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「無知の知」、あるいは「バカの定義」。

 またしてもネタの使い回し。そんな不遜なことを言ってはいけません。
 私が日本に帰国してから一年が経とうとしている。学校を卒業してからはまったく縁のなかった、「地元」、「田舎」で暮らしたおよそ半年で色々感じたことがあった。私はその思いを言葉にしようとしているのである。
 私の文章は、誰かの説、考え、感情に反対して攻撃する目的ではなく、知恵と真実を明らかにすることのみに向けているが、バカにはそれが分からないので、反撃をしようとして敵わないと見るや逃走の一手を打つ。メルカリに限らずIDを少し変えて後ろに数字を足してみたところで私には見えているのだが、それでバレないと考えるところなど、もはやギャグである。逆に言うと「それでバレない」という発想を持つことが私にはまったく理解ができないのだが、目の前に二択の問題が現れた際に必ず間違えるのは、なぜなんだ。逆にそちらを選ぶほうが難しくないか、と憐れみさえ覚えてしまうが、「本を読んだことがない」と言われるとすべて納得がいく。考えれば分かるだろうのところが、考えても分からないので、お手上げ。

 メルカリで売り飛ばされた私の所有物。
 販売価格にして合計「12万1,200円」。
ここに個人売買のギター1万5,000円がプラス。
 売れる金額はテクニックに左右されるもので私がやれば余裕で倍の金額にはなって、購入価格では40万円を大幅に超えている。通常、被害額の算定はこっち。貴重な物も多く、もちろんそれぞれの物に思い入れもたくさんある。

 それでもさらに私の所有物を売り飛ばす気満々。私はまだまだ掠め取られていく。

 手元にはまだ私の所有物がたくさんあり、それはすぐさま送り返すべきだと思うが、きっと何も理解していない。何なら現金も一緒に、との言葉も添えたいところであるが。
 あなたは窃盗および詐欺の容疑者。
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 父娘ともども犯罪者として名前を轟かせるとその村では相当生きづらくなるはずだが、こうやって書いてもまるで理解できない。
 もはやギャグである。バカってすごい。三十年ぶりに思い出した、この感じ。前から思っていたのだが、いい大人が他人の名字を呼び捨てで呼んでいるのは、田舎以外では、いや他の人では見たことも聞いたこともない。私は田舎の中小企業限定の部下か何かか。17歳から人としてアップデートされないと違和感も何もないのか。
 あなたたちのレベルに合わせると「ぴえん超えてぱおん、アタオカ」である。人のものを盗んではいけません。まだネタにされ続けたいのか。

 田舎者ってなんでバカ?

 これに焦点を当ててみたい。研究対象として非常に興味をそそられている。

 私は日本国内に限れば基本的には大阪、東京、と都会で暮らしてきた。国内での引っ越しの回数は十回を超えている。
 田舎で暮らし続けるというのは、非常に不利な点が多い。私は引っ越しをする際に「近くに図書館や美術館などの文化施設があるか」を重要視しているが、田舎にはそんなものはさっぱりない。そもそも本屋がない。近くに本屋がない環境はかなり異常だと思うのだが、田舎者にとってはそれが普通なので、「異常」ということに気付く者はいない。それは一つの部落、そこだけ電気が通っていない、くらいに異様なことであるが、そもそも場所を移動する、という概念がないので、何かを積極的に選択することなく、与えられたものでなんとかやりくりしているだけだという印象を受ける。
 そして経験値が異様に低い。年齢相応からはかけ離れている。私が大人になってから出会ったことのない人種が田舎の村にはたくさんいる。私は彼らから学ぶことなど一つもなく、一緒の時間を過ごしていると、このままでは堕落してしまうと感じ続けていたのが、そこで暮らした半年間だった。自己研磨とはほど遠い、退化、後退に巻き込まれてしまう。田舎者はどうやっても、進学とともに、あるいは就職で都会に出るべきで、例えそうしたとしてもまた舞い戻っていては元の木阿弥となってしまうこともあるが、外部を知らない恐怖を知らないので特に何も感じない。
 基本的に聡明な地方出身者はビハインドを抱えていることを理解しているから、積極的に都会に出ようとするもので、島根出身だけれどセブ島留学の経験があり、関東の大学に通って都内で就職する、みたいな私の隣の部屋で暮らす青年などはとても真っ当な生き方をしている。

