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【番外編】高松を歩く ―街に嵌め込まれた歴史ー

 私が毎日乗る阪急宝塚線の急行は、梅田駅の4番ホームに到着し5番ホームから出発する。電車を降りると、電車の進行方向に改札が見え、そのまま改札の外へと視線が伸びていく。梅田駅は、すべてのホームが改札の手前で一つにつながっている頭端駅、いわゆるターミナル駅なのである。線路の突き当たりには、車止めがあって梅田駅が終着駅であることを教えてくれる。通勤・通学時には、10面9線と43台の自動改札機が並ぶコンコースに人が溢れている。
 改札内にはいくつかのショップがあるのだが、その中にワインを飲ませる店がある。コンコース階から1階分あがるので、その店の窓からは行き交う人々、到着する電車、出発する電車を見渡すことができる。阪急カラーの電車の動きと歩いている人々を見ていると、普通の駅とは違う頭端駅独特の空気が伝わってくる。一人一人に生活があり、嬉しいこと悲しいことを心に抱きながら、電車に乗って家に帰る、あるいは仕事や学校、買い物に行く。待ち合わせの場所に急ぐ人もいるだろう。別れ話をしてきた人もいるかもしれない。ささやかな幸せ、あるいは切ない不幸せ、そんな人々の思いを乗せて電車が到着し、発車していく。窓際のカウンター席から、その風景を眺めていると、まるで自分の人生を俯瞰しているかのような気持ちになってくる。過去のこと、現在のこと、未来のことなどを考えると、頭の中がさまざまな画像の変化で満たされていく。そして、いっとき、人生をしみじみと語るシャンソンの世界に浸るのである。
 注文したグラスワインと料理がカウンターに運ばれてきた。ゆっくりと白ワインを飲み、蛸とオリーブのトマト煮込みを食べながら、先日行った高松のことを思った。高松駅も4面10線の頭端駅なのである。

1. 宇高連絡船
 
高松に向かったのは、暑い夏の朝だった。岡山からマリンライナーに乗って瀬戸大橋を渡った。緑の島々を浮かべた瀬戸内海は、光が波と交錯しながらキラキラと飛び跳ね、電車が進むにつれて万華鏡のようにその姿を変えていった。四国に入り、坂出を経由して高松に着いた。岡山から約1時間である。高松駅のプラットホームからは列車の進行方向に改札が見え、そのまま駅前へと視線が伸びていた。線路の突き当たりには、車止めがあり高松駅が終着駅なのだとあらためて思った。

高松駅は改札の手前ですべてのホームがつながった頭端駅

 別の見方をすれば、四国の玄関口だったと言い換えることができるのかもしれない。ずいぶん前のことだが、国鉄が岡山側の宇野から高松へ鉄道連絡船を運行していたのである。岡山の宇野駅に到着した列車は、旅客を乗せたまま連絡船内の線路に入り、瀬戸内海を渡って高松に着くと、陸の線路に乗り入れていった。桟橋のあった辺りは埋め立てられていて、その当時の面影はないが、昔の航空写真を見ると、鉄道連絡船が着岸する桟橋まで線路が伸びていた様子がわかる。海難事故をきっかけに、旅客の乗った列車を運ぶことは中止され宇高間の鉄道連絡線はなくなったのだが、宇高連絡船は宇野と高松を結ぶ重要な航路として存続した。この航路は、岡山市から高松市を結ぶ国道30号線の一部となっていたのである。私の父は岡山出身、母は香川出身なので、宇高連絡船は二人にとって思いのある航路だったかもしれないが、もはやその思いを尋ねることはできない。岡山の人、香川の人にとっては「宇高」の響きはある種の感慨を持って聞こえるのだと思う。1988年(昭和63年)に、瀬戸大橋ができ民間の航路も縮小していった。それでもこの航路を含めた国道30号線は今でも存続していて、瀬戸大橋はこの国道30号線のバイパスという位置付けになっている。駅近くの再開発ビルの足元には、記念として「宇高連絡船讃岐丸 錨」という味のある文字板とともに昔使われていた錨が置かれ、床面には風雨にさらされた錨の鉄錆が程よく広がって、いかにも風格のあるモニュメントになっている。高松港旅客ターミナル入り口手前には、その当時、桟橋へ向かって伸びていた鉄道レールの一部がカーブを描いて床面に埋め込まれている。鉄道レールはJRから支給されたと書いてあるから、実際に使われていたものなのだろう。この上を客車が通って連絡船に乗ったり、降りたりしていたのである。

