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【特別寄稿】映画『HELLO WORLD』野﨑まど書き下ろし小説「遥か先」


映画『HELLO WORLD』を愛してくれた全ての人に、感謝を込めて。脚本を手掛けた野﨑まど氏による書き下ろし小説「遥か先」をお届けします。ナオミと過ごしたあの日々から約一か月、直実はある悩みを抱えていた──。

※この小説は映画本編の後日談につきネタバレ要素を含みます、映画をご覧になってからお楽しみください。



(一)

 強い光が、ガラス張りの校舎に跳ね返る。光はそのまま地面へと突き刺さり、コンクリートを焼いて、京都の街を熱する。
 夏が始まっていた。
 七月の下旬、宇治の花火大会から三週が経ち、錦高校の夏休みも目前に迫っている。
 校内を行き交う生徒達は、どこか浮足立って感じられた。進学校である錦高校では、夏季休暇の間も学習プログラムや補習が多く執り行われていて、何もない休日はそう多くない。けれどそんな事情を差し引いても、“夏休み”という言葉が十代に与える影響は絶大だ。生徒達は様々な期待で心中踊り出しそうになりながらも、表向きにはあくまでも進学校の一員らしい自制を見せながら過ごしていた。図書委員会のホワイトボードに書かれた一文もまた、そんな高い意識の表れだった。

 《不純異性交遊禁止》

 堅書直実は眉根を寄せた。
 それは夏休み前の最後の図書委員会で、委員長が書き込んだ《夏休みの注意》の一つだ。もちろんそんな校則は存在しないし、冗談であることも解っている。少し前の直実ならば、意識の端にも留めなかっただろう。けれど今の直実には、その何気ない一文が、まるで自分個人に向けられたもののように思えてしまっていた。
 一ヶ月前から、直実は一行瑠璃と交際を始めている。
 六月の古本市の日、直実は彼女に自分の想いを伝えた。彼女はそれに応え、二人の交際はぎこちなく始まった。そして、それから。
(それから……)
 心の中で、あの日々を振り返る。
 忘れられないことがあった。忘れたくないことがあった。直実と瑠璃がいま生きている“この世界”を生んだ、何物にも代えられない冒険の日々。
 そして。
 二度と会えない、大切な人。
 その人は、色んなことを教えてくれた。何もできない自分をずっと導いてくれた。力を合わせて、反目し合って、殴って、許して、心を通わせた。
 その人は、直実の“先生”だった。
 不意に涙が滲んでくるのを、歯を食いしばって堪える。委員会の最中に泣き出すわけにもいかない。そんな弱虫じゃ、また怒鳴られてしまう。心の中でもう何度も繰り返した、先生の最後の教えを思い出す。
 僕は、幸せにならなきゃいけない。
 それが僕との、約束だから。
 そのために、直実はすでに準備していた。鞄の中に、幸せを掴むための鍵を潜ませていた。それは大垣書店高島屋店で一時間かけて選んだ、綺麗に包装された、瑠璃へのプレゼントだった。
 頑張って選んだ。きっと彼女は喜んでもらえると思う。あとは渡すだけだ。という状態になってから、すでに四日が経ってしまっていた。
 ちらりと、隣に座る瑠璃の横顔を盗み見る。
 直実は歯噛みした。渡すタイミングがまったくわからない。そもそも彼女の誕生日などの特別な日ではなく、ただプレゼントしたいなと思って買っただけのものだ。直実の心中で、二人の自分がせめぎ合う。何もないのに急に贈り物をするなんておかしいと止める自分と、いや恋人同士なんだから至って普通のことだと背中を押す自分だった。けれど背中を押す方の自分だって女子と付き合ったことなど一度もないのだから、正直信用ならない。
 けれどこのまま持ち歩き続けていたら、包装だってそのうちよれてしまう。今日だ、今日委員会が終わったら渡そう。と思った矢先に、隣の席の瑠璃が真剣な顔でメモ帳に、《不純異性交遊禁止》と書き留めているのが見えた。
 自分がこの世界の神様なら指を弾くだけでホワイトボードを書き換えられるのに、と思ったが、残念ながら直実は神ではなかった。


