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我は記し留めゆかむ——映画『HELLO WORLD』における「書く」ことの意味

久しぶりに映画『HELLO WORLD』のことを書きたいと思う。この映画に頻出する「書く」というモチーフについて、映画が公開されて3年が経った今、あらためて考えてみたい。

本稿の内容はあくまで個人的な解釈にすぎず、妄想というかもはや幻覚です。たぶん公式はこんなこと考えてないと思います。考察でもないし、この解釈の正しさを主張する記事でもありません。

本稿は映画『HELLO WORLD』のネタバレを含みます。
また以下のスピンオフ作品のネタバレを含みます。入手のハードルが高いものがあり申し訳ないです。これらを未読でもこの記事自体は普通に読めると思います。
・野﨑まど「野﨑まど寄稿」(『映画 HELLO WORLD 公式ビジュアルガイド』)
・野﨑まど『枕草子 六百七段 ことばをしたたむるは』(アニメージュ誌2019年10月号Blu-rayスペシャル・エディション付録)
・野﨑まど先生インタビュー(アニメージュ誌2019年9月号
『HELLO WORLD脚本』・野﨑まど 前代未聞の《タイムリープ》インタビュー!(アニメージュプラス)

頻出する「書く」モチーフと『ビジュアルガイド』の手書き寄稿

『HELLO WORLD』という映画は、何かを「書く」モチーフが実に多い作品だと思う。デジタル全盛時代の話とは思えないほどに、とにかくみんな紙に文字を書きまくる。主人公は読書好きだけど、「読む」よりむしろ「書く」行為がやたらと出てくるし、作中で重要なコミュニケーションはほぼ書き文字によって行われる。

  • 映画タイトルカットがノートの罫線に「HELLO WORLD」の文字

  • 一行さんから渡された連絡先の住所(メモに手書き)

  • 読書帳(今時、読書メーターとかアプリじゃなくて手書き)

  • 最強マニュアル(データで持ち込めばいいのにノートに手書き)

  • 一行さんから郵送された封書(毛筆で手書き)

  • 貸出カード(もはや天然記念物)

  • 焼けた本をグッドデザインで再生して文字を書き込んでいく行為

  • リカバリシーンの執拗なノートの描写と寄せ書き

  • 千古さんへの手紙(最後まで手書き)

  • 白紙になった最強マニュアル(何かが書かれるのを待っている)

  • ラストシーン(作画自体が手描き)

  • アルタラセンターの名札(手書き)

  • 主題歌『新世界』(まっさらなノートに書き殴るという歌詞)

  • スピンオフ『ANOTHER WORLD』でノートに何かを書く謎シーン

  • スピンオフ『ANOTHER WORLD』の同級生(E子さん)のメモ

  • スピンオフ『ANOTHER WORLD』の日誌と図書番号

この、いささか時代錯誤なくらいの「書く」ことへの執着は、決して偶然ではなく意図的なものなんじゃないかな、と思っている。その最たる証拠が、『映画 HELLO WORLD 公式ビジュアルガイド』に掲載されている野﨑まど先生の寄稿だ。

何しろ、手書きなのだ。あたまおかしい(褒め言葉)。

この寄稿の文章は電書版もあるので機会があったらぜひ読んでほしい。何しろ最初は鉛筆書き、途中からボールペンになり、書き間違えて訂正線とともに書き直した筆跡も生々しく、オチも手書きにまつわるもので、とにかく「謎めいた表現技法」の極致のような原稿なのだけど、それでいてこの映画のテーマがこれ以上ないくらい明快に表現されているのだ。写経したいくらい大好きな文章だ。

野﨑まど先生は、一度ボールペンで書いた文字は消せないことを人生になぞらえ、そこに一つの問いを投げかける。

一度きりの記述。
 一度きりの人生。

(中略)
けれどもし、それを書き換えられるとしたら。
 一度しか書けない人生の記録を、きれいに消して、もう一度書き直せるとしたら。

(中略)
 『HELLO WORLD』は、そんな未来の尻尾に手をかける物語です。

野﨑まど「野﨑まど寄稿」(『映画 HELLO WORLD 公式ビジュアルガイド』より)

