哲学とはアドリブである
「哲学とはアドリブである」
私が大学で一番お世話になった先生はいつもこのように言っていた。
この言葉は「哲学とはなんたるか」いわば哲学の中身を指すというより「哲学とはどうあるべきか」すなわち哲学の形式を指すものであろう。
最近、哲学はこうじゃないかと思うことがしばしばある。
常に本を読む仕事をしている折、様々な文章の情報が契機となって私の思考が触発されることがよく起こるようになった。こうしたことは過去に無かった。今まで生きてきた中で抱いていた疑問や大学で得た知識、中途半端にほっぽって記憶の彼方にいた問題など、色々な過去の私の思考が、長い時を経て結びついてゆき深化していく、そんなような感覚。
決して大それた中身ではない。素朴な、そこら辺に転がっているような内容である。でもそうしたごく普通が様々に結びついて、私独自の色をなしているような、そんな気がする。堅苦しい言葉は一切出てこない。そうした思考は全て私の言葉で語られる。まさにアドリブだ。
「大学にいっていろんなこと勉強したら、だんだん自分の興味とか好きなものとかわかるんじゃないかな、頭の中の雑音がスーッと消えていくように」
私の恩師はこう言っていた。もしかすると私は大学を卒業してようやっと、頭の中の雑音がなくなってきたのかもしれない。
大学を卒業して、出版関係の小さな会社に就職をした。多忙な業界であることを覚悟の上で、そこで働くことを決めた。「どんなに忙しかろうと思考を止めてはならない。社会に忙殺されてはいけない。私は人間であり続けたい」大学4年の夏休み、夜中に友達と熱く語り合った。
まさか、まさか、こんなにも素晴らしい社会人生活が送れるとは思っていなかった。
大丈夫、社会人になった今でも、私の哲学はまだまだ続いているよ。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?