聖戦

ジハードという言葉はご存知であろうか。
これはイスラム世界の聖戦という言葉だ。
聖なる戦争。
戦争に正しさを求める。
どうだろうか。
正しい戦争なんてあるだろうか。

教室に響く教員の声は、耳を傾けない生徒の目の前で野垂れ死んでいる。
まぁ、教授のせいでもあろう。
こんなつまらん話をするんだから。
けど、この授業の単位は美味しい。
ほとんど何もしなくても貰えるとみんなが口を揃えてるから、大教室A1に生徒が溢れている。
せいぜい話を聞いているの0.1%だろう。
そのうちの一人ではない僕は虚になっていた。

聖戦は歴史的にムハンマドがメッカへと凱旋したことを起源とする。
以来、「神のために」という言葉を掲げてイスラム世界での戦争はジハードになっている。
近年のテロリズムも彼らにとってはジハードである。

日本人の自分なんかには興味もない、関係のない話をされても困る。
こんなこと知って自分の人生は変わるのか、否!
寝てる斜め横の彼女は僕よりも頭がいいのだろう。
効率よく興味のない事を受け流れせるからだ。
でも僕はなぜか、どんなに関係ないこともなんとなく聞き入れてしまう。
スマホの画面を開いても通知なんて一つもない、仕方なく適当に聞いているのだ。
仕方ないのだ。


果たして、ジハードはそのまま戦争という意味なのだろうか。いや、もう一つの意味がある。
それは神の道のために、努力することである。
自身の悪と戦うという意味も含まれている。
内なるジハードということだろうか。
自身の悪とはなんであろうか。
皆さんは考えたことあるかな。


その皆さんは誰も聞いてねーよ。
心の中でつぶやいた。
でも、自身の悪。なんだろう、それ。
僕には、あるのだろうか。
目を瞑って思い出してみた。

お前なんかどうしようもない役立たずだ

お前なんか不幸になればいい

ごめん、もう疲れた


この弱虫が

お前の人生なんて無意味だよ

チッ、嫌な事を思い出しまったじゃねーか。
なにが自身の悪だよ。
てめぇらが悪だわ。
人のこと踏みにじるような言葉を平気で言いやがって。

その時、チャイムが鳴った。

皆さんのジハードは何か。自分に問うてみましょう。

最後にそういうと教授はマイクの電源を消して、ブツっと音がした。

授業中の呟きが暴発して、気化してざわつきへと変化した。

ぞろぞろとのらりくらり歩く生徒はよく見たらゾンビみたいだな。
ふん、人間は集団で生きなきゃいけねーもんなのか。めんどくせ。

見下した僕もゾンビになって片付ける教授を背中に教室を後にした。

キャンパスにはゾンビが溢れてる。それぞれに話したり、ふざけ合ったり、歩き回って何かに向かっている。次の教室だろうか、昼飯だろうか、予習復習でもするんだろうか。
個々である僕たちもこうみると誰かにプログラミングされたただの情報伝達電子のように感じる。
自由意志が見当たらない。
ゾンビでいる事を始めから決められているようだ。

次の授業は、社会学3045だ。
あの教授は話し出すと止まらないおかげに、話す速度が遅すぎて眠くなるんだよな。
…サボるか。
中庭には、一つのイチョウが立っている。
黄色に染められた木はこのゾンビどもを見てどう思うのだろうか。
それともこの木も誰かのプログラミングなのだろうか。
科学の世界ではこの世を別次元にいる超生命体が作り出したシュミレーションだと解く説がある。
なんとも馬鹿げた仮説だと思ったが、あながち間違ってないかもな。
イチョウの隣の冷たいコンクリで出来た椅子に寝そべった。
一眠りにでもしようか。

目を瞑った。

ジハードは内なる戦争なのである。

皆さんのジハードはなにか。

つまらない授業の内容がなぜか聞こえてきた。

自身の悪。

うるさい。考えたくもない。
めんどくさい。このままでいいんだよ。

誰に話しかけてるんだろう自分は。

もう、無理
もう、疲れた
もう、別れよう

お前なんか要らないんだ

ばっと起き上がってもそこには誰もいなかった。
むしろさっきまでいたゾンビの群衆すら、見当たらなかった。
静まり返ったキャンパスに1人でいた。
確かに聞こえたはずなのにな。

お前なんか要らないんだ


誰だ!どこにいる!
自分は誰に話しかけているんだろう。ついに頭がおかしくなったのか。

お前なんか価値もない

確かに聞こえる。でも、誰もいない。
…目を凝らした。
が、見えない。
諦めようとふと上を向いたら、おっさんが枝の上に座ってた。
おっさんだ、形容なんて要らないくらいのおっさんだ。

困った顔をしてるな青年

この状況が当たり前かのように話しかけてきた。
思いもよらぬ身の軽さで枝から体操選手のように地面に着地した形容なんて要らないおっさんが、こちらを向いた。

どうした
不安そうな顔をしているが

なんのことを言ってるかわからないが、状況が読めない僕はとりあえず

あんた誰ですか

と聞いた。

わしか
そうだな、清掃員だ

明らかな嘘だ。下手くそすぎる。

ところで、青年
ジハードって知ってるか

背筋がなぜか凍った。なんでその言葉をこの人が口にするんだ。

ジハードは聖戦と和訳され、よくイスラム世界がどこかへ戦争を仕掛けるときに口にする言葉とされている

硬直した自分を見もせずにおっさんは話し始めた。

しかし、ジハードは内なる戦争なのだ。自分の闇との戦い。誰しもある闇に立ち向かうこと。それがジハードなのだ。

おっさんは人差し指を立てて、僕の目の前に突き立てた。そして、その指を頭に当てた後、胸を指さした。

お前のジハードは始まったか?
それとも、お前はいつまでも闇に負け、取り込まれ続けるのか?
困った顔をした青年よ
お前の闇とは、悪とはなんだ

お前なんて死んだ方がみんなのためだ

胸が強く打った。急に呼吸ができなくなった。
衝動で目を瞑って俯いた。
咳払いをし、やっとの思いで呼吸を整えて前を見ると強いて言えばハゲ散らかしてたおっさんが消えていた。

なんだったんだ、今の。なんだかめんどくさい1日だな、ほんと。授業サボった罰かなんかか?それとも夢か?

