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舞台の外の僕らと彼女——映画『HELLO WORLD』スピンオフ『ANOTHER WORLD』2話の演劇的三人称とその破れ

映画『HELLO WORLD』には、『ANOTHER WORLD』という珠玉のスピンオフ短編アニメがあります。配信が終わってしまい、公式サイト(Internet Archive)もなくなってしまった2023年現在ではBlu-rayスペシャル・エディションでしか視聴できないというハードルが高い映像ですが、各話わずか10分のこれがとんでもない傑作でして、特に2話「Record 2032」はカタガキナオミという登場人物を考えるうえで必見である、と事あることに言い続けて早4年。

「直実はいかにしてナオミになったか?」——武井Pのこの言葉は「Record 2032」を実に端的に表しています。

本稿はこの「Record 2032」について、主に映像解釈の観点から勝手な幻覚を語り散らかすだけの記事です。当然ガッツリネタバレを含みますので、できれば未見の方はぜひBlu-rayスペシャル・エディションを入手して、まずご覧になっていただければと思います。映画本編を気に入った方でしたら、入手するだけの価値はあると思ってます。

最初に断っておきますが、自分はアニメも映画も全然詳しくありません。ニワカ知識でえらそうに語ってますが、かなりデタラメなことを書いてしまっているだろうし、用語の使い方や映像の解釈も間違いが多々あると思います。明らかな間違いを見つけられた場合は、どうぞご指摘ください。

それからもう一つ。これが公式見解であるとか真の解釈だと主張するつもりは一切ありません。公式はこんなアホなこと1ミリも考えてないと思います。あくまで頭のおかしい厄介オタクが勝手に妄想した単なるこじつけ、幻覚にすぎない、ということをふまえてお読み下さい。


まえがきに代えて:「猫好きの同級生」をE子さんと呼ばせて頂きます!

さて、本題に入る前に、2話「Record 2032」を語るうえで避けては通れない、黒沢ともよさん演じる「猫好きの同級生」の呼び方について前置きさせてください。彼女の名前は、あいにく公表されていません。公式SNSなどでも「猫好きの同級生」と書かれているのみです。造形も完全にモブキャラの3DCGモデルをそのまま使っているようで、本編を良く見るとモブシーンのあちこちに同じ顔のキャラがいたりします。

実は、映画公開当時開催された「本編+スピンオフ“イッキ見”上映会」(2019/10/15、新宿バルト9)でのコメンタリーによると、制作現場での通称は「E子」だったようです。どうもモブにA〜Eがいたらしく……。さらに「やってやりましょう!『HELLO WORLD』出町座アルタラ大作戦!」(2019/12/7、出町座)の制作陣トークでは、もともとはちゃんと名前があったがカットされたという話が出たそうです。どちらも自分は参加していないので、参加された方のツイートを貼っておきます。

本稿では、非公式ではありますが現場で使われていたというこの通称に敬意を表しまして、以下、彼女のことを「E子さん」と呼ぶことにします。

ビスタの『HELLO WORLD』、シネスコの『ANOTHER WORLD』

いきなりですが『ANOTHER WORLD』の映像って、なんともいえないエモさがあると思いませんかw (いきなりすぎる)

2話「Record 2032」に限らず1話、3話も含めて、このエモさは何なんだろうと思ってたんですが、よく見ると『HELLO WORLD』映画本編が1.66:1のビスタサイズなのに対し、『ANOTHER WORLD』は2.35:1のシネスコサイズなんですよね。かなり横に細長い画面になっている。

シネスコサイズの劇場アニメは近年急に増えてきました。シネスコの方がヒトの視野特性に近いと言われてるらしく、自分の印象だと映画的な抒情性もより高い気がします。回想シーンがほとんどを占める『ANOTHER WORLD』は特に、シネスコサイズの持つエモみとの親和性が良いですよね。ちなみに実写の場合、アナモルフィックレンズという特殊なレンズで撮影して横に引き伸ばすんだそうで、新海監督作品とかでよく見る横方向の光の滲みとかはこのレンズを意識してるらしいと聞いたことがあります。

また、別の時間軸だということが明確に区別できるのも良いですよね。この、異なる時間軸をビスタとシネスコで表す、というテクニックは、過去に伊藤監督の『僕だけがいない街』でも使われてたりします。

徹底的な引きの構図で撮られた、定点観測的ワンシチュエーションドラマ

もう一つ『ANOTHER WORLD』の画面作りで特徴的なのは、カメラ位置です。映画本編とは大きく異なる、まるで定点観測のような映像

たいていの映画やドラマ、アニメでは、カメラが縦横無尽に作品世界を動きます。被写体に近づいたり遠ざかったり、広角になったり望遠になったり。カメラの位置やアングルも常に変化し続けます。それが映像に躍動感を与えたり、人物の心情を雄弁に語ったりもするわけです。

ですが、本作品はナオミの部屋を舞台としたワンシチュエーションドラマになっていますそして部屋全景のロングショットが基本アングルとなり、そこからカメラがほとんど動くことなく話が進んでいきます。

