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「愛」は「I」。私でいるだけですでに「愛」。

7月に入りました。

6月は心を揺さぶられることが多く、しんどかったー。
そんなワケで毎月訪れているセラピストさんのところに急遽予約を前倒しにしてもらいきのう行ってきました。

そこで心の内を色々話しているうちに出てきた
「努力しないと愛がもらえない」
という思い込み。

5歳のときにつくられ、6歳で確定したとリーディングされました。
妹が関係しているとすぐにわかりました。

今、私が対峙しているのは妹との関係性です。


私と妹はひとつ違い。

私が幼いころ両親は雑貨店をやっていてすごく忙しかったと聞いています。
それを理由に妹は生まれてすぐ母の姉の家に預けられ、そこには祖母もいて叔母と祖母に妹は育てられました。

そして幼稚園入園を前に私たち家族の元に戻ってきました。
私が5歳の時でした。

私の記憶では妹の出現で「両親からの愛を奪われる」といった思いをした覚えはないのですが、心の深い部分でそんな危機感を感じていたようです。

そのころに芽生えた「努力しないと愛がもらえない」という思い込み。

そういえば思い返してみると勉強を頑張ったのも、学級委員に選ばれたかったのも、先生にほめられたかったのも、ぜ~んぶ母に喜んでほしかったからだなぁということに氣がつきました。

だから努力したんや。
だって勉強もクラス委員も自分のやりたいことじゃなかったもん。

そう思うと私はこのころに自分の本質である(数秘3で言うところの)「子どものような無邪気さ」を封印し、「ちゃんとする。大人をやる」にシフトしたんだろうなぁと感じました。

それ以来、私の人生すべてにおいて「努力」がデフォルトになってた…。

これは無意識のうちに「努力しないと愛はもらえない」という信念が自分の土台となっていたから ((((;゚Д゚))))

オットに対しても他者に対しても行動のベースは
「私がやりたいからやる」ではなく「相手に喜んでもらう」ためにやってた。そうしないと愛がもらえないと思ってたから。

そしてここ数年、『ホントの自分』に還るうちにもう努力ができなくなってることにも氣づいていました。

頑張るのに疲れた。

それはどこかで「努力しなくても愛はある」とわかってきてたからかもしれません。

これ私がずっと信じてきた「自己犠牲=愛」というのにも通じるものがあるように感じています。

愛をもらうために自分の身を削る。
愛をもらうために努力をする。

これらが違うと氣づいてきてたけど
それを今回のセッションで改めて言葉にしてもらったことで自分の中に深く浸透していきました。

「愛」は「I」。

「I am」(私)でいるだけですでに「愛」。


↑これセラピストさんによく言われてた言葉だけどここへきてようやくわかるようになった。

何もしなくていい。
ただ私でいるだけでいい。
努力をしたり身を削ることはいらない。


6月最後の大きな氣づきでした。

今日も読みにきてくださり、ありがとうございます。
また書きます。











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