宇高連絡船讃岐丸の錨 周りに錆が回った貫禄のモニュメント
高松港旅客ターミナルに向かって残された鉄道レール

2022年9月4日、宇高航路が1日だけ復活したというニュースを、宮武和多哉が「乗りものニュース」に優しさ溢れる眼差しで配信している。

 「・・・今回のイベントは船や鉄道を好きな人だけでなく、かつて連絡船を利用していたという人や、ご高齢の方もかなり目立ちました。当時を知る岡山県・香川県の人々にとって、宇高航路や連絡船そのものが特別な存在でもあるのです。・・・今回のリバイバル運航で、不夜城のような賑わいを見せていた宇野港・高松港を懐かしむ人もいました。その中でも、鉄道と接続した宇高連絡船は、四国から大阪・東京などへの出張・上京によく使われていたことから、ことさら思い出に残っている人も多いことでしょう。連絡船は民間航路に比べて定期利用は極端に少なかったものの、他の四国3県からの長距離列車が高松駅に集中し、国鉄が運営する連絡船は鉄道との連絡をほぼ一手に引き受けていました。テープや銅鑼の音に見送られて高松港から故郷を後にしたり、その家族や友人を見送ったりと、人生の一大トピックスをここで経験した人も少なくありません。・・・」

 錨やレールを残すだけでなく、多くの企業の協力を得て、1日だけでも宇高航路を復活させることができたのは、やはり連絡船のことを強く思う人たちがいたからである。思いが結集するということは、こういうことなのだろう。四国と本州の連絡ルートとして鉄道と航路が接続している高松駅は、鉄道の終着駅と始発駅であるだけでなく、岡山とつなぐ航路の始発駅と終着駅でもある。単なる頭端駅とは訳が違うのかもしれない。別れ、出会い、旅立ち、帰郷など、思い出がそれぞれ二乗されて多くのドラマを生み出したに違いない。

2.飛龍丸と高松松平家
 
宇高連絡船の四国の玄関口だった高松は、戦国時代も瀬戸内海の要衝だった。優れた造船・操船技術を持つ集団がいて、軍港としての機能を持った高松城が造られた。海城として名を馳せ、秀吉の朝鮮出兵時には高松からも水軍が派遣されたのである。江戸時代になると、高松松平家の参勤交代には御座船「飛龍丸」が活躍するのだが、他藩の御座船を凌ぐ壮麗な船だったらしい。財団法人琴平海洋会館編集の『高松藩御座船飛龍丸』には、

 「二人掛りの大櫓五十二挺立、十八反帆、五百石積みという当時建造を許された制限いっぱいの大型関船であった。御座船の多くが朱塗り(将軍家・天地丸など)や黒塗り(細川藩・泰宝丸)にしているなかで、飛龍丸は見た目も清々しい白木の船体であった。しかし船体のシンプルな印象を補うように、垣立廻りや二階建ての屋形、船首の水押茂木などには多数の金箔金具などで華美に装飾を施した。特に目立つのは色鮮やかな水押茂木の金具と、垣立に金色燦然と輝く『丸に三つ葉葵』の家紋と、黒地に金の装飾模様である。」

 と、その華麗な姿が書き表されている。黒地に金の装飾模様には、裏家紋と言われる「六つ葉葵」も使われ、さらなる華やかさを見せていた。「二人掛りの大櫓五十二挺立」というから、2人で漕ぐ52挺の櫓で操船するほどの大きな船で、藩主たちは高松城の水手御門から小舟で沖へ出て、「飛龍丸」に乗り換えて大阪へ向かったのである。もちろん随行する家臣団もいるから、数十艘の船団になったのだろう。海に面した高松城を背に出発し、瀬戸内海から高松城の石垣や天守を目に収めながら帰藩したのである。参勤交代以外にも、巡視や操船技術習得のために年に何十回も瀬戸内海へ出ていたようで、高松藩は瀬戸内海を庭のように思っていたのだろう。高松にとって、船の出入りは見慣れた風景、いやなくてはならない風景だったのである。
 高松城跡は高松駅のすぐ近くにある。瀬戸内海に面する城の堀には海水が流れ込み鯛の泳ぐ堀としても知られている。生駒親正(ちかまさ)が1588年(天正16年)に築城を始め、江戸時代になると初代高松藩主松平賴重をはじめとする代々の藩主が高松城の整備を行った。高松城跡でもらったパンフレットには、

