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考えると悩むを分けて、気分を安定させた

持て余している感情とか状態に名前を付けて、考えの俎上に載せようと思ったとき、それに何と名前を付けるか。
ラベリングの間違いみたいなことが起こってしまうのは仕方ないにしても、どこまでが暫定でどこからが確定かを整理して扱うのは難しい。
そして、そこの取り違えは混乱の大きな種になる。

直近の取り違えは「考える」と「悩む」の混同だった。
取り違えというか区別がついていなかったんだろうなと思う。
その違いにふれて、最近の考えを眺めたい。


考えると悩むの違いは何だろう、とふと気になった。
きっかけは忘れてしまったが、何かの拍子にそんなことを思ってgoogleに訊いたら「前向きか後ろ向きか」みたいな答えが返ってきた。
そんな訳がないだろうと、それから一人で考えて自分なりの答えを得た。

感覚的には二つとも頭を巡らすという点で似ているが、考えるは若干論理的で、悩むは若干感情的に思う。
そこから、考えるは「自分の外を変えていく方向」で悩むは「自分の内を変えていく方向」というニュアンスがしっくりきた。

大小にかかわらず、何か乗り越えようとする対象や不満に対して、よく私は自分の内側を変えようとする。
我慢するだとか、諦めるだとか、別のものに執着を移すだとかみたいに。
それは「悩む」に近い。

一方で、感情の入り込む余地のない仕事だとか課題に対しては、そこにある物をどう動かせば良いかを見定めていくアプローチをとる。
それは「考える」である。

前提として、これはあくまで私が脳内の会話にで使う上で納得できる言葉づかいで、他の人には通じない可能性に注意する。 


悩みを人に相談した時、「考えすぎ」と言われることが多い気がしている。
それは良くも悪くも私の性質として受け入れているもので、変える労力を費やしたいとは思えてこなかった。

でも、最近物事をそのまま受け入れようとすることが増えて、考えが自分に向かうことが多かった。
でもそれは自分の考えについて考えているわけなのですぐによくわからなくなり、嫌になって気分が不安定になることが多々あった。

それを考えるではなく悩むと捉えることで、考えの向きを意識できるようになりそうな気がする。
自分を変えるのは一見楽に思えるが、気分が不安定になったりする危ない選択肢だ。
行動の労力を認めて、まずは自分を信じて外を変えていくスタンスを取っていきたい。

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