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広島県庄原市 高野新市の街並み

毎日 Google Maps の航空写真を眺めながら古い街並みがないか調べている僕にとって、その街並みを発見するのはそう難しいことではなかった。

ムカデの足のように道路沿いに古民家が並び、密集しているのが分かる。
これぞまさに昔の宿場町といった雰囲気で、戦前の日本にはどこへ行ってもこんな街並みがあった。そのうち幾つかは重要伝統的建造物群保存地区(いわゆる重伝建)として保存され、現在も江戸時代さながらの風情を感じられる観光地となっている。しかし、それ以外の多くの街並みは保存されることなく、建物は老朽化などで建て替えられ、少しずつその姿を消していった。

[参考] 重伝建 御手洗の街並み

といっても全てが失われてしまったわけではない。特に重伝健に指定されることもなく、それでも現在まで古い街並みが受け継がれ残っている街はある。もちろん、いくつかの建物は老朽化で解体されてしまっただろう。それでも、かつて宿場町だった街並みには今なお目を見張るような重厚な建物が残っていることが多い。
山道を車でドライブをしていた時に、うっかり旧道に間違えて入り込み、そこで時代劇のセットのような古い街並みを見かけた経験はないだろうか?古い街並みのカケラは、案外身近なところにひっそりと残っている。

今回訪れる高野新市も、そんな、今に残る宿場町である。

さて、前置きが長くなってしまったが、高野新市がどこにあるかを見てみよう。

…….そう、中国山地のド真ん中。それもほぼ広島と島根の県境という、なかなかに攻めた立地である。
逆に言えば中国山地を越える険しい峠の途中であったからこそ、こういった宿場町が大きく発展したのかもしれない。

高野新市までは広島県三次市から備北交通のバスが出ている。しかし今回はせっかくなので島根県側へぐるりと回り込み、奥出雲交通バスを使って南下するルートで向かいたいと思う(下図)。せっかく中国山地へ行くのだから、奥出雲交通バス乗ってみたいよね…。

少女移動中….。

広島駅から芸備線と木次線を乗り継ぐこと丸一日と少しかけて(もちろん途中あちこち寄り道しながら)訪れたのは、島根県 奥出雲町三成。駅のベンチで地元木次のミルクコーヒーを片手に、ほっと一休み。

三成の街並み。こちらも歴史ある古い街で、奥出雲町の役場があったりと奥出雲地域の中心を担っている。

街を小一時間ほど散策したあと、駅前のバス乗り場から出発。

奥出雲交通バス(普通ワゴン車)は定刻より10分ほど遅れてやってきた。
こういった田舎町で地元の公共交通を使う時、初見では分からないルールがあったりする(待合室のブザーを押して合図する、バス停の反対側で待つ、など)
おまけに逃すと数時間待ちや翌日まで無い可能性もあるため、旅先でバスを待つ時間は一番ドキドキするのだ。今回は特に問題もなく乗車できたので良かった。

小さなバスは、美しい5月の中国山地を進む。いくつかの水田には水が張られて、田植えの準備が始まっているようだった。

通り過ぎるバスの車内から古い街並みが一瞬見えたような気がして、場所を記憶しておいた。後日、自宅に戻ってストリートビューを見ると山裾に隠れるように渋い風景が広がっていた。いつかここも訪れてみたいが、下車してしまったら次の便はいったい何時間後なのだろう…。

途中、運転手さんがミラー越しにちらりと僕をみて声を掛ける。
「これから県境越えるから、400円になります」

こんな小さなバスなのに、県境を超えて広島に….。
その感動に震えながら、ふと400円は安すぎやしないかと思った。すでにバスに乗ってから30分は経っている。
ほとんど利用客もいないであろう秘境路線。普段、利用客のほとんどは病院通いの老人、もしくは通学に使う学生達だ。きっと採算度外視の価格設定になっているのだろう。

「お客さん、どこで降りますかね?」と運転手がまたミラー越しにこちらを見た。
「高野新市の古い街並みで….。」と答えると、運転手はなるほどという顔をして、「それでは古いほうの街で止めますね」と答えた。
このバスの終点は高速道路のSAに併設して作られた「道の駅たかの」に向かっている。普通であれば皆そこで降りるのだろう。