そう、人生とはまっさらなノートに消せないボールペンで何かを書き記していく行為であって、その「記述(Description)」そのものが世界であり、それをとあるテクノロジーにより書き換えようとしたある男の物語が、この作品なのだと思う。

本稿ではこの「書く」「記述する」という観点から、『HELLO WORLD』本編とそのスピンオフ作品を紐解いてみたい。

アルタラはセカイを記述し、グッドデザインはセカイを書き換える

「世界」とは、そして「人生」とは、「記述」である。そんなコンセプトを体現しているのが、作品内に登場する2つのSFガジェット、「量子記憶装置アルタラ」と「神の手グッドデザイン」だ。

アルタラは記録する。つまり「書き込む」
グッドデザインはそれを「書き換える」

アルタラの綴りが「ALLTALE」であることから、そこには本来「すべての物語」が書き込まれていることが窺える。私やあなたの人生の物語。ありえたかもしれないすべての可能性の量子的な重ね合わせ。自動修復システム(狐面)が常に記録の「誤り」を訂正することで、史実に沿った「記録」が保たれているのかもしれない。

この作品が参照している『順列都市』などの「イーガン的宇宙観」においては、ありとあらゆる物語はこの宇宙が開闢したときから既に記述されていて、すべて決定論的に決まっているけどそれでも住民たちに自由意志はあるという解釈がなされることが多い。この解釈に従えば、直実たちは自由意志を持っているけど、既に起こった事象の記録である以上、落雷による事故は避けられない。

それを書き換えようという大胆不敵なテクノロジーがグッドデザインだ。グッドデザインはおそらくこの世界を直接書き換えるバイナリエディタのようなイメージなんじゃないかなと思う。狐面の誤り訂正に対抗し、本来の量子記憶装置が内包しているあらゆる可能性を実体化できる装置。

胸熱なのは、グッドデザインがただの「念じれば実体化する」魔法グッズでは決してなく、「物理過程をちゃんと理解して初めてセカイは書き換えられる」という描写。グッドデザインを使うにあたり、直実はまず「世界の成り立ち」「もののことわり」を知ろうと必死に勉強する。鉄や銅を生成するのに周期表と電子配置を、お湯を作るのに熱力学第二法則を、ブラックホールを作るのにその成り立ちを理解しようとする。花火の前日に太陽や惑星を作り出したのも、それらが進化したものがブラックホールになるからだ。

直実が再現しようとしたこれらの物理現象を説明する「科学」という学問体系は、世界の「記述」にほかならない。チートではなくきちんと科学の言葉によって「世界の記述」を解読し書き換えようとする主人公、という世界観を、自分はとても気に入っている。

創作活動の比喩としてのグッドデザインと物語の再生

アルタラとグッドデザインはまた、フィクションと創作活動の比喩であるともいえる。アルタラはその名(ALLTALE)の通り、「すべてを記述した物語」。そしてグッドデザインは「想像力を解放してイメージを暴走」させ、この世界の「神」になる装置だ。ただしあくまでそれは何でもありの魔法なんかではない。その世界の物理法則や世界設定、あるいは物語としての「お約束」をきちんと理解したうえで広げる想像力の翼だ。ある意味で、グッドデザインを使うという行為は小説を書くことに限りなく近い。

高校生の直実のいる世界(以降、「A世界」とする)は、大人のナオミのいる世界(「B世界」とする)にとってはただの記録、データである。いわば既存の物語であり、印刷された本、撮影された写真、記録された映像でしかない。『HELLO WORLD』小説版に、わかりやすいたとえがある。

「さっきマップのビューを見ていたな」
「え? はい」
「通行人も映ってただろう」
「そうですね」
「写真の通行人は」
男の声が一段重くなる。
「自分は写真の中の人間だと、知っていると思うか?」