 「テレビドラマで有名な水戸黄門(徳川光圀)は初代藩主松平賴重の同腹の弟にあたります。松平賴重は、徳川家康第11男の水戸藩祖徳川賴房の長男として生まれながら、運命のいたずらから、次男である光圀が水戸徳川を継ぐことになりました。光圀自身も次男である自分が兄を差し置いて水戸藩主になったことを悔やんで、自分の跡取りに賴重の子(綱條・つなえだ)を迎えて水戸藩主にしました。一方、賴重も光圀の子(賴常)を高松藩主としました。以降、明治維新になるまで養子縁組を繰り返しました。」

 とある。さらに、公益法人松平公益会編纂の『高松藩祖 松平賴重傳』には、養子縁組だけでなく水戸家に伝わる藤原佐理筆詩懐紙(国宝)、花園天皇宸翰後消息(重要文化財)、光明皇后の筆と伝わる法華経(重要文化財)などの家宝が光圀から賴重に譲られ、今でも高松松平家が所有していると書かれているから、光圀が賴重にいかに気を遣っていたのか、その気遣いを松平家が大切に受け入れてきたのかがよくわかる。初代飛龍丸は、賴重48歳の時に作られているから、光圀にも知らせてその壮麗さを自慢したのではないか。そして、光圀は、そんな兄の知らせを心から喜んだのだと思う。公益法人松平公益会は、「人材の育成、教育の普及及び文化の発展」を目的として、1925年(大正14年)に松平家の資産を引き継いで設立された組織である。いわば、高松松平家の持っている価値を今の時代にアジャストするために作られたのである。高松城跡近くに事務局があるのだが、切妻風の瓦屋根とシンプルな建物姿からは、高松の歴史を守り発展させていくという矜持がひしひしと伝わってくる。

公益財団法人松平公益会の建物

 親密であった水戸と高松の関係は、時が経って幕末近くになると、それぞれの政治的な意見の相違から、ややこしくなってくる。その上、高松松平家と彦根井伊家が縁組をしたのである。この頃、彦根と水戸は犬猿の仲で、脱藩した水戸浪士が1860年(安政7年)に、彦根藩の大老井伊直弼を襲った桜田門外の変で両藩の関係は修復しがたいものとなっていく。水戸と彦根の確執は、高松と水戸の確執にも繋がっていった。幕末の確執が、近代まで語り継がれるのは日本の常であるが、1966年(昭和41年)に彦根城と高松城が姉妹城となったことを皮切りに、1968年(昭和43年)には彦根市と水戸市が親善都市に、1974年(昭和49年)には彦根市の仲介で高松市と水戸市が親善都市になって、公式にはめでたしめでたしとなったのである。

3.茶碗「木守」と銘菓「木守」
 
高松城跡のパンフレットには、高松松平家と武者小路千家の親密な関係も記載されている。

 「高松松平藩と茶道三千家の一つ武者小路千家は、始祖千宗守が高松藩祖松平賴重に茶頭として仕えて以来、茶湯を通じて今日も強く結ばれています。松平家が所有する『木守』は、千利休が作らせたもので、歴代の武者小路千家当主が『宗守』を襲名する披露茶会には必ず使用され、その時には武者小路千家から松平家に、拝借の使者が立てられます。」

 木守(きまもり)の誕生には有名なエピソードが伝わっている。利休が弟子たちに好みの楽茶碗を選ばせた時に、最後に一つ残ったのがこの茶碗であった。利休は赤みを帯びたこの茶碗を、来年のみのりを願うために柿の実を一個だけ残す木守に例えて、「木守」と名付けたのである。千家にとって銘品の茶碗として伝わっていったのは言うまでもない。小野賢一郎編集の『陶器全集』には、「利休百會」と言われる100回の茶会のうち木守が突出して多く使われ、記念すべき100回目の茶会にも木守が使われたことが、次のように書かれている。