下の図は、ナオミの安アパートの部屋の間取りを映像から推定して描いてみたものです(ただし、あくまで独自の推定であり、正確性は保証しませんので注意! また当然、フレーム外の部分は完全に想像です)。

ナオミの部屋の間取り(映像から独自に推定して作成)

人物との縮尺などから、恐らく6畳一間のワンルームと思われます。玄関は西日が入る向き。靴箱の裏に非常に狭いキッチンらしき設備があるようです。反対側には締め切った窓と小さな棚。その左隣に収納と思われる取っ手も見えます。例えば北白川のこちらの物件などが、柱や鴨居の感じも含めて似ている気がします(建物外装やトイレは、一乗寺のこちらが近そうです)。

この部屋が舞台となって話が進んでいくわけですが、カメラ位置は基本的には下の図中の「A」にほぼ固定されます。この地点からテーブルとナオミを中心に、玄関から窓までを視野に収めた引きのショットが多用されます。カメラがわずかに水平移動する場面もありますが、大きく動くことはありません。まるで定点観測のように、カメラは淡々と室内を記録し続けます。

「Record 2032」の基本的なカメラ位置(メイン:A、サブ:B)

もちろん、ある程度のバリエーションは存在します。訪問者のシーンでは、玄関の外(図中の「B」あたり)からドア越しにやや俯瞰で撮影するカットもあります。また、主に補足説明のためのクローズアップが頻繁にインサートされることで、画面の単調さを防いでいます。ですが、メインはあくまで視点Aです。視点Bはサブに過ぎません、動きがある場面はほとんどがAから撮られているのは特筆すべきことです(一箇所例外がありますが後述します)。

下の公式ツイートでいうと、4枚の画像のうち、画像1枚目が視点A、4枚目が視点B、2枚目と3枚目はインサートカットに相当します。

恐らくこれは、単にいかに背景を減らして作画や演出の手間を省くか、という工夫の一環なんだと思うんですよね。いわゆる「同ポ」とか「兼用」とか言われているテクニックの一種なんだと思います。実際、伊藤監督はインタビューでそのような趣旨のことを話しておられます。

監督や演出を他の人にお願いするは難しいけど、本編の作業もあるので自分がやるにも限界がある。そういった条件の中で「何ならできるか」という物理的な逆算から始まった作品です。

例えば第1話は、本編の映像素材をできるだけ活用しながら、なるべく新作っぽく楽しめるような形になっていたり、第2話はすべて新規映像ですが、シチュエーションが変わらないので、背景をずっと使い回せるようになっていたり

アニメイトタイムズ「アニメ映画『HELLO WORLD』伊藤智彦監督BD&DVD発売記念インタビュー」

この絵作りは単純に物理的な制約によって生まれた演出でしかなくて、自分がそこに「何か」を感じたとしても、それはこちらの勝手な妄想だとはわかってます。わかってるんです。

だけど、この映像にはどうしても勝手に深読みしたくなる「何か」がある。そして、そんなこの2話の映像表現が、自分は本当に好きなのです。

以下ではそんな独断と偏見の深読み結果を書き連ねてみたいと思います。あくまでこれは曲解と幻覚であるということを承知のうえでお読みください。

この世は舞台、人はみな役者——「Record 2032」を特徴づける演劇的構図

シネスコという映画的なアスペクト比で撮られている本作品ですが、不思議なことに初見時真っ先に強く感じたのは、映画というよりむしろ演劇でした。なんだか、すごく舞台劇みたいだな、と。そんな演劇性を特に強めているのが、定点観測的な引きの構図です。

もう一度間取り図を見てみましょう。自分が特に「演劇っぽさ」を感じるのは、視点Aから引きで撮ったシーンです。ちょうど自分が「観客」としてAの位置にいて、「舞台」の上にナオミの部屋が再現されている。南側の壁はぶち抜かれている。「下手袖」にちょうど玄関があって、役者が出入りする。そんな舞台のイメージ。

観客はAから舞台を見ているイメージ

本作品の場合、カメラが視点Aからほぼ動かない。たまに視点Bや主観ショットがインサートされる程度です。縦横無尽にカメラが動く映画とは対照的です。この、固定視点での引きの映像がもたらす「観客の動けなさ」が演劇っぽさの一因となってる気がします。

またミニマリスト並の家具の少なさ、生活感のなさも、書き割り感を際立たせています。実際、適当な舞台にテーブルとドアと段ボールだけ置けば、そのまま芝居にできるな、と思えてしまうんですよね。

それにしても、固定カメラのロングショットだけで話を描く方法は、演劇以外にも、シットコムとかバラエティ番組のコントなんかでもよくありますし、日常系アニメなんかでもよく見る構図ですよね。なのに、なぜかそういう映像ではここまで「演劇だ!」という気がしなかった。なぜ、この作品はこんなに演劇っぽいのだろう、とずっと思ってたんですが、映像を見返してて気づきました。

カメラのポジションがめちゃくちゃ低いんです。ほぼ床すれすれで撮っている。たぶん、ローポジションで有名な小津安二郎さんとかよりさらに低い。実際、畳はまったく画面に映っておらず、積み上がった本からかろうじて床の存在を推測できる程度です。ただし、かなり遠くから広角で撮ってるのでアオリ感はほとんどなく、アングルは水平のままです。