(二)

 委員会が終わって、銘々が席を立つ。その多くが自然と勘解由小路三鈴の周りに集まり始めた。これももう見慣れた光景で、彼女の友人のマロさん(あだ名)がマネージャー業務として列の整理を始めている。
 本日のテーマは「夏休みに勘解由小路三鈴と一緒にでかけよう」らしかった。男子は何かしらの約束を取り付けようと、頑張って話しかけていた。マロさんはお客さんが演者に近づき過ぎないように規制線を引いている。
 直実はその輪には近づかなかった。それは当然で、自分にはもう決まった人がいる。同じ委員会の中の恋人がいる。その彼女の見ている前でアイドルの催しに参加するなんて真似はとてもできない。白い目で見られるのを想像するだけで足が竦んだ。虎の檻の中にいるような恐怖に駆られて、直実が周りをキョロキョロと見回す。
 だが彼女の姿はなかった。室内に再び視線を走らせると、今まさに部屋を出て行こうとする背中が見えた。周りに一切の影響を受けない彼女の行動ペースは、直実と交際を始めてからも変わることがない。慌てて追いかけようとした時、後ろからカバンを思い切り引っ張られた。
 直実が振り返ると、きらきらした女子が微笑んでいた。
「堅書君」
 勘解由小路三鈴が手を自分の口元に添えた。内緒話をしようというジェスチャーだったが、そこに耳を近づける勇気は直実には無かった。他の男子や専属マネージャーがこちらの一挙手一投足を凝視しているだろうことは、背中に刺さる視線でわかる。
 勘解由小路三鈴はしばらく内緒話のポーズで待っていたが、やっと諦めたのか、手を口に添えたまま普通の音量で言った。
「ねえもしかして、堅書君て」
「ええ」
「堅書君とるりりんて」
「…………なんですか」
「…………堅書るりりん?」
 勘解由小路三鈴はこの世界の真理に到達したような眩い顔をした。
「堅書るりりん!」
「なにそれ! 違います! なんだかわからないけど多分全然違いますから!」
「一行なおみん!」
 にあああああああと三鈴が叫ぶ。内緒話のポーズのままだったので、山に向かって大声で叫んだようになっている。直実は顔を赤くしながらその場を逃げ出した。
 自分にこの世界のシステムの権限があれば、今すぐ三鈴を鞍馬山くらいまで飛ばしてしまうのに、と思ったが、直実にその権限はなかった。


(三)

 一行瑠璃は、バス停で本を読んでいた。
 直実が追いついたのと同時にバスが滑り込んできたので、会話もないままに二人は乗車した。車内はいつも通り混み合っていて、一緒に座るどころか、二人並んで立つこともできなかった。
 仕方なく吊り革に捉まり、背中向きでそれぞれ本を読んだ。三ページほど読み進めたが、文章に上手く集中できなくて、直実は溜息を吐いた。
 恋人同士になっても、彼女は本当に変わらない。
 良い意味でも悪い意味でも、一行瑠璃は付き合い始める前と全く同じだった。話は普通にする。本の感想を言い合ったり、お勧めの本を教えあったりしている。けれどそこまでで、そこからもう一歩近づけるような気配は感じられない。お昼を一緒に食べよう、なんていう恋人らしい真似は話題にすらも上がらない。そんな状態であったので、積極的に隠そうとしなくても、直実と瑠璃が付き合っていると思う人間は誰もいなかった。勘解由小路三鈴はなぜ解ったのだろうと疑問に思う。彼女が『鬼恋』シリーズの大ファンだからだろうか。
「降りましょう」
 驚いて顔を上げる。いつのまにかバスは、神宮の大鳥居の下まで着いていた。直実は慌てて瑠璃の後を追った。


(四)