野﨑まど『HELLO WORLD

記録を書き換えることができるグッドデザインは、写真の比喩でいうとPhotoshopのような画像編集ソフト、本で言えば原稿を編集するツールだ。人類の「書く」技術(写真、文章)とそれを「書き換える」技術(Photoshop、エディタ)の延長線上にあるのが、アルタラでありグッドデザインなのだとしたら、それぞれはフィクションと創作活動に相当する。

A世界の「リカバリー」は、写真や文章を捨てて記録をやり直す行為。カラスの導きによって崩壊するA世界からB世界の一行さんを助けに行く直実は、写真の中の人物、フィクションの登場人物が第四の壁をぶち破って現実世界に殴り込んでくることに等しい。そして「開闢」とは、それまで「ただのフィクション」にすぎなかった世界が現実世界と等価なひとつの独立した「現実」として独り立ちしたということなのかなと思っている。

グッドデザインの創作活動としての役割がもっとも直截的に描かれているのが、直実が燃えてしまった本を徹夜で復元するシーンだ。文字通り、再生した本にグッドデザインで活字を書き込んで「物語」を復活させていく場面は実に象徴的だ。

技術発展の歴史は”やり直し”の発展の歴史でもあります。
(中略)
その発展の終着駅こそ、人の人生を取り返すことに他なりません。人が一番取り返したいのは、何より人であるからです。

野﨑まど「野﨑まど寄稿」(『映画 HELLO WORLD 公式ビジュアルガイド』より)

燃えてしまった本のグッドデザインによる再生。
還らぬ人となった一行さんの量子記録技術による再生。
崩壊してしまったA世界の開闢による再生。
そして、これらを可能にするテクノロジー。

この「物語ナラティブの再生」の重層構造は、僕らの胸を強く打つ。

完璧に正統なスピンオフとしての『枕草子 六百七段 ことばをしたたむるは』

(ネタバレあり)続いて『HELLO WORLD』の書き下ろしスピンオフの一つを紹介したい。野﨑まど先生の『枕草子 六百七段 ことばをしたたむるは』。

アニメージュ誌2019年10月号に掲載され、のちにBlu-rayスペシャル・エディションの付録にも収録された。一見して度肝を抜かれた方も多いと思う。

何しろ、古文なのだ。あたまおかしい(褒め言葉)。

一見、どこがスピンオフなのかまったくわからない、『枕草子』の未発見原稿という体裁で書かれた作品。だけどこれを読んだ時、自分は深夜に絶叫した(比喩ではなくほんとに)。

そのテーマが「書く」「記録する」であり、その意味で完全に本編の正統なスピンオフだったからだ。

作中では清少納言がいつもの筆致で、文章でものを書き留めることの素晴らしさとその限界を語り、深い観察眼と洞察により「未来には文字や絵ではなく、ありのままに世界を書き留めることができるようになるのでは」という未来予測を行っている。彼女はさらに空想の筆を走らせ、時の流れを超えられるようになれば、今この文章をしたためている自分自身も精密に記録されるのかもしれないという、千年前の人類にしてはいささか早すぎる発想を展開している。

つまり、清少納言は彼女なりの感性で量子記録技術というテクノロジーの到来を予想している。また、さらに先の未来においては時間制御技術により歴史上の全事象が記録される可能性まで言及しているのだと思う。

しからば、この刻もまた見つけられて、我がもの書き留むるすがたを、りんと記すべしと思ふ。
(そうならば、今のこの時もまた(後の時代に)見つけられて、私がものを書き留める姿を、精密に記録してもらえるのだろうと思う。)

野﨑まど『枕草子 六百七段 ことばをしたたむるは』

自分にとって、めちゃくちゃテンション上がるスピンオフだ。

このスピンオフは、単に「アルタラのような技術を夢想した清少納言の未発見原稿が見つかった」とも「見つかっていないがこっそり書き記していた」ともとれるし、あるいは後半の技術がどうにかして実現し、千古の昔まで京都クロニクル事業の収録範囲が拡張されたことによる量子記録そのものとも見なせる(あらためて「千古恒久」ってすごい名前だ)。いずれにしても間違いなくエモい。