言い換えると、アイレベルがちょうど床の高さに相当します。現実には、そんな位置関係はたとえ寝転がっても無理で、床より一段低いところにいなければこんな絵は撮れない。言うなれば、ホールの前から数列目あたりで舞台を見てるときの視点にかなり近い。

もちろん大きな劇場では後列座席に行くほど高さが出るため、アイレベルも高くなり、床も十分に見えるはずです。ですがあいにく、自分は劇場での観劇経験があまりない。むしろ自分が「舞台」と聞いて思い浮かべてしまうのは学校の体育館や講堂の舞台だったりします。中学生の頃、訳あって短期間ですが演出の真似事をやったことがあって、連日眺めていた舞台の見え方にかなり近い。ような気がする。というわけできわめて個人的な理由に引っ張られてるだけなのかもですが、自分にとっての「舞台」の原風景を図らずも意識させてくる映像という気がしました。

映画の「主観・一人称」 VS. 演劇の「客観・三人称」

では、映画本編や他の「Record」がどうかというと、これらはきわめてオーソドックスな映画的構図になっています(「Record 2036」はまたちょっと特殊なのですが、それは別稿にて)。「Record 2032」だけがなんだかすごく演劇チックで特殊なのです。

では演劇と映画は何が違うのか。自分は映画論も演劇論も完全に素人なので印象だけで乱暴なことを書きますが、映画(ドラマ、アニメを含む)は主観の芝居、演劇は客観の芝居なのではないかと思っています。

もちろん、映画で客観を、演劇で主観を扱うことは大いに可能で、その挑戦にこそ芸術性が宿るのは確かなのですが、ここではうんと単純化して、観客の視点にのみ着目します。

演劇では基本的に視点は固定です。観客は、舞台全体を俯瞰できる立場にいて、作品世界とは第四の壁で完全に断絶しています。観客にとって、登場人物は主人公も脇役も完全に等しく「第三者」であり、観客は「登場人物の視点」を直接追体験することはできません。回り舞台とかでない限り、世界を覗き見る視線ベクトルは常に「客席→舞台」という一方向です。そこでどんな喜劇、悲劇が起こっていようとも、観客は一歩引いた立場で安全圏からそれを眺めることができますし、それしかできません。

そんな芝居に没入感を付与したのが、映画というメディアです。もちろん演劇的な第三者視点も残しながらですが、カメラは登場人物の周りを動き回り、時には登場人物の視点そのもの(POV視点)にもなります。観客は作品世界に完全に入り込み、登場人物から見える風景を追体験します。なお、これをさらに押し進めて完全に主人公視点を徹底してやっているのがFPSやノベルゲーになりますが、詳しくは別稿に譲ります。

つまり、ざっくり言うとこういうことなのかなと。

客観・三人称      
↑    演劇
|    映画
  ↓   ノベルゲー
主観・一人称

客観というのは舞台のことだからね。つまり演劇だよ。我々というのは、舞台の人物を見ている客だ。我々は彼らと一緒のところにはいない。我々は相手の観点で見ることはない。

A・ヒッチコック『ヒッチコック映画自身』(「映画技法講座8「POV」1/2」より引用)

三人称で突き放されるカタガキナオミの「奇行」

で、話を戻すと、「Record 2032」のみがきわめて演劇的な構図で作られている。ということはつまり「Record 2032」は、一連の『HELLO WORLD』のエピソードの中で唯一、三人称、客観で描かれた物語になっている、といえるのではないかと勝手に思っています。

映画というものはだいたい、主人公にある程度感情移入できるように作られています。『HELLO WORLD』『ANOTHER WORLD』も例外ではありません。基本的に映画本編は堅書直実、『ANOTHER WORLD』はカタガキナオミの心情に寄り添い、彼らの葛藤や悩みを観客と共有しながら進んでいきます。

ですが2話「Record 2032」だけは、きわめて演劇的な画面設計、つまり客観、三人称で描かれています。映像は徹底して主観を排し、第三者視点から事実を淡々と描いていきます(たまにインサートされるPOVカットがかろうじてナオミの心情を拾い上げているのみです)。1話、3話に頻発するナオミのモノローグも、2話では導入部と結末にしかありません。部屋を先輩や同級生が訪ねてくるという、物語が動き始めるシーンからはモノローグが一切消えているんです。

この2話において、ナオミはおおよそ大学生らしい生活のすべてを犠牲にして勉学に打ち込みます。ボロアパートに塩パスタという極貧生活。先輩や同級生からの誘いも一切拒絶し、同級生「E子さん」の厚意(好意)もはねつけ、彼女を決定的に傷つけてまで我を通す、狭量で狂ったキャラクターとしてややネガティブに描かれています。1話の堅書直実(子供)とも3話のカタガキナオミ(大人)ともだいぶ違う、感情移入ポイントを見せないドライでシビアな扱いです。声優が違うことで、さらにその異質性に拍車が掛かっているような気もします。