 平安神宮にほど近い京都府立図書館の席で、二人が向かい合って座る。
 名目上は夏季休暇に入ったとはいえ、まだ当分は補習の期間があり、課題も非常に多く出ていた。本を読みたい気持ちは一旦脇において、二人で黙々と勉強を進める。だが直実はそれにもあまり集中できていなかった。自分が今クリアしなければならない課題は、数学や古文ではないという気がしていた。
「一行、さん」
 小声で、恐る恐る話しかける。とても恋人同士とは思えない距離を感じる。
「明日とかって、予定ありますか。もしお暇でしたら……」
 言い終わらないうちに、彼女は電話を取り出した。少し前まで二本指でスマートフォンをつまみあげていたが、今はぎこちなくも基本的な操作ができるまでになっていた。一つのことをやると決めた時、彼女の集中力は本当に凄いと直実は思う。
「先ほどまで暇でしたが」
 言って彼女は電話の画面を見せてきた。Wizのトークには、《勘解由小路三鈴》の名前が見えている。
「誘われてしまって」
「や、先約があるなら全然。大丈夫です」
「すみません」
 瑠璃は礼儀正しく頭を下げると、再び勉強に戻った。だがすぐに電話が震える。彼女はトーク画面を確認してから、直実を見返す。
「午前中からでかけるそうなので。午後ならば」
 直実はぱちりと瞬いた。友達と遊ぶ時は普通丸一日じゃないのかな、勘解由小路さんの方は午後も一緒に遊ぶつもりなんじゃ、と思いはしたが、このチャンスを逃す手はなかった。明日の午後に瑠璃と落ち合う約束を取り付けて、カレンダーにも書き込む。
 足元に目を落とすと、カバンの中からプレゼントの包みが顔を覗かせている。プレゼントが「今渡せばいいのに」と言っている気がした。こういうことは心の準備が必要なんだ、とプレゼント相手に言い訳をして、直実はカバンのチャックを閉めた。


(五)

 在籍板に、赤い文字の木札が下がっている。
 アルタラセンター・センター長、千古恒久は、椅子の背もたれにより掛かりながら、もう裏返らないだろう札を眺めた。それはこの数年ですっかり見慣れた文字列で、そしてこれからも、変わらず眺め続けるものだと思っていた。
 あの大事件を境に、アルタラセンター・システム管轄メインディレクター、堅書直実は姿を消した。
 それはこの京都で起きた未曾有の事件だ。量子記憶装置アルタラから発生して、街に溢れた謎の狐面の大軍。京都駅の建物を破壊し、京都タワーをへし折った巨大な怪物。それらが全て消え去って、そしてアルタラそのものも忽然と消えた、まるで一夜の夢のような出来事。
 それから数ヶ月が経ち、現在千古は事件の後処理に忙殺されている。責任の問題はもちろん発生したが、そもそも何が起きたのかが、誰一人正確に把握できていなかった。調査は今も続いていて、そういった意味ではまだ千古の責任問題が片付いたわけではなかったが、少なくとも今はアルタラセンターで仕事を続けられているし、センター長の個室もまだ使えていた。
 事件のすぐ後。
 千古はセンター内のナオミの個室で、ノートの切れ端に書かれた手紙を見つけた。そこに残されていたのは短い告白と、謝罪と、そして感謝の言葉だった。
 告白、といっても小さな紙片で、詳しい内容にまでは触れられていなかった。彼がやったこと、その結果、そして殴り書かれた簡単な図だけがあった。それはひどく単純な、落書きのようなものだ。けれどきっとナオミは、それだけで千古には解ると思っていたのだろうし、実際に伝わった。
 図が示していたのは、観測された現象に対する、一つの推論だ。
 この世界のこと。
 世界の在り方のこと。
 千古は椅子にかけたまま、思考だけを遠くに飛ばした。科学的な思考を走らせる時、論理は大抵後から付いてくるもので、最初に向こう側から結論がやってくる。今もそうだ。計算も証明も何もかもがこれからだが、手の中にはすでに、信頼できる感触がある。
 ナオミとは、もう二度と会えないのだろう。
 彼がどこに行ってしまったのかはわからない。けれど行き先が遥かな遠くであることはわかる。それはきっと距離という量だけでなく、質的に、ここと隔絶された場所なのではないかと思う。
 たとえば【相の違う世界】。たとえば【新しい宇宙】。
 ナオミはそんな場所に行ってしまったのだと、自分は考えている。だとすれば二度と会えないというのも当然の帰結であろう。
 けれど同時に、自分は知っている。
 科学と技術は、人間の不可能を可能にしていくものだということを。
 真逆を向いた予感と知識が自分の中で共存する。そしてそれは、なんらおかしなことではない。ナオミが残した図は、未来に向けて打ち込まれたハーケンだ。それを掴めばいい。そして一歩登ればいい。我々はもう、この世界の淵に手を掛けている。
 いつか、ここを出る日がくるのだろう。上か、下か、もしかしたらまだ知らない方向へ。
 論理も計算も証明も未だない。ゴールまでどれくらいの距離があるのか検討もつかない。自分が現役の間には無理かもしれない。生きているうちでも駄目かもしれない。自分一人では、何にも到達できないかもしれない。でも、大丈夫だ。
 だって向こうには、ナオミがいる。
 一人では無理でも、両側から手を伸ばしたなら。
 きっと彼に、もう一度会える日が来るだろうと思った。
 千古は一人微笑んで、コントロールルームの机を離れた。部屋から出ようとすると、出入口に防獣用の電気柵が張られていた。
「仕事をして下さい」
 徐依依は冷たく言った。千古は仕方なく、室内の用具入れに隠しておいた、四つのプロペラ付きのホバーバイクにまたがって、柵の上を飛んで逃げた。後ろから依依の怒号が聞こえてきて、なかなか静音性の高いプロペラだと思った。