「をかしの文学」の清少納言なら確かにこういうことを面白がって書きかねない、と思わせてくるような文体模写の見事さ(余談だが、「映像記録者」としての清少納言、という話を以前読んで、非常に興味深かった。彼女の文章は記録性が高い)。本編に出てくるSFアイディアだけをただ外挿することにより、「書く」「記録する」ことに対する洞察を時代に依存しない普遍的な形で描いた、極上のスピンオフだと思う。

そして千年前の一人の人間の随想が思想的にも世界設定的にも「ただの夢物語じゃなくて、普通の世界の延長に」ある(直実の台詞)という「SFとしての地続き感」を感じさせてくれる、SFのお手本のような作品だなと思っている。

うれしきもの。まだ見ぬ物語の一を見て、いみじうゆかしとのみ思ふが、残り見いでたる。
(うれしいもの。まだ読んだことのない物語の第一巻を読んで、(続きを)とても読みたいとばかり思っていたのが、残りの巻を見つけ出したとき。)

清少納言『枕草子 二七六段 うれしきもの』

アニメージュ誌インタビュー記事の「書き直しの物語」に涙する

(ネタバレあり)もう一つのスピンオフ(?)として、アニメージュ誌の本誌とウェブ媒体(アニメージュプラス)の両方で展開された、野﨑まど先生のインタビューについても紹介したい。恥ずかしながら自分はこのインタビューでガチ泣きした。

インタビューは2種類ある。

  1. アニメージュ本誌2019年9月号:野﨑まど先生インタビュー

  2. アニメージュプラス掲載:「『HELLO WORLD脚本』・野﨑まど 前代未聞の《タイムリープ》インタビュー!」【電子版改訂:二刷】

前者は雑誌そのもの(紙+電子書籍)、後者はWeb媒体に掲載された電子版である。そして、前者のインタビューの最後で野﨑まど先生は庭に撒いたひまわりの種をもぐらに台無しにされてしまう。この悲しい未来を変えるため、過去に戻って再度インタビューに答え直したのが、後者の原稿なのである。果たして伝わっただろうか。あたまおかしい(褒め言葉)。

後者はWeb媒体なので誰でも無料で読めるけど、前者は雑誌を購入しないと読めない(しかも電子書籍の配信は終了してしまった)ため非常にハードルが高い。そのため、ここでは引用の範囲で簡単に内容を紹介したい。でも、もしも機会があればぜひこの2本のインタビューはぜひセットで読んでほしい。これは、ただのおふざけ記事ではない。ここにも「書き直しの物語」としての『HELLO WORLD』の本質が詰まっていて、それはインタビューを2本とも読むことで初めて現れてくるのだ。

以下、ネタバレされたくない方は読み飛ばして下さい。

——アニメージュ誌2019年9月号にて「野﨑まど」はインタビューを受け、興奮と不安を胸に帰途につく。数日前、彼は庭にひまわりの種を撒いていた。それは映画が大輪の花を咲かせるようにという祈りであった。しかしその2週間後、無残にもひまわりがもぐらにやられてしまう。

一方、電子版改訂では、インタビューを待つ「野﨑まど」の前に、2週間後の未来から来た自分が現れる。ひまわりの種に起こる悲劇を伝えられた「野﨑」は、バタフライエフェクトによって未来を変えるため、インタビューの文言をわずかに変化させる。

以下は、本誌版(一刷)と電子版改訂(二刷)を比較したときの差分である。微修正程度の変更がなされているのがわかる。

【本誌版:一刷】ピラミッドの石の一つ一つだと考えています。
【電子版改訂:二刷】ピラミッドの石の一つ一つなのだろうと。

【本誌版:一刷】本作のそれはラブストーリーだと思っています。
【電子版改訂:二刷】本作のそれに当たるものがラブストーリーだと自分は思っています。

本誌版:野﨑まど先生インタビュー
電子版改訂:『HELLO WORLD脚本』・野﨑まど 前代未聞の《タイムリープ》インタビュー!