頬を強く引っ張った。が、痛かっただけだった。
辺りを見渡しても何体かのゾンビがいるし、自分は間違いなく現実に、いやシュミレーションの中にいる。

お前のジハードは始まったか?

さっきのおっさんの声が聞こえた。
そもそも、僕はイスラム教徒でもキリスト教徒でも仏教徒でもねーよ。
無宗教だ、こんちくしょう。

それでも響き渡る。

確かに、僕の人生は恵まれてるとは言えない。
嫌なことだらけの連発だ。
でもそれは僕の知ったことじゃない。
周りの奴らが勝手なだけで、クソなだけで、その被害を被ってるだけだ。

そうだ、そうなんだよ。


お前なんか誰も必要としてないんだよ

ドクンと胸が波打った。
苦しかった。
とてつもなく苦しくて、悪寒がして、体が震えた。
まるで、世界が瞬間的に圧縮されていくようだった。
その瞬間、膨れ上がり破裂する風船のように過去の記憶が自分に襲いかかってきた。
辛かったこと、苦しかったこと、怖かったこと、悲しかったこと、悔しいこと。

そして確かに聞こえた。

お前なんか要らないんだ

僕は目を瞑った。

ジハード
内なる悪との戦い

戸愚呂を巻いた黒い蛇のようなヘドロが体にまとわりついたように感じる。

お前の人生に価値なんてない
お前は必要ない
お前が死んでも誰も悲しまない

聞こえてくる声はその蛇からだった。
僕の心臓は引き裂かれ、悲鳴をあげた。
知っていたのだ、その事実を。

自分は用済みだ。
誰も見向きもしないし、愛しもしない。
大切になんて一度もされたことがない。

ふと見上げたイチョウの木が誘ってきているように見えた。

縄を持ってきてごらん、楽にしてあげるよ

そう語りかけてきた。無意識にカバンの中に手を入れたらそこには短い縄が入っていた。
いつのまに…どういうことだ…

そのまま首を絞めちまえ

ディストーションのかかったノイズが頭の中を掻き乱す。

死んでしまえ

鳴り止まない。

お前なんか要らないんだ
もう疲れた
役立たずが
弱虫が
もう近づかないで
彼と付き合った
お前なんか不幸になれ
死んじまえ
死んじまえ

手が勝手に縄を結び始めていた。
全自動だった、自由意志なんてなかった。
まるで自分はそれをただ背景から傍観しているようだった。
この世はシュミレーションなのかもしれない…僕のシュミレーションはこのまま死ぬことなのか…

ジハードという言葉をご存知であろうか。

ジハード

内なる悪との戦い

ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

お前なんか要らない

うるさい!

もういっしょにいたくない

うるさい!

お前の人生に価値なんてない

いい加減にしろ!

戸愚呂を巻いた黒い蛇のヘドロが口を開けて襲いかかってきた。
その瞬間、体を奪われていた僕の精神は引力に引き戻されて持っていた縄の輪を蛇の首にかけた。

死んでしまえ
楽になれ

縄をつけられた蛇がもがくところを僕はしっかりと押さえた。しかし、抑えれば抑えるほど反動は強くなる。
その瞬間、背後にあったイチョウの木が、黄色だったイチョウの木が、真っ赤なドス黒い色に変わり、自分の手足を枝で捉えた。

お前には何もない
お前は無価値だ

イチョウの木に縛り付けられた自分は、蛇のヘドロに無防備だった。

もう終わりにしよう
さようなら

蛇が自分にかかった縄を僕につけた。そして、もう一度口をあけて襲い掛かろうとした。


なぜか僕の頬には一粒の涙が流れた。

…痛かったよな…
…苦しかったよな…

僕は泣き出した。
恥ずかしいくらい大声で泣き出した。

そのまま蛇は僕を飲み込んだ。

……


朝食はいつも決まっている。
卵焼きと味噌汁とウインナーとご飯だ。
お母さんがいつも用意してくれるから、僕はただ部屋から出てきて、食べるだけだ。

テレビはいつもつけっぱなし。
誰もほとんど見ても聞いてもいないが、人はテレビをつけたままにする。
みんなする。まるでそうするようにと誰かに言われたかのように。

陽気な口調の女の人が今日の天気を話している。
午後から雨が降るそうだ。傘は必要かな?
制服についたケチャップに舌打ちしながら僕はティッシュを取った。

「先日、某大学のキャンパスで遺体が発見されました。遺体はイチョウの木から首を吊った状態でした。警視庁は自殺だという発表しています。」

校内で自殺か…全く物騒な世の中だ…
朝から気落ちすることは聞きたくないから僕はテレビのチャンネルを変えて、卵焼きを頬張った。


テレビにはアラビア系の人たちが歓喜に溢れてそれぞれに手を挙げている映像が流れている。
アナウンサーが言う

「彼らはジハードを果たした、とおっしゃっています」

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