(六)

 一行瑠璃は、鏡の前で顔を歪ませた。へそが出ている。
 罠だった。勘解由小路三鈴が買い物に付き合って欲しいというので、わざわざ河原町くんだりまで出てきてみれば、三鈴の買い物は一つもなく、なぜか自分がマルイの試着室に押し込められている。
「世界一かわいくするよっ」
 と三鈴は叫び、京都マルイのレディスファッションフロアを縦横無尽に走り回って、色とりどりの洋服を次々に選び出してきた。瑠璃はマルイにはほぼ来ない。本屋がないからだ。向かいの高島屋に行けば大垣書店があるのだからマルイに用はない。いや、でも確かアート系の古書店が一つだけ入っていたような気がする。縁遠い分野だけれど、良い機会だし今日寄ってみるのもありかと思う。早くそこに行きたい。一刻も早く肩とへそをしまいたい。
「どうっ」
 カーテンの隙間から三鈴の首が飛び出した。
「ないです」瑠璃は首を振る。
「いい……」
「開け、開けないで」
 制止も虚しくカーテンが開かれた。諦めて腕を組み、せめてへそを守る。服と言うには空隙が多すぎる格好で、人前に晒す気にはとてもならない。
 だが三鈴が両手に下げている服はさらに穴が多かった。あれでも服のつもりだろうか。デザインをした人間には、袖とはなんなのかを教え直す必要がある。
 また問題は穴だけではない。ぷらんと垂れたタグには《四八〇〇円》の文字が並んでいる。四八〇〇円。四八〇〇円だ。文庫なら六、七冊、ハードカバーでも二冊買えるだろう。そうだ、ちょうどこの前に単行本の新刊が。
「半分、ううん、全部、全部出すから、私、働くから」
 瑠璃の心中を察したのか、三鈴が血走った目で言った。同級生にこんな高いものを買ってもらうわけがない。いったい何が楽しいのかまったく理解できなかった。こんな珍奇な格好、三鈴以外に喜ぶ人など。
 唐突に、顔が浮かぶ。
 奥歯を噛み締めて、そのイメージを無理やり消した。喜ぶ人など、など、と心中で繰り返してから、はたと止まる。一人でいくら考えたって、彼の本当の気持ちなどわからないだろうことに思い至った。
 三鈴の顔を見る。きょとんとしている。
 今、少しだけ、彼女の気持ちが理解できた気がした。
 自分以外の人のことを考えること。
 それが心地良いこと。胸が温かくなること。
 ついこの間まで知らなかった、まだ慣れない、とても不思議な気持ちだった。もし、この服を着たなら。
 喜んでくれるだろうか。
 振り返って、鏡越しに後ろ姿を見た。上の服と一緒に三鈴が持ってきたショートパンツは、どう頑張っても部屋着にしか見えないほど脚が出ている。無理。やはり無理だ。無理なものは無理だ。
 制服に着替え直し、からみつく三鈴を引きずりながらマルイを後にした。高島屋へ移動して、大垣書店まで来て、ようやくホームに戻った気持ちになった。
 その一角の売り場で、一行瑠璃はもう一度、自分ではない人の顔を思い出した。


