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眩しいの

スタァライトのオーケストラコンサートに行った。
現地イベントも、スタァライトの生コンテンツも初めてだったので、ぶん殴られる覚悟はして行った。
そして、スタァライトに蹴りをつける心構えをしていった。

朝5時半に家を出て、18きっぷで仙台から東京に向かう電車に乗った。
そしてまずはアニメ版のレヴュー曲を順番に聞いて過ごした。
前日は12時までバイトで寝不足気味だったが、聞きながらシーンを一つずつ思い出していった。
それからアニメ版のサントラを2周して精神を落ち着かせた。
ki-ringtone→再生産で否応なしに目を覚まされた。

そこから劇場版を見て、ノートに感想をまとめながら体にスタァライトを浸透させていった。
丁寧に取り込んでいって、エンドロールを見終わったのは17時30分。
夜の部の開場時刻であった。

そういうふうに一口ずつトマトを食べていって、浴びたのだ。
これ以上は他にないというほど血肉にしてきたスタァライトを、極上の状況で食べて、蹴りをつけることは出来たのか。







…届いたはずなのに まだまぶしい


「蹴りをつける」などとんだ勘違い。
舞台は自分が主導権を握るのではなかった。
フォークを刺そうとした瞬間に首元をナイフで掻っ切られたようだった。
あれ以来空いた穴を埋めようと、トマトを食べる量が増えている。

レヴュー曲を作業中に聞いて手が進められなくなる。
気が付けばスーパースタァスペクタクルを見ている。
夜に一人の大学でwi(l)d screen-baroqueを歌っている。
twitterでスタァライトの付くつぶやきをひたすら遡っている。


さて。
これは星罪である。
なぜならば、劇場版で肯定している「過去へのこだわりを捨てて新しい舞台を望むこと」と真逆にしか思えない禁忌を犯しているからだ。

「季節は躊躇いを置いて進む
 本気で駆け抜けて」

「今は 今は なんでもない私だけど
 雨の後 雲が去り 手のひらの上に
 降り注いだ star light」

もしスタァライトを本当に糧としたのなら、その燃料は昇華させるべきだ。
何かを生み出す、言葉に落とし込む、次なる行動の原料とするなど、方法はいろいろ考えられる。
どれでもいいから、まずはベクトルを外に向けよう。

私たちはもう舞台の上。
次に立つ舞台は決まっていなくとも、「スタァライトされたから今の自分がある」と誇れる舞台に立っていたい。

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