 「試みに長次郎の七種の銘木守の茶碗を擧ぐるならば、その銘柄の晩秋の節には好適の天正十五年十月廿六日正午の茶に初見參をしてゐる。木守には配偶よろしき尻ふくらの茶入れにその茶を酌むおりだめがそへられてゐる。この取合わせいの一番にして翌年の正月廿四日迄に三十六囘の茶事に悉く木守が組まれている。しかも丗六囘目の廿四日で百會記は滿會となってゐることも見逃してはならない。」

 山本兼一は『利休にたずねよ』で、利休が木守で徳川家康をもてなした茶席のことを書いている。家康は秀吉の天下取りの仕上げとして、利休に毒を守られはしまいかという疑念を持ちながら、利休の茶席に臨んだ。利休は、木守の茶碗で茶を立てる。二人だけの茶室での会話と心中の描写は緊迫感にあふれている。

「はて、銘の由来はなんであろう。」
利休にたずねた。
「他愛もないことでございます。長次郎の焼きました茶碗をいくつも並べ、弟子たちに好きなものを選ばせたところ、これひとつが残りました。」
なるほど、と、家康はみょうに合点がいった。
――この男は、稀代きだいの騙(かたり)である。いまの答えで、利休こそ天下一の茶人と称されている理由が納得できた。あまたの大名、侍たちから師と仰がれている理由が、はっきりした。目利きの弟子たちが、ただひとつ残した茶碗なら、出来が悪いに決まっている。それを、木守などと言いくるめ、名物にしたてるのは、あっぱれな詭弁ではないか。こんな男、茶人になどしてはおけぬ――。

 そして、聚楽第の居心地が悪ければ、いつでも江戸に来いと利休に伝えるのである。利休の目は笑うばかりであるが、退席の時にあえて家康に危害を与えるかのような素振りを見せ、家康を狼狽させる。そして、家康は自分の小心さを利休の前で露呈してしまうのである。この場面を私なりに深読みすれば、利休の目は

 「家康さま、いかがなされました。お顔の色が優れませぬ。あなたさまには最後に一つ残る木守になっていただかねば・・・・。この利休、いたずらに枝から獲るようなことはいたしませぬ。ご安堵なされよ。」

 と、戦国の時代の終焉に向けて家康に語りかけたのではないのか。木守を家康に使ったのであれは、利休はそれぐらいのことを考えたに違いない。利休は、木守にこのような修羅場を潜らせ、さらに貴人との茶席で多用し、貴人と同じ時を過ごさせ木守を銘品に育てたのである。木守の価値は、そのことにもあるのだろう。

 この茶碗は武者小路千家に伝わり、争いの多い京都より高松の方が危害に遭う恐れがないとの思いもあって、武者小路千家から主筋の高松松平家に献上された。高松松平家が所有していたのだから、木守も飛龍丸に乗って藩主とともに高松と江戸の間を行き来したに違いない。ところが、1923年(大正12年)たまたま高松松平家の東京の屋敷にあった木守が、関東大震災に遭って割れてしまった。関係者の悲しみは大きく、楽家第十二代弘入(こうにゅう)と十三代惺入(せいにゅう)は木守を復元しようとして、破片を使って写しを作ったのである。大場躍、蜷川第一述編集の󠄁『京洛の古陶』によれば、復元された木守を「更生の木守」と表現して、

 「更生の木守は、舊体(きゅうたい)の保持に意を注いであるので、ほぼ本歌と同様であるが、釜を出て日尙淺いため赤味勝ちに光澤麗しく、所々に薄黄あるひは小黑い色群々と火變り面白く、片面に本歌木守殘片を集め嵌め込んで焼成したそれが寓意か作意か、葉形に似て、丁度秋の末の柿の朽葉色同様に現はれ木守に一葉添へる風情にも見え、葉形であるため一入(ひとしお)更生木守にふさわしく思はれた。」

 と記し、元の茶碗の破片が柿の葉のように見えるとして感慨に浸っている。同書に掲載されている写真を見ると、確かに嵌め込まれた一片が葉のように見えて、面白い形に仕上がっている。いかにも木守を連想させて風雅を添えている。そして、

 「宗匠(武者小路千家)が携へて、昭和九年十月廿日今日の庵室を出で、廿一日讃岐高松披雲閣に歸省中の松平賴壽伯に還納された。」

 と、更生木守が高松松平家に戻されたと記されている。利休の木守への思い、武者小路千家の思い、楽家の思い、そして高松松平家の思いが、その破片に移って更生木守に作り込められている。この思いの重なりが、更生された木守により一層の深みを与えているのである。