(七)

 川面に夏の日差しが反射する。鴨川沿いの河川敷で、直実は首元の汗を拭った。
 どこか涼しいところに入れればよかったのだけれど、錦高校ではアルバイトが全面的に禁止されていて、大半の生徒は懐が貧しい。喫茶店などの選択肢はとれず、落ち合った瑠璃と一緒に辿り着いたのは、結局河川敷だった。
 というのは体面上の名目で、本当は最初から河川敷に並んで座ろうと直実は画策していた。自分を追い込むべきだと思った。言い訳の効かないところまで。
 寄り添う、というほどではない間隔を取って、二人が並んでいる。座って五分も経っていないが、話題は早々に尽きていた。だからもう、目的を果たすしかなかった。
 カバンの口に手を入れて、彼女へのプレゼントに触れる。
 同時に、身の竦むような緊張が、再び全身を巡る。
 贈り物とは、恐怖だ。頑張って選んだものだとしても、それを相手がどう思ってくれるかなんてわからない。ピンときてもらえないくらいならまだましで、渡したことで悪い印象を与えてしまう可能性だって十分ある。成否の保証はなく、一か八かで、荒神橋の離れた亀石まで飛ぼうとするような大博打だ。
 けど。
 それでいいんだと、直実は思った。
 プレゼントを掴む。直実はもう知っている。普通の毎日とは、そんな成否不明の大ジャンプの連続だってことを。先が見えなくても、苦しくても、信じて飛ぶのを繰り返すしかないってことを。
 あの人に教わったから。
 懐かしい声が聞こえた気がした。直実は心の中で走り出し、加速して、めいっぱいの助走をつけて、踏み切ろうとした時だった。
 彼女の手元に、すでに包みがあることに気づいた。
 でも自分はまだ渡していない。自分の手にもプレゼントの包みがある。二つの包装は似通っていて、付いているリボンを見れば、この街のどの店で買ったのかまでお互いにわかってしまった。
 目を丸くして、彼女を見遣る。同じような目と、視線が合った。
 わずかな間の後、直実と瑠璃は、二人で笑い合った。
 その時、不意に、大丈夫だと思えた。
 これから先、見通せない暗闇が待っていても。
 その向こうには必ず彼女がいて。
 彼女も一緒に飛んでいて。
 僕らは川の真ん中で、何度だって手を繋げるんだって、そう思った。
 互いのプレゼントを開き合う。直実が渡したのは、落ち着いた色のブックカバーだった。彼女がそれを使って本を読んでいたら、きっとよく似合うと思って、気が付いたら買ってしまっていた品だった。
 瑠璃が選んだのは、とても愛らしい、カラスの羽の形をした栞だった。直実はそれを、ずっと使っていこうと思った。丁寧な造りの羽型の栞は、大切に扱ったなら、十年くらいは使えるかもしれなかった。
「あと」
 一行瑠璃が難しい顔で口を開いた。忌々しげな目つきで、傍らの紙袋を見つめる。
「服を買いました。高島屋で逃げ果せたと思ったのですが、その後無理矢理オーパにも連れられてしまい、仕方なく」
「へえ。どんな服ですか」
 彼女は顔を顰めた。
「へ」
「へ?」
「そが」
「そが……」
 直実は考える。「へ」と「そが」だから、「へそが」だろう。へそがは、へそだろうか。うん? へそ?
「おへそが……?」
「決めました」瑠璃は言った。「燃してやりましょう」
「待ってください。待ってください一行さん。せっかく買った服を燃やすなんてそんな、もったいない」
「あれは服ではありません。衣服の機能がありません。足りない布です。端切れです」
「端切れだって、大切な地球の資源ですし」
「なんですか堅書さん。まさか貴方、私があんな恥も外聞もない服を着たところを見たいとでも」
 瑠璃の目が赤色に光った。
 けれど直実は、きっとここが人生の踏み切り板だと思って、もう一度飛んだ。
「見たい、です」
 瑠璃は言葉の意味を理解すると、ゆでだこのように赤くなり、果ては金魚のように口をぱくぱくとさせた。直実は加減がわからないまま、もう一回全力で飛んだ。
「絶対かわいいのでッ」
 直実の絶叫が炎暑の河川敷に轟いた。
 夏が始まっている。
 どこまでも続く青い空に、飛行機雲と、昼の月が浮かんでいた。


