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私のメモ帳には三人の人格がいる

私の習慣の一つにメモを取ることがある。
アイデアの備忘録や、混乱しているときの自問自答を書き留める記録的なメモ帳を常に携行している。

内容も時期によって変化する。
文体や内容、字体などに変化があるのだが、最近はメモの中で二人の人格が対話を進める形で書かれている。

二人はいわば理性と感性みたいなイメージでいる。
片方は考えたことをベースに良いものを目指して行動する人格で、もう片方は思ったことを中心に楽しさを追求する人格だ。
大人と子供みたいな感じで二人は話していく。


二人は最初、私の中の矛盾を解消するために生まれたんだと思う。
私は何かに没頭しやすい性格で、良いものと楽しい物を片方しか大切にできないことがある。

例えば、楽器の演奏会本番で練習を無視して即興のように弾いてしまったりする。
大学の課題をやろうと決めていたのに、別の物事に気を取られて〆切を軽んじてしまう。
そういう後の自分を考えない行動は、後悔につながりそうでどうしようもなく私を不安定にする。

そのような両極端を解決してあげるためか、自然と二人がメモの中に現れていた。
口調も性格もまだ曖昧だが、対話を重ねるたび僅かずつ混乱が晴れていくような感じがする。


そういうメモを繰り返している内に、そこに三人目が生まれていた。
それは人格じゃないのかもしれないが、理性でも感性でもない言葉が綴られていることに気が付いた。

その正体をはっきりさせたくて色々調べたが腑に落ちてはいない。
けど似たようなのは「マインドワンダリング」「自動思考」のような言葉だった。
要は、意識に至らない部分で曖昧に連想を重ねて作られた言葉のことだ。

三人目は、意識でコントロールできるものではなく気づかない間に私を苦しめたり、楽しい気持ちに浸したりする。
意識ではないのだから人ではないのかもしれない、と思うが一応今は一人の人格として扱っている。


その三人目の存在に気づいて、私が今まで考えると呼んでいた行為には理性が行っていたものと三人目が行っていたものがあることに気が付いた。

そしてそれらは似ているようで全く質の異なるものだと思う。
意識的に考えたことは積み重なるが、漫然と考えたことはやがて沈んで消えていく。
読書もそうで、何となく読むことと意識して噛みしめて読むことには大きな違いがある。


だから、意識して理性を大切にしてあげたい。
少なくともメモを取るときはそこの違いに敏感になれるから、少しずつ重ねて残るものを置いていきたい。

三人を登場させたのに、結論がありふれたものになってしまったが、この考え方はまだ始めたばかりなのでもう少し様子を見て、また考えをまとめてあげたい。

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