もちろん、本編や『ANOTHER』の他のエピソードを見たあとだと、その狂気の裏にある必死の想いは痛いほどわかるし、ヤタのエピソードからも彼に優しさや人間らしさはまだ残っていることはわかります。ですが、この2話は徹底して常識的、現実的な視点からナオミを突き放していて、それを補強しているのがまさに、演劇的画面レイアウトなのではないかと思います。

2話はモノローグやPOVを極力廃し、ナオミの心情などおかまいなしに粛々と出来事を描いていきます。まるでアルタラが事象を淡々と記録するように。それは、ナオミ自身の記憶にこの頃の思い出があまり残っていないからということもあるのかもしれません。冒頭のモノローグに、

大学の間のことは、あまり覚えていない。
知識は増えたが、思い出はない。
人が心に残すのは特別なことだけで、あの頃の俺に特別な出来事などひとつもなく、ただ必要なことを必要なだけやり続けた日々だった。

『ANOTHER WORLD』2話「Record 2032」

とあるように、ナオミ自身が当時のことをよく覚えていないからこそ、ナオミ視点で描くことができず、まるでアルタラの記録映像のような絵にならざるを得ないのかもしれません。

直実がナオミになろうとする数年間の空白。本人の主観で語り得ないからこそ、その数年間は本エピソードで徹底的に脱構築され、「舞台の外側」から粛々と観測されるのみです。彼の愚直なまでの必死さは、第四の壁の外側、観客席から眺めている僕らにはどこか異様にさえ見えます。

そして、そのナオミの奇行を際立たせているものが、演劇的構図のほかにもう一つあります。それが、E子さんというこれまた特異な存在です。

観客代表としての「E子さん」が代弁する完全な「正論」

猫好きの同級生——E子さん。

「Record 2032」が非常に特殊なエピソードであるのと同じように、E子さんもまた『HELLO WORLD』内ではきわめて異質なキャラクターです。

陽キャのリア充としてナオミの前に現れるE子さんは、「エグい」という言葉の誤解のせいで第一印象こそ悪いものの、ヤタのエピソードや看病イベントなどを通じて「めっちゃ良い子」であることがわかってきます。

この2話を観ている時点で、ほとんどの観客は映画本編や『ANOTHER WORLD』1話をすでに観ています。その過程でナオミにそれなりに感情移入していた僕らはこの2話で、演劇的客観視点によるネガティブなナオミ描写に少々面食らいます。ナオミ、想像以上に「ヤバい」ことになっているな、と。そしてナオミの「奇行」を心配する立場になります。

それはそのままE子さんの心情でもあり、観客はナオミではなくE子さんに次第に感情移入していきます

作中で、不在のナオミに代わってE子さんがヤタに餌をやりながら感情を吐露するシーンがあります。そもそもこの「ナオミ不在シーン」自体、ナオミが知らないはずのエピソードであり、「Record 2032」がナオミの主観から離れた「客観」エピソードであるという何よりの証拠でもあるのですが、そこでE子さんが傍白的に本音をこぼすことによって、このシーンはさらに「E子さん視点」的な意味を帯びてきます

ナオミが部屋で倒れている時のE子さんのシーンも同様で、E子さんからの電話で聞いたというていを装いつつ、完全にE子さん側に感情移入させる巧みなエピソードです。対照的に、ナオミの心情は極端なまでに語られません。観客は「E子さんとしてナオミの台詞を聞く」ことでしか彼の内情を推し量れません。

こうして2話は次第に「E子さんの物語」となっていきます。だからこそ、クライマックスでのE子さんの想いの爆発は、もはや観客にとって完全に「主人公ムーブ」でしかありません。

「でもさ。……もう、目、覚まさないんでしょ。お医者さんでも無理なんでしょ。カタガキくんはさ、それでいいわけ」
「……」
「起きない恋人と、一生一緒にいんの?」
「……」
「そんなの全部自己満じゃん! 起きないんでしょ? 無理なんでしょ? なら認めるしかないじゃん。目そらさないでちゃんと生きるしかないじゃん。彼女だって、そんなことしてほしいって絶対思ってない。あたしだったら絶対思わない。カタガキくんが好きなら、カタガキくんに幸せになってほしいって思うもん。頼むからさ、自分の幸せのこと考えてよ!」

『ANOTHER WORLD』2話「Record 2032」

正論です。どこからどう見ても完全に正論です。

常識的に考えて(量子精神で神経修復できるとかいう奇策は知らないとして)、回復の見込みがないであろう彼女のためにすべてを犠牲にするというナオミの生き方はあまりに異様であり、見ていてつらいものがあります。どこかで「目をそらさないで生きる」決断をするしかない。それが普通の感覚でしょう。彼の奇策を知っている我々観客でさえ、ナオミに「幸せになってほしい」と願う気持ちはE子さんと何ら変わることはありません。E子さんの叫びは観客の叫びに他なりません

(ちなみに「彼女だって、そんなことしてほしいって絶対思ってない」は、3話の「彼女が本当に、俺との未来を望んでいるのかどうかも……」への伏線にもなってますね。)