しかし、ひまわりの種がもぐらに掘り返される未来は変わらなかった。「野﨑」は三刷でもう少し大きな変化を試みる。後半がごっそり書き換わっている。さらにどうやったのかインタビュアーの台詞にもわずかに変化がある。

【本誌版:一刷】伊藤監督からどんなオーダーがあったのか、
【電子版改訂:三刷】伊藤監督からのどんなオーダーがあったのか、

【本誌版:一刷】苦労は、多分あったはずなんですが、書き上がると忘れてしまうことも多く。特に映像作品では自分の作業が終わった後に、映像や音響など多くのセクションの皆さんの凄い仕事が次々に押し寄せてくるので、その度に執筆時の苦労は押し流されて消えてしまいます。なので次の作品でまた自分から苦労するほうに行ってしまいがちです。
【電子版改訂:三刷】苦労した点、思い出せる中の一つは劇中世界の技術とリアリティの加減でしょうか。本作の二〇二七年という時代は未来であると同時に現実の延長でもあります。「この物語は私達の世界の進んだ先にあるもの」という手触りをなるべく感じてもらえるよう、遠過ぎず近過ぎずをずっと意識していました。

本誌版:野﨑まど先生インタビュー
電子版改訂:『HELLO WORLD脚本』・野﨑まど 前代未聞の《タイムリープ》インタビュー!

それなりの「記録の改竄」により、もぐらは来なくなったが今度は虫害にやられてしまう。「野﨑」はさらに大胆な修正を敢行する。

【本誌版:一刷】脚本で気をつけているのは情報をなるべく多く、正確に伝えることです。(中略)直実がディックを読んでるっぽいかどうかは是非劇場で確かめていただければと思います。
【電子版改訂:四刷】(思わせぶりに笑う)。

本誌版:野﨑まど先生インタビュー
電子版改訂:『HELLO WORLD脚本』・野﨑まど 前代未聞の《タイムリープ》インタビュー!

とうとう、あまりに未来を変えすぎたためか庭中が荒らされてしまう。やり方に疑問を抱き始めた「野﨑」は未来の自分と一緒に直接苗を守りに行く。土をかけ直しながら、「野﨑」は誰に問われるでもなくふとその心の内を漏らす。

その内容をすべてここで紹介することはしない。また続く五刷でインタビュー内容がどう変わったかも紹介はしない。「引用」の範囲をぎりぎり超えてしまいそうだからだ(未読の方は電子版へGO!)。

ただ、ふと漏らしたそのひとことこそが、ついにひまわりの種を守るのだ。

一度しか書けない人生の記録を、きれいに消して、もう一度書き直せるとしたら。『HELLO WORLD』はそんな物語であることは既に述べた。

——もう印刷されてしまった本誌の代わりに、電子版をもう一度書き直せるとしたら。

このインタビュー記事は、そんなふうに「野﨑」が「記録の改竄」を試みた顛末なのだ。でも生半可な改変では未来は変えられなくて、何度もチャレンジを繰り返したあげく、ふと漏らしたひとこと。そこに込められた「野﨑」の願いと祈り。

本誌にはないそのちいさな要素こそがついに未来を変え、ひまわりを守る……というその構造。

未来すら変えうるその言葉の重みにひたすら自分は涙するのだ。

「野﨑」の試行錯誤の内容を把握するには、本誌と電子版の比較が不可欠だ。『HELLO WORLD』という「書き直しの物語」の本質は、両方のインタビューを読むことで、とんでもなくエモい形で見えてくる(一応、上記の説明を参考にすれば、電子版だけからでも「決定的な部分」はある程度推測できるだろうとは思います)。

そして、あの時のひまわりはその後、「次の芽吹き」を待っているという。

そう、ひまわりは単なるネタではない。野﨑まど先生がひまわりの種を植えたのも、それが芽吹いたのも、紛れもない現実なのだ。

この「次の芽吹き」という表現に対して無粋にも次回作の幻覚をオタクが勝手に期待してしまうことは可能だ。だけど今はただ、野﨑まど先生が5回も時を遡ってまで守り抜いたひまわりが見事に芽吹き、大輪の美しい花を咲かせて、僕らの心に確実に何かを残したという事実を、静かに噛みしめたいと思う。