 高松には茶碗だけでなく、銘菓「木守」もある。高松で乗ったタクシーの運転手は、「品の良い餡で、私の好きな和菓子です。」と言っていた。三友堂という店で作られている。奇を衒わない落ち着きのある店構えからは、きちんとした商いをしている雰囲気が漂ってくる。三友堂のホームページには、

 「1872年(明治5年)廃藩置県により高松藩が亡くなったことを機に藩士だった三人の友で和菓子製造を始め2022年おかげさまで創業150周年を迎えました」

 とある。店の名前が三友堂。藩を失った武士三人の決意と人生が目に浮かぶ。武士から菓子商になるのは並大抵ではなかっただろう。さまざまな苦難を乗り越えて、150年という時を経てきたのだと思うと、胸が熱くなる。

堅実な三友堂の店構

 店に入ると、左正面のショーウィンドウに「木守」が並んでいる。静かに受け答えをする女性が「木守」を手渡してくれた。「木守」の包み紙には、楽家による木守の復元を機会に、
 
 「・・・この名器赤楽茶碗の面影を残し柿の実と讃岐和三盆を持って調整し、銘菓木守として世に売り出しています。」
 
 と記されている。私が、店にいる間にも「木守の詰め合わせをお願いします。」と木守を買い求めにお客が来ていた。お遣い物にするのだろう。昔を今に嵌め込んだ銘菓「木守」、店と客が長い間大切にしてきた和菓子なのだと思った。

銘菓「木守」 左上に三つ葉葵 渦のような模様は茶碗「木守」高台裏のイメージ

 銘菓「木守」の麩煎餅の表面には、茶碗「木守」の高台裏にある模様が、焼き込まれているのも印象的である。このお菓子も「更生の木守」と並んで、多くの人の思いが重なった茶碗「木守」を偲ぶよすがなのである。干し柿の餡とともに口に入れると、利休と家康の緊迫した茶席のことも思い浮かんでくる。

4. 再び、阪急梅田駅ワインの店
 
長い歴史の中で起きた悲喜交々を呼び起こすために、昔の出来事が高松の今に嵌め込まれている。高松駅、連絡船、高松城、松平家、松平公益会、飛龍丸、茶碗木守、更生の木守、三友堂、銘菓木守・・・、一つ一つが組み合わされて万華鏡の模様を描いている。喜び、楽しみ、悲しみ、怒り、出会いと別れ。歴史という時間軸の中で多くのドラマが生まれたはずである。高松の街はこの歴史的風景を俯瞰して、万華鏡を回しながら色々な模様を見つめ続けてきた。そして、時代を通り過ぎた一瞬の模様を、さまざまな形で街の記憶に留めているのである。ドラマと言えない私の人生にでさえ、さまざままことが起こる。時が経つにつれて忘れることもあるが、記憶に留まっていることもある。ワインを飲みながら昔のことを偲び、万華鏡をくるくる回すようにして、さまざまな記憶を甦らせる。人生を俯瞰して、振り返ることも大切なのだと思う。人生に無駄なことなどなかったのだから。

 人生を「ふかん」していたら、「うどん」のことを思い出した。高松でお昼に食べたうどんは、その店の人気メニューである肉うどん「中」で、コシの強い男麺と言われているものだった。お昼30分前には店に入らないと、並ぶことになるという。カウンターに置かれた天ぷらの中から、ちくわ、げそ、なすをお皿に載せ、最後にうどんを受け取った。この「中」は、私から見れば立派な「大」だった。愛想のいいおばちゃんが、ふた玉はあろうかといううどんの上に、優しい味付けの牛肉をさらにたっぷり載せてくれた。心の中で「え!」という言葉が出た。うどんを食べるのに覚悟が要ることを思い知らされた。案内してくれた人によれば、普段使いの店だと言っていたので、高松ではこれが普通なのだろう。しかし、気取らない雰囲気とおばちゃんたちの愛想のよさも含めて、美味しい満腹のお昼だった。