(八)

 目頭を押さえて、疲れた目の奥まで涙を行きわたらせた。コードと仕様書が表示されたモニタを、指のジェスチャで消し去る。やり方に最初こそ戸惑ったが、すぐに慣れた。アルタラの中で似た動きをしていたお陰だろうと思った。
 ナオミは鞄を取り、ラボの仲間に挨拶をして、国際記録機構の部屋を出た。
 作業域から居住域へと続く公道(パブロード)を、タイムを測りながら歩く。衰えていた筋肉の回復は順調で、この分ならもうすぐ月面用筋負荷装置(ムーン・ウエイト)も取り付けられるだろうと思った。
 目が覚めると、全てが変わっていた。
 ナオミが眠っている間、世界は想像を超えた速度で走っていた。目覚めたナオミが最初にやらなければならなかったのは、そのブランクを解消することだった。社会変化の認識更新、科学的な進歩の履修、そして何より自身の専門分野である、量子記録装置のエンジニアリングに関する新技術を全て覚えなければならなかった。
 それはこの場所で、チームの一員として仕事をするために必要な勉強だ。けれどその量はあまりにも膨大で、ナオミが“この時代”の人間として生きるには、もうしばらく時間がかかりそうだった。
 歩きながら、天を見上げる。
 ドーム型の天井に配置された窓から、宇宙が覗いている。 
 適応の済んでいないナオミにとって、ここはいまだ、おとぎ話の中のようだ。地球のどこの文化とも違う空の国で、魔法のように進歩したテクノロジーに囲まれている。重力の違いは、時間の流れすらも変えてしまっているように感じられた。遥か遠い場所にある、SF(サイエンス・フィクション)の竜宮城。
 けれど、ナオミは知っている。
 これまで読んできた本達が教えてくれた。SFはいつも現実とつながっている。どんなに遠くに感じられたとしても、ここは間違いなく現実の一部で。
「堅書さん」
 顔を上げる。公道の先に、待っていた彼女の姿が見える。
 胸の中に広がるやわらかい熱が、おとぎ話とドキュメンタリの境界を、ゆっくりと溶かしていく。
 ナオミは誰にも聞こえないくらい小さく、指を弾いた。
 世界は何も変わらず、在り続けていた。

 二人並んで、月面の家路を行く。
「それは?」
 ナオミは彼女の手元の袋に目をやった。大きめの袋の中に、柄の入った布が見えている。
「押し付けられた服ですが。返そうと思います」
「どうして?」
 彼女が立ち止まって、袋の中を覗く。
「これはとてもかわいい服で」
 一行瑠璃はナオミに向いて、悪戯に笑った。
「私はかわいい系ではありませんから」
 ナオミが顔を引き攣らせる。
 仕方のないことだが、これからしばらくは、この圧倒的な情報偏重に耐えなければならない。自分は知らなくて、彼女だけが知っていることが多すぎる。一刻も早く是正しなければ脳がもたない。仕事の勉強より、そちらの方がよほど喫緊かもしれなかった。
 だが今は、ひたすら無力だ。
 ナオミは諦めて、頭を掻いてから、目をそらした。
「……かわいい系だよ」
 瑠璃は満足して、手を差し出した。
 ナオミがその手をとり、二人の家へと、再び歩き出す。
 繋いだ手の平から、物理の熱が伝わり合っていた。
 
                                  終




映画『HELLO WORLD』2019年9月20日より大ヒット上映中!

メインカット

▼上映劇場はこちら▼

https://theater.toho.co.jp/toho_theaterlist/hello-world-movie.html