訳ありません…。私のツイートを思い出して質問して下さったそうなんですが、なんかもうこんなエロ本の話なのに聞こうとして下さって本当にすいませんとしか言えない…。しかもそこをクロさんに言わせないようにあえて自分から話す監督の気遣いがイケメンすぎるわけですが、そもそもそれ以前に監督がこの記事を何かで目にしておられたからこそ写真集に言及したのかも知れないという可能性が出てきて卒倒しそうになりました。うっ…いやほんとにアホな妄想垂れ流しですみません…。

しかし話はこれだけでは終わらないのです。はじじさん(HELLO WORLDの中の人)から数日後にこんなツイートが。

えええええ!!

というわけで、監督は否定、はじじさんは肯定(!)しておられるわけですが、あの世界が量子記録と考えると、きっとシュレディンガーの猫みたいに両方の事象の重ね合わせになってて、段ボールを開けると波動関数が収束するのでどちらも真という仮説に最終的にたどりつきました(何やってんだか)。

というか、車内段ボール写真集問題がここまで関係者に広まっている件、もしかしたら自分が発端かも知れないとちょっぴり冷や汗をかきながら、それでもやっぱり段ボールの中身が今日も気になってしまう中学生マインドな自分です。

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(注)この考察はあくまで(自分なりに納得できる)解釈の一例であり、異なる解釈を排除したり反論する意図は全くありません。また、今後考察を深めていく過程でこの考察がひっくり返る可能性は十分にありますので、何卒ご承知置き下さい。
 本作の制作陣がこの作品に自由な解釈の余地を意図的に残している以上、観客の数だけ「ALL TALE(すべての物語)」が存在し、それらはすべて肯定されている、それぞれがこの作品世界において「観たい物語」を紡ぐことができる—「HELLO WORLD」は、そんな作品だと思っています。

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