現実と常識に立脚したE子さんだけが果たせる、唯一の役割

自分の幸せのことを考えてほしいという、E子さんの、そして観客の悲痛な願い。それは常識的に考えて完全に正論であり、当然の考え方です。登場人物の幸せを願う観客の願いそのものです。

と同時に、ナオミがそれを絶対に受け入れないであろうことを、観客は知ってしまっている。その台詞がいかにナオミの神経を逆撫でするかも、E子さんの想いが決して届かないことも、知ってしまってるわけです。

それでも。

E子さんの存在は、物語にとって、観客にとって、必要なものだったと思っています

この作品においてE子さんは、現実的な物の見方ができる希有なキャラクターとして唯一の存在です。というのも、『HELLO WORLD』の他の登場人物は基本的にほぼ全員、現実とか常識とかいったものから少し距離を置いて生きているからです。

直実・ナオミも一行さんも、現実より物語の世界を好み、物語の力で現実を生きていくタイプ。浮世離れした千古さんたちやアルタラセンターの人々も同類かもしれません。一番の常識人と思われる徐さんだって、千古さんの右腕な時点で普通じゃない。かでのんでさえ、図書委員であり鬼恋シリーズやコスプレが好きということは、リア充でありつつフィクションを愛する、令和のオタク像に近いです。

だけどE子さんだけは、現実に立脚して生きている。

狂気の道に進もうとするナオミを唯一、現実に引き戻そうとする役です。

物語という主観に没入しがちなナオミ達とは正反対のところにいる、ただひとりの現実志向キャラです。その意味で彼女は、きわめて特殊な存在です。

E子さんがいることで初めて、観客はナオミの主観から離れて多角的な視点から冷静に物語を追うことができる。暴走しがちな彼に現実を直視させようとする彼女の視点は、夢物語になりがちなこの手のプロットにリアリティの手触りを与えてくれている。現実サイド——つまり観客側に彼女が立ってくれているからこそ、僕らはこの現実の延長線上にこの物語を感じ取ることができる

部屋に入れない彼女、第四の壁を超えられないカメラ

現実サイド、観客側から物語を語る立場にいるE子さん。だとするとこの作品の、主観を排し俯瞰的に舞台を眺める演劇的な構図は、まさにE子さんのそんな側面を表したものなのかもと思います。ナオミの主観とは決して相容れない視点で語るための舞台設定。

考えすぎかもしれませんが、E子さんがナオミの部屋(=舞台)に断固として入れてもらえないのも、E子さん=観客側だからと考えるとしっくりきます。

一行さんの栞が大切に飾られている6畳一間はナオミにとって不可侵の空間であり、同時にナオミの主観的「世界」そのものであって、そこによそ者が入ることは、E子さんであろうとカメラであろうと許されない。演劇において観客と舞台が第四の壁で隔てられているのと同様に、E子さんも部屋の外から間接的にナオミの心の内を窺い知るしかないんです。

一度だけ、ナオミが倒れてE子さんが部屋の中に入る瞬間は、E子さんがナオミの主観に最も近づくことができた奇跡の一瞬でしたが、あくまで一時的なものでした。唯一、舞台袖という現実と虚構の界面、ナオミの部屋のドア前の空間だけが、いわゆるDMZ、客観と主観の緩衝野であり、二人が対峙できる奇妙な空間です。

E子さんが部屋に入れないように、カメラは部屋に入れない。ナオミ視点には決してなれない。だからこそ演劇的なロングショットしか許されないし、ナオミの一人称は決して語られない。

ですが、ただひとつ、例外的なシーンがあります。

すでにお気づきの方も多いかもしれません。これまで述べてきたような演劇的構図が、ほんの一瞬だけ破られるシーンがあります。

——そうです。「幸せになってみなよ、バーカ!」のシーンです。

演劇が映画になる瞬間——突然の主客反転で「ナオミ主観」映像が始まる

2034年2月。15時24分。E子さんがヤタを引き取りに来ます。

——視点B
「……二度と来るなと言った」
——視点A
(ヤタの段ボールを持ち上げるE子)
「おい」
「ヤタはあたしがもらうから」
「は? 何を」
「カタガキくんといたってこの子幸せになれないから」

『ANOTHER WORLD』2話「Record 2032」

ここまでは、いつもの視点B→視点Aで話が進んでいきます。もう一度、間取り図を見てみましょう。あくまで演劇的構図を崩さず、ナオミとE子さんのやり取りが引きで淡々と描かれます。

ところが、です。

——視点C
「あたし、カタガキくんは不幸になると思う」

『ANOTHER WORLD』2話「Record 2032」

この台詞で突然、カメラはまったく新たな視点Cに移動します

視点Cは部屋の中にあります。視点Bに対して、完全に切り返しの位置。しかもこの移動はイマジナリーライン(ナオミとE子さんの視線を結ぶ線)を超える形で行われます。一般にはイマジナリーラインは越えてはならないとされており、「イマジナリーライン越え」は一種の禁じ手であり、観客を意図的に混乱させるために使われることが多いようです。カメラが突然視点Cに移動することで観客は一瞬翻弄され、衝撃を受け、物語がまったく新しい構図で語られ出したことを知るのです。