「一度きりの物語」としての映画に賭ける、書き手と読み手双方の覚悟

アニメージュ誌のインタビューを踏まえてあらためて思い返すと、「一度きりの記述」「一度きりの人生」という隠れたテーマに、この映画に賭ける制作陣の方々の覚悟のようなものがにじみ出ているような気がしてくる。

もともと、野﨑まど先生の作品は全般的に「N 周目でようやく気づくアレ」みたいな構造が多くて、何度も読み返せる小説という媒体に全振りした物語設計になっていることが多い。

でも、劇場版アニメは、おそらく1回きりの人がほとんどだろう。もちろん、何十回も観るコアなファンは必ずいるし、配信サービスの場合は容易に再生を繰り返せる。だけど2019年当時の劇場アニメ界隈は今ほど配信にシフトしておらず、劇場で観ることに重きが置かれていたおそらく最後の時代だった。

観客は映画を一度きりしか観ない。そこで伝わらなかったものは永遠に取りこぼされる。絶対に失敗できない一度きりの大舞台。

『ビジュアルガイド』の寄稿にある、ボールペンで書くことの「恐怖」。それと同じ類いの感情を、映画という「一度きりの記述」の製作過程にもつい見いだせるような気がしてしまうのだ。

それは一種の恐怖でした。失敗は許されない。一線たりとも間違うことはできない。(中略)一度きりというプレッシャーは、大人になった今も心の奥底にあり続けています。
 ただ簡単に消せないことは、同時に強さでもあります。(中略)だからこそ一筆に力を込めますし、絶対に間違わないよう必死で考えます
(中略)
 一度きりの記述。
 一度きりの人生。

野﨑まど「野﨑まど寄稿」(『映画 HELLO WORLD 公式ビジュアルガイド』より)

怖かっただろうな、とおこがましくも思う。

あんなに必死にひまわりを守ろうとした理由が、わかる気がする。

反面、不安もあった。映画興行はいつの時代も水物である。(中略)一人の人間でしかない野﨑にできることはあまりにも少ない。
 数日前、野﨑はひまわりの種を買い、自宅の庭先に撒いていた。(中略)上手く育てば九月には花がつく。それは祈りであった

アニメージュ2019年9月号『野﨑まど先生インタビュー』

そして、技術の進歩は「一度きり」を解消する方向に進化していく

『ビジュアルガイド』の寄稿では、主に「書き手」の側にとっての「一度きり」を解消する技術が語られている。活版印刷、ワードプロセッサ、クラウドコンピューティング、そして量子記録技術。これらは「書き直し」の発展の歴史だ。でも、いくら書き手が物語を自在に書き直せるようになっても、「読み手」がそれを受け取る機会が一度きりだったら、依然としてチャンスは一度しかない。

いっぽう、「読み手」にとっての「一度きり」を解消する技術もまた、人類とともに発展してきた。口伝で伝えられてきた物語が、文字や本とによって何度も読み返せる小説になった。一度きりの体験だった映画やTVも、撮影・録画技術や配信サービスによって繰り返し楽しめるようになりつつある。生演奏や舞台は今でも「一度きり」の性格が強いけど、それもこの先変わっていくかもしれない。記録の確実な再生。それはきっとアルタラのもう一つの本質でもある。中の住人にとっては一度きりの人生だけど、世界は何度でもリカバリできるからだ。

それが良いことか悪いことかを容易に断ずることはできません。ですが良し悪しと関係なく、テクノロジーの発達はそれを可能にしていきます。

野﨑まど「野﨑まど寄稿」(『映画 HELLO WORLD 公式ビジュアルガイド』より)

おそらく僕らはその過渡期にいる。この作品はぎりぎりまだ、映画という媒体が書き手にとっても読み手にとっても一期一会のものだった頃のものだ(今後は配信サービスを前提とした内容に次第にシフトしていくだろう)。そしてその端々に、「一度きりの記述」に対する書き手の覚悟のようなものを感じる作品だった。