 小麦粉や醤油が手に入りやすかったことがうどん県に繋がっているらしいのだが、岡原雄二の『不易流行 「塩」の歴史から讃岐うどんの起源を探る』には、塩こそが讃岐うどんのコシの命なのだと書かれている。天然塩はニガリが多く、タンパク質を固めてしまうため豆腐には使えてもうどんには使えない。値段の安さから言っても、うどんのコシにはニガリが少なく塩化ナトリウムの純度が高い「並塩(なみしお)」がベストなのだという。製麺段階で讃岐うどんのコシを作っていたもう一つの要因は「足踏み」なのだが、衛生上の観点から機械化へ移行するという議論が起きた。当然、うどんを打つ職人からは「うどんのコシが死ぬ」という意見も出たようだが、次第に食品衛生の観念が根付き、さらに重労働と非効率的な作業からの解放に「うどん足踏み代用機」による機械化は抜群の効果を発揮したと言われている。前掲書には、機械化によって「最高品質麺の量産化」が可能となり、うどんブームを長く続かせるきっかけになったと書いてある。讃岐うどんに練り込まれたうどん県民の苦労も、コシの強さの一因なのだと思った。
 三友堂の銘菓「木守」のことを教えてくれたタクシーの運転手が「相変わらず、うどんを食べにくる県外のお客さんは多いですよ。どの店の讃岐うどんも美味しいけど、冷凍うどんもかなりレベルが高くて、美味しいんです。」と言っていた。冷凍うどんだけでなく、全国展開のうどん店も日本各地にある。本場讃岐うどん店の繁盛も含め、うどんブームはまだまだ続きそうである。

 ワインをおかわりして、しばらくの間、行き交う人々と電車を眺めたあと店を出た。階段をゆっくりと降りてコンコース階に足をつけた。足早の人々に混じって5番ホームに向かい、宝塚行きの電車に乗った。電車の中で揺れる人々の顔が、さまざまな人生模様を写す万華鏡のように見えた。

●残念ながら阪急梅田駅の改札内にあったワインの店は、閉店してしまった。また、いい店ができるといいのだが・・・。
●香川県出身の旅行・乗り物ライターの宮武和多哉が、「乗りものニュース」(2022年9月6日 https://trafficnews.jp/post/121790/3)に、「宇高連絡船がいかに特別な存在だったか、再認識されました」として、接続列車の急行「鷲羽」と、1日限りの宇高連絡船の復活について楽しそうに記事を書いている。読んでいる方も、なんだか嬉しくなってくる。
●財団法人琴平海洋会館編集・発行『高松藩御座船飛龍丸』 1990年・・・飛龍丸の模型を作成した時の記録で、残された資料から模型の設計・製作を行なった苦労が記録されている。
●高松市立玉藻公園「史跡高松跡」パンフレットには、史跡高松城跡(玉藻公園)の沿革、園内の見どころ、松平家のエピソードなどが記載されている。
●公益法人松平公益会編集・発行『高松藩祖 松平賴重傳』 1964年
●公益法人松平公益会 高松藩第12代当主松平賴寿によって1925年(大正14年)に設立。①一定の公益目的事業を行う団体を継続的に支援し、社会に寄与する事業、②期限を有する公益目的事業への助成、支援事業を目的事業としている。http:/www.matsudaira.or.jp
●小野賢一郎編集『陶器全集』陶器全集刊行會 1932年
●大場躍、蜷川第一述編集『京洛の古陶』河原書店 1947年
●山本兼一『利休にたずねよ』PHP研究所 2010年・・・「『南蛮には、じわじわと体の痺れる毒があるそうにございます。飲んで何日もたったのちに絶命すると言いますゆえ、利休も関白殿下も、知らぬ存ぜぬで通しましょう』四郎次郎の言葉が、耳にへばりついている。口のなかがみょうに渇いて粘りつく。」と、聚楽第の利休屋敷を訪ねる家康の気持ちが書き表されている。
●三友堂HP・・・HPには「讃岐特産の霰三盆糖は創業当初から製造し5代に渡り代々守り続けております。そのほか干柿・香川県産獅子ゆずを使った菓子やカステラ、季節の上生菓子、讃岐特産の和三盆糖を使った干菓子など心を込めて手作りしております。」さらに「高松片原町西部商店街にひっそりと佇み桜製作所の設計による情緒あふれる店内はシックで落ち着いた雰囲気です。」と書かれている。全く、その通りの店である。https://www.sanyu-do.com
●岡原雄二『不易流行 「塩」の歴史から讃岐うどんの起源を探る』さぬき麺株式会社 2020年

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