そこから「バーカ!」までの一連の台詞はすべて視点Cで描かれます。それまではロングショットでしか描かれなかったモブ顔のE子さんが、初めて真っ正面の大写しで登場する、非常に印象的な場面です(下の公式ツイートの右下ですね)。画面内でE子さんが向かって右側に来ることで、映像力学的に強さが逆転したことも窺わせます(画面の右側のほうが強い)。

すごい演出です。コペルニクス的転回といっていい。

それまで絶対に入れなかった「部屋の中」、つまり第四の壁の中に、ついにカメラが入る。「外の世界」からナオミの部屋を覗き見るしかなかった「外→内」の視線ベクトルが一気に反転して、「内→外」になる。

客観から主観へ。
三人称から一人称へ。
演劇から映画へ。
現実から物語へ。
俯瞰視点からナオミ視点へ。

徹底して客観描写を貫くこの2話において、このシーンだけは、「ナオミが見たE子さん」を描いている

このシーンはちょうど、「Record 2032」のラストのナオミのモノローグの

大学の間のことは、あまり覚えていない。

けれど、あの言葉だけは、今でもたまに思い出す

『ANOTHER WORLD』2話「Record 2032」

という部分とも見事に呼応します。ナオミの記憶にほとんど残っていない大学生活の中で、ほんの一瞬、強烈に覚えている瞬間。だからこそ淡々とした記録映像の中でこのシーンだけが、「主観映像」として鮮やかに描かれているのかもしれません。

そしてこの唯一のナオミ主観映像があるからこそ、E子さんの言葉は僕らの胸に深く突き刺さるのかもしれません。まるで自分が言われたようなショックを受ける。実際、ナオミもそれなりにショックだったのだろうと思います。

もし仮にカメラ構図が視点Aのままだったとしたら、どこか他人事に見えてしまったかもしれない。あるいは相変わらずE子さん側に自分を重ね合わせていたかもしれない。だけど視点が部屋の中——ナオミの心の中に移動することで、もはやE子さんは「外部」になってしまいます。この瞬間、それまで代弁者となってくれていたE子さんの心から、観客は突然放り出される。そして彼女とヤタは舞台から去り、あとには二人の決定的な断絶だけが残される。

2話全体を司る演劇的客観描写のクライマックスで見せられる、鮮やかな視線の反転、客体から主体への転換。

特にナオミやE子さんの心情を言葉で説明するわけでもなく、ただ構図だけでここまで雄弁に物語を描けるというのか。

いや、ほんとすごい。

すごいです(語彙力)。

僕らの作品観すら改変する彼女が、ナオミの人生にとって無意味なわけがない

こうして束の間の舞台劇は終わりを告げ、観客はいつものナオミ主観の物語に自然と引き戻され、第3話へとつながっていきます。一行さんの栞が大写しになり、ナオミの「ああ、やってやるさ」の台詞とともに観客は彼女を救う「物語」に再び身を投じていきます。奇行に見えたナオミの行動原理は再び正当化され、観客の共感の対象となります。ナオミを「現実」に引き戻そうとしたE子さんのクーデターは「失敗」に終わり、ナオミの10年間の物語におけるただの擾乱として片付けられていきます。

そう、ナオミにとってこれはただの擾乱にすぎなかったのかもしれない

だけどこの「Record 2032」で一度E子さんの視点に立ってしまった観客は、最後にそこから突き放されても、もうE子さんのエピソードを切り捨てられないわけです。E子さんのささやかな努力が、ナオミの人生にとって意味のあるものであってほしい、と思わずにいられないのです。だってE子さんはもともと、観客の代弁者そのものだったのですから。

「ナオミに幸せになってほしい」という観客の漠然とした想いを、僕らに代わって初めて言語化し、ヒロインになれない立場でありながら直接ナオミにぶつけてくれたのが、E子さんでした。そのための舞台装置が、この「Record 2032」の突然の演劇的構図であったのかもしれません。

あえてナオミ主観の外、にいるE子さんに物語を語らせることで、僕らの切なる想いをナオミにぶつけられるようになるための装置。現実と虚構のギリギリの狭間に立つE子さんはいわば、体を張った、僕らの依り代でもあるわけです。

そんなE子さんの想いが報われずに終わっていいわけがない。

E子さんの「幸せになってみなよ、バーカ」という、一見呪いの言葉とも取れるその台詞が、いつしか先生の「俺は……幸せだ……」に結実し、そして「堅書直実、幸せになれ」という祝福の言葉として、直実へと受け継がれていく。そうであってほしい。

ナオミに幸せになってほしいという彼女の願いは、巡り巡ってナオミを、そしていつしか直実をも救って、そうして物語は続いていくのだ。と、そう信じたい。そして、願わくは、E子さんにも幸あれと、切に祈ることしかできない。

一度でも「舞台の外」からE子さん目線での物語を体感してしまった僕らは、もはやそう願わずにはいられない。ナオミの主観的物語が再び開始されても、観客の精神は2話を観る前と後では決定的に異なってしまっています。