ただの読み手でしかない自分はその覚悟をどう受け止めていけばよいのか、それはわからない。ただ、消せないボールペンで恐怖と戦いながらノートに書き付けられたのかもしれない、という想像力は大事にしていきたい。これは本作品に限らずすべての作品にいえることで、たとえ自分には合わない作品においても、書き手のそういう覚悟や不安、祈りのようなものはきっと不変であるからだ。そういう境地に気づかせてくれたこの作品には感謝しかない。

タイトルと主人公の名前に込められた「書く」ことへの想いと祈り

最後に。本作の主人公の名前は、「堅書」であり「一行」だ。

『HELLO WORLD』というタイトル名にホイホイされてこの映画を観た自分は、つい「堅書ハードコーディング」「一行ワンライナー」なんていう寒いギャグをかましがちだけど、ここまで長々と書き連ねてきた「書く」ということの集大成みたいな、非常に象徴的な名前だと思っている。

「堅い」に「書く」。人生という記述を強く書き付ける主人公にふさわしい名前だと思うし、世界を書き換える力の強さも感じる(余談だけど「直実」も堅実で実直な性格を想像させる)。

「一行」は文字通り書かれた記述そのものだ。いつもたった一行ですべてをひっくり返してきた野﨑まど作品ならではの名前だと思う。たった一行で世界は変わる。それが物語の力。直実が再生した貸出カードの一番上に追加された一行が、新しい世界につながる。

”HELLO WORLD”
プログラミング入門者が最初に学ぶ一行だ。
この一行を書く。それは何でも作れる世界の入り口に立つことを指す

自分は主役ではなくエキストラである──アニメ映画『HELLO WORLD』があぶりだす現代の悩み

まさにこれだ。本作品のタイトルからして、プログラミングの最初の一行目なんだ。グッドデザインを手に入れたときの「何でも作れる!」という万能感、開闢した新世界が感じさせた世界の広がりは、プログラミングを覚えてHello, world! を出せるようになった日の感覚にとてもよく似ている。この映画、タイトルのわりにプログラミング要素が少ないという声も耳にするけど、あの心意気のようなものは完全に再現されていると思うし、もうそれだけで胸がいっぱいになる。

真っ白い世界に、最初の一行目を書き込む。
何を書いてもいい世界で、僕は。
何を書くかを、自分で決めた。

野﨑まど『HELLO WORLD

新しい世界の、果てしない白紙は。
ナオミの書き込みの続きを、静かに待っていた。

野﨑まど『HELLO WORLD

人生とは記述である。まっさらなページに消せないボールペンでひたすら書き続ける行為である。

もし、それを書き直せるなら。人生をやり直せたら。
きっとそれは誰しもが一度は持つ願いだろうと思う。
でもそれを書き換えるテクノロジーは、おそらくまだ実現されていない。

だからこそ僕らは、この作品に夢を見るし、涙する。そして登場人物の幸せを願い、物語ナラティブの力に願いを託すのだ。

この作品を観て、思いが溢れて止まらないという体験をした。それを書き留めておきたくて、このアカウントを作った。自分の貧弱な思考や語彙、文章力では月並みな拙い言葉をだらだらと書き殴ることしかできない。でも、こうして自分も「書いてみる」側になってみるとよくわかる。まっさらなページに何かを書こうとする時の高揚感、不安、迷い、怖さ。それは人生を記述するときの心情にとてもよく似ている。

そして、書くことは得意ではないけどやっぱりやめられない。自分も直実達と同じように、まっさらなこのnoteにこれからも記録し続けていこうと思う。今後ともよろしくお願いします。

さりとて消えぬるよりよければ、片端なりとも、我は記し留めゆかむとおぼゆ。
(それでも消えてしまうよりは良いと思われるので、不完全だとしても、私は文字の記録を残していこうと思う。)

野﨑まど『枕草子 六百七段 ことばをしたたむるは』

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