バスはなおも激しく蛇行する道を進み、最後の峠を超えて広島県庄原市、高野町へと至った。

唐突に道端に降ろされ、困惑しつつ辺りを見回す。抜けるような青空と、折り重なる日本家屋の屋根瓦。確かに高野町へ来たんだという実感があった。

裏通りに一歩足を踏み入れると、ふっと空気が変わったような感覚があった。
緩やかにカーブしながら降る坂道、その両脇に迫り出すように古い日本家屋が軒を連ねていた。言葉を失った。

何度も言葉にならないため息をつきながら、通りを往復した。
ちょうど、午後の一番強い日差しが街を照らしていた。

時間をかけて、バスと列車を乗り継いで訪れたからこそ味わえる感動というものもある。ましてや、街と街とを徒歩で行き来していた時代、この宿場町がどれほど大きな役目を果たしていたかは想像に難くない。

各家庭に自動車が当たり前にある今の時代、こうした町は徐々にその役割を失い、その賑わいも記憶から消えてゆく。
古い宿場町を歩く時、もしここに今でも当時の旅館が現役で残っていたら…と想像する。夕暮れの宿で縁側に座り、街灯の灯る街並みを眺める。それは素晴らしいひとときになっただろう。ただ、もうその願いが叶うことはない….。

一通り街並みを歩いた後ふと時計に目をやり、慌てた。あと数分で帰りのバスがやってくる時間だったのだ。カメラを片手に大慌てでバス停まで走る。
しかし無慈悲にも定刻通りやってきたバスは、僕の目の前を通過し行ってしまったのだ….。

次の便は何時だろうか。次のバスを待って三次まで出るとなれば、旅程は間違いなく崩壊だ。そもそも、さっきのが最終バスだったら….。
そんなことを考え落胆していたところ、景気の良いエンジン音と共に先ほど通り過ぎていったのとは別のカラーリングのバスが現れ、僕の前で停車した。

「このバス三次まで行くで!」ドアが開き、運転手のおじちゃんが僕に声を掛ける。
聞けばどうやら先ほど目の前を通過したのは遅れてやってきた別ルートのバスで、こちらの方が本命、三次行きの路線バスだった。渡りに船とはまさにこのことだ。

バスは僕一人を乗せるとすぐにエンジン音を響かせ発車した。
「あんたバスマニアじゃろ。カメラ持っとるけぇ、すぐ分かったんよ」と運転手さんは楽しげに話しかける。僕はあくまでバスマニアではないのだが、バスが好きなことに間違いはないので笑ってそうだと答えた。

そのようにして、三次行き路線バスは道の駅を経由し、何のためらいもなく高速道路へ入った。驚く僕を見て、運転手のおじさんがあとで説明をしてくれた。

このルート、かつては三次-高野線として峠越えの道を走っていたものの、あまりに道が狭く険しいことと途中に大きな街もないことから現在の高速道路ルートへ変更となったそう。

高野-三次線と中国道

約1時間の道のりを経て、バスは懐かしい三次駅前へ到着した。
バス停には、母親とまだ幼稚園ほどの子供が二人でバスを迎えに来ていた。といってもこのバスから降りたのは僕だけだったので、きっとバスを見に来たのだろう。

バスが発車し、僕たちは手を振って見送る。
願わくばこの街に、このバス路線がずっとあり続けますようにと、心から願わずにはいられなかった。

バスを見送ったあと、駅へ向かう。すっかり帰ってきたように思えるが、まだまだ三次、中国山地から脱出すらできていないのだ。

駅のホームには見慣れたディーゼルが一両佇んでいた。ここからまた福塩線に乗り、険しい中国山地を越えて瀬戸内海側まで出なければならない。Google検索で調べると、広島行き高速バスと新幹線を勧められてしまうルートだ。

それでも、見たい景色があるんだと思った。

列車はまもなく出発し、車窓には夕暮れの広島が展開される。日没まで1時間ほど、まるで映画を見ているような気分だ。

最後の日差しが山の向こうへ消えていくのを、僕はずっと見ていた。
そのようにして、と思った。僕の中国山地を巡る旅は終わりつつあった。


といってもこの先もう少し旅は続いて、瀬戸内の離島を歩いたり、奈良へ行ったりしたのだけれどその話はまた今度….。

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