武井Pが語る『トップ2』評の言葉をそのまま借りるとすれば、「Record 2032」を観たあとの僕らはもはやE子さんのことを考えずに『HELLO WORLD』本編を観られないわけで、それってある意味、フィクションだけでなく現実が改変されたということでもあるわけで、と言えるのだと思います。つまり『ANOTHER WORLD』と『HELLO WORLD』は『トップ2』と『トップ』の関係と相似であり、ノリコにとってのノノがナオミにとってのE子さんなのだ、と言えるのかもしれません。

僕らの『HELLO WORLD』観すら不可逆的に変化させてしまうE子さん。そんな「現実改変能力」を持つ彼女が、ナオミの人生に影響を与えていないはずがない。だからE子さんは、決してただのモブなんかではない。

E子さん、君がいたからこそ、「直実はナオミになる」ことができ、映画本編の物語が成立し得た。E子さんの物語があったからこそ、作品全体にも、ナオミの人生にも、そして僕らの作品認識にも、そこには確実に何らかの不可逆な変化があったのだ。そんな風に思ってしまうのです。

絵コンテの小松田さんに継承された『エヴァ』『トップ』『彼女と彼女の猫』

さて、きりのない妄想はこの辺でやめて、実際にこのすごい絵コンテを作られた方について少し話をしたいと思います。「Record 2032」のエンドロールを見ると、絵コンテは小松田大全さんとありました。

小松田さんと伊藤監督は、早大アニメ研(WAFL)時代からのご友人同士だそうで(小松田さんのほうが先輩らしい)、『HELLO WORLD』本編のデザインワークス(狐面やドローンのデザイン等)や原画を担当されたりもしています。

ですが一般には、小松田さんはエヴァ新劇(破以降)の副監督も務められた方として有名かもしれません。その小松田さんがこの「Record 2032」の絵コンテを切られたと思うと、個人的にとても興奮します。何しろアニメをあまり観てこなかった自分が見たことがある数少ないアニメが『新世紀エヴァンゲリオン』や『トップをねらえ!』、『ふしぎの海のナディア』といった庵野監督作品。「絵コンテ」というものを初めて知ったのも、「カット割りのテンポ」を意識するようになったのも、庵野監督の作品だったと思います。

――小松田さんはこれまでも「新劇場版」シリーズにかかわっていらっしゃいました。「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」の全記録全集では「庵野秀明作品に二度人生を変えられた」とおっしゃっていましたね。大学進学のときに物理学専攻を選ばれたのは「トップをねらえ!」を見たことがきっかけで、アニメーションの仕事を志されたのは「新世紀エヴァンゲリオン」をご覧になったからだと。

「エヴァ」が終わっても人生は続く――「シン・エヴァンゲリオン劇場版」副監督・小松田大全インタビュー

『トップ』を見て物理を専攻し、『エヴァ』に人生を変えられた——。同じく庵野監督作品に人生を変えられた自分がこんなエピソードを知ってしまうと、もう小松田さんに全幅の信頼を置くしかありません。

というか小松田さん、「あにつく」というイベントで何度も絵コンテセミナーの講師を務められるほどの方。そんなすごい方が絵コンテを担当された「Record 2032」、なんという贅沢なフィルムなんだろうと思ってしまったりもします。

あにつく2022レポート | 絵コンテセッション(第4弾:小松田 大全監督&水島 精二監督)

もう一つ、今回小松田さんのお仕事を調べていて大変感激したのが、小松田さんが新海誠監督の『彼女と彼女の猫』(リメイク版ではなく自主制作のほう)を絶賛されていたことです。これもまた自分の人生の根幹にある、新海監督作品の中では一番好きな作品だったりします。

僕、新海さんとほぼ同期なんです。今から20年ほど前、新海さんが初めて自主製作した短編アニメの『彼女と彼女の猫』が世に出たときに、めちゃくちゃ衝撃を受けて

STORYBOARD PROの絵コンテは、設計図としての機能を余すことなく備えている

一般に作品を語るときに他作品を引き合いに出すことは細心の注意が必要ということもあり、今まはでほとんど言わずに来たのですが、ようやく白状する勇気が出ました。この「Record 2032」を見た時に自分が真っ先に思い浮かべたのが、まさにこの『彼女と彼女の猫』だったんです。

誤解しないでほしいのですが、そっくりだとか真似だとか言いたいわけでは決してありません。猫を拾う話なんて、SAVE THE CATの法則と言われるくらいの様式美ですし、単に自分の引き出しが少なすぎて、単純な連想しかできないだけです。

そうではなくて、なんというか、勝手に近しいものをその二つのフィルムに感じてしまったんです。『彼女と彼女の猫』について、かつて新海監督は以下のように述べています。

生活していくことの漠然とした寂しさ、微かな痛み、ささやかな温もりなど、言葉では伝えにくい感情を、映像と音に託しました。日常生活の中で、そういった感情を抱えながら生きる同時代的感覚を、少しでも感じていただければと思います。
 本作は全編モノトーンですが、これは表現上の理由というよりむしろ制作上の都合です。制作時間の確保が難しく、少しでも手間のかからない制作が大前提でした。手描きイラストと3DCGと写真素材の合成も、ナレーションと効果音に頼った演出も、同じ理由です。