「無知の知」と聞けば、「ああ、ソクラテス」。

 これが普通のリアクションだと思うが、そういう教養は彼らにはない。
 最寄り駅まで車で40分とか、それはもはや最寄りでも何でもなく、日本でもかなり僻地の僅か数%の環境に置かれているのだが、そちらがベーシックになってしまうとそれが異様なことだと気付かないのと同じように、己自身が標準であると信じ込んでいる。知性に偏りがなければこんな場所からはいち早く脱出しなければならないと思うはずであるが、地縁、血縁に縛られることの恐ろしさは、外部からの客観的な視点がないと気付くことができないのかも知れない。外部からの視点を獲得するために必要なのは、「他者と出会い続ける」こと。育った場所も環境も学歴も経歴も、何なら国も違う他人と出会い続けること。

 彼らに共通しているのは「自分が何を知らないのかを知らない」。
 私が決して大型バイクについて言及しないように、彼らも門外漢のことについて言及しなければいいだけだと思うが、「言葉は時代とともに変遷する」ということについて、私の人格攻撃とともに議論を吹っかけてきたりするバカもいて、私の父親は高校の国語教師であって私自身が文章を書くことを長年生業としていて私は言語学には当たり前に造詣が深いのであるが、「無知の知」が理解できないので、そもそも無理な相談。キチガイの造作としか見えないが、文明発達が十分ではない村はそんなものである。威勢よく吠えていた、あれは何だったのだ。責任と言う言葉はまだ学校で習っていないのかな。医療従事者なのに、Go to トラベルに乗っかってのこのこと旅行に行くくらいだもんね。所詮、犬猫じゃないか。

 唯一の真の英知とは、自分が無知であることを知ることにある。
 自分が無知であることを知り、真の英知に近づくために努力することが大切だ。
 無知の知は、真の知へと近づく第一歩である。

「フィロソフィア」、知を愛すること。

 哲学の祖、ソクラテスは大衆の知を暴いたことで、裁判で有罪とされ、己で毒を飲み、自死を果たした。最後の晩餐でのソクラテスはとても朗らかで、これから死に向かう人だとはとても思えなかったという。誰から見ても幸せそうな様子だったと。
「無知な者」は原因と結果を一対一でしか考えられない。じっくりと考えることをしたことがないので仕方のないことかも知れないが、すべてにおいて「短絡的」に過ぎる。だからこういう逸話があっても「なんで?」みたいなリアクションで、誰かに説明する時は、「えーっ、みたいな。なんでーっ、みたいな」とか言う。
「バカ」をあえて定義するなら、一つの情報ともう一つの情報しか結びつけることができない「堕落者」となるだろうか。例えば地方の片田舎の定食屋にはもはや未来などどこにもなく、即時撤退。それは若者を顧客とした他のビジネスもまったく同じで、商圏が限られている限りは衰退しかないので、場所を変えるか業種を変えるかの二択でしかないが、延命しようとて地獄に落ちていくのを良しとするのは、環境を変えたことがないので、環境を変えるということがどういうことかが分からない。業績が落ちてくれば営業頑張れ、としか言わない経営者は本当にダメで決定的にパイが減っていることに目が向いていない。給料が減ってきたら個人事業主として業務請負になればいい、みたいなことを言い出すのも、どうしようもないバカだが、もう無理、私の手には負えない。

 突然であるが「老害」という言葉は具体的に何を指しているのだろうか。私の親はすでに八十歳を超えているが彼らを観察していて思うのは、新しいことを学ぶことをせず時代に取り残された人のことを言うのだな、と私は考えている。スマホを触ることができない、というのがその最たる事柄で本来は相当不便を強いられているのだが、過去のやり方を変えようとしないので積極的に学ぶことはない。
「テレビでこう言っていた」、「新聞にこう書いてあった」。
 全部の意見がこれ。己の頭で考えることがない。すべてがただの受け売り。だけれどもまるでそれを自分で発見したことのように語る。ごめんなさい、私のほうがすべてにおいて詳しい。
 老害というのは実年齢ではなく、自分の頭で考えることを放棄した者を指し、それは若年層、中年層にもたくさんいる。特に田舎。要するに「もう終わった人間」が生き延びている状態。

 結果としてソクラテスは自らの死によって、人々の無知を証明した。私たちはソクラテスの生き方から「無知の知」について考える機会を得ることができた。私はソクラテスに憧れる。

 私は私が何も知らない、ということを知っている。
 その点においてのみ、私は彼らより知恵があり、私は無知ではない。

 その死をもってこの事実を証明したソクラテスのように、私は死にたい。
 そのために、私は喜んで毒杯を仰ぐこととしよう。


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