彼女と彼女の猫 | CGアニメコンテスト Award works

制作上の都合で可能な限り手間を省く、という背景は「Record 2032」と共通するものがあります。そうして極力まで要素を削ぎ落とした結果として生まれたフィルムはどちらも、「生活していくことの漠然とした寂しさ、微かな痛み、ささやかな温もり」を映像だけで雄弁に物語るものになっている気がします。要は自分がそういう作品好きなんですよね(新海監督の小品が好きなのもそのあたり)。

特別な事件や一大スペクタクルが起こるわけでもない。ただ、日々の生活を淡々と描くなかで語られる心の機微。夢物語に立脚した冒険譚ではなく、現実に立脚した日常——それは完全に、現実サイドに立つE子さんの領分です。そして猫を拾う季節が春の初めなのも、雨模様なのも、段ボール箱に入った子猫を見下ろすアングルも——偶然でしょうが、勝手に似た匂いをそこに感じてうれしくなったのは確かです。

そして橋本カツヨさんを追い求める旅が始まる

2019年の出町座さんのイベントに参加したとき、この「Record 2032」を語る伊藤監督と藤津さんのトークの中にこんな単語がありました。

橋本カツヨ回

その語を発したのが伊藤監督だったか藤津さんだったか、はたまた武井Pだったのかは今となっては覚えていません。ですが、この「Record 2032」に心酔しつつもアニメのことを全然知らない浅学な自分は、その単語がずっと気になっていました。

「Record2032」は「橋本カツヨ」回である、という

「橋本カツヨ回」とは一体何なのか。

インターネットとはありがたいもので、ざっとググると橋本カツヨさんという方について大まかな概要はわかりました。細田守監督とは切っても切れない方のようで。なるほど。ともかく絵コンテ、演出でレジェンド的な扱いをされている方のようです。

 細田守は知ってるけれど、橋本カツヨって誰? 別の人を紹介するぐらいだったら、もっと細田作品を紹介せよ。そうおっしゃる方も多いかもしれませんね。でも、細田守と橋本カツヨはお互いに影響しあい、それぞれ高め合っているという盟友同士。彼を外して細田を語る事はできないのです。細田守自身、橋本カツヨに影響を受けた(いや、オレが影響を与えた)と、あるインタビューでは語っているぐらいです。

WEBアニメスタイル「盟友・橋本カツヨ入門」

『HELLO WORLD』自体、細田監督の演出術やテクニックがあちこちに見られるわけですが、そもそも『HELLO WORLD』の武井Pご自身が『少女革命ウテナ』における橋本カツヨさんの演出に強く影響を受けたそうで、実に熱く語っておられるんですよね(ちなみに武井Pもまた、『エヴァ』と『トップ』に人生を動かされた方でもあるわけで)。

細田さんが橋本カツヨ名義で参加されたエピソードは、どれも印象的でした。とくに第20話かな、若葉の回(「若葉繁れる」)は放送当時からめちゃくちゃ印象的だったんです。カメラの使い方が、まるっきり映画なんですよね。 だから結局、映画を感じるかどうかって、演出家の工夫次第とも言えるんですけど

武井克弘③ 『時をかける少女』「アニメで映画を作ることができる」という衝撃と発見 | Febri

ここまで材料が揃ってしまうと、もう橋本カツヨさんの作品は「Record 2032」を見るうえで必須の参考文献なんじゃないかと思えてきます。

で、白状しますが、自分はいまだに橋本カツヨさんの映像を見れてません。特にウテナの「若葉繁れる」などは、どうもストーリー自体も「Record 2032」と共通する要素がありそうで、見てみたいのですがちょっとハロワ4周年までに時間が取れなくてですね…(この記事は一応4周年記念ということで書いてたので)。いや、ほんと、申し訳ないです。

カツヨエアプ状態で語る暴挙を許してもらえるとするならば、世に溢れる「橋本カツヨ評」をざっと拝見する限り、その特徴とされる「同ポ」(同じポジションを使い回す。細田監督も多用している)を確かに「Record 2032」は多用していますし、「禁断のイマジナリーライン越え」と呼ばれるテクニックも上述のとおりやってのけています。カツヨさんが絶賛したと言われる錦織さんのリンゴのカットも、どこか塩パスタのカットと似ている気がします。ただ、あくまでエアプ論評にしかなりません。やはり一作でも橋本カツヨさんの作品を見てみないことには、本作が「橋本カツヨ回」と呼ばれる本当の理由はわからないでしょうし、自分はまだまだこの作品を半分もわかってないんだと思いますね。

そんなわけで、カツヨさんの作品は、どこかで時間を見つけて必ず見てみたい。そうして、あらためてまたこの「Record 2032」を見返してみたいと思ってます。

映画公開から4年が経ってもなお、この作品と自分の格闘は、そんなふうにまだまだ続きそうです。

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(本記事は別名義との連動企画です)

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