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「お金くれ」への僕の対応

近所の子どもも大人も日本人=お金持ち。の印象がある様です。日本ではお金持ちに分類される様な生活を送っていたわけではありませんが。マダガスカルの平均月収と比べると少しだけお金に余裕があるのも事実です。

日に日に親しくなるにつれてお金くれやご飯くれと言われる頻度も増えてきましたw。僕の家は部屋にキッチンがないので外で料理しなくてはなりません。子どもたちはいつも外にいるのでその光景を毎日の様に見ている結果そうなりました。これは仕方ないことだと思っています。お腹が空いているからお金、ご飯をくれと言うのは正常な事と腑に落ちています。

毎日の様に言われますが僕の答えはノーまたは無視です。冷たい人間です。
しかしそれだけでは終わりません。例えば昨日は家の下の掃除を子ども3人にお願いしました。と言うより子どもたちが自分から掃除させてと言ってきました。実際期待以上に綺麗になったのでその子ども3人と一緒に売店でお菓子を選び、お礼にあげました。

この一連の出来事で僕が思ったことは、給料やお礼は労働の対価で発生するものではなく、労働によりどの様な結果、成果をもたらしたかで発生するものだと言うことです。

なぜそう思ったのか考えました。これからも子どもたちは掃除をすれば対価を得ることができると思って掃除をすると仮定しました。僕が逆の立場なら毎日の様に掃除をして、なんなら少し手を抜いた状態でも家の持ち主に掃除をしたから対価をくれと言いにいきます。掃除という仕事、役割をどれだけ効率よく行い対価を得ることができるのかは実際に子供の時に考えていました。

まとめると用意された環境や役割を効率よく行い対価を得るためにどの様にしたらいのかを考えるのは難しくないと言うことです。

話を戻します。
掃除をして家の持ち主に対価を求めに行くときっとこう言われます。頼んでないから対価は発生しない。勝手にやったことだろ。
当たり前ですね、僕もそう言うと思います。
しかしここで諦めては掃除をした事実がただの無駄な行為で終わってしまいます。次の日は掃除の範囲を三倍にします。家主を想像を超える様な事実を伝えます。大家さんの対価を支払う可能性は昨日より増えると思います。単純に仕事量が三倍になったこともですが、重要なのはいいい意味で期待を裏切ると言うこと。驚く様なことをした結果を出せば対価発生の可能性は上がると考えていました。
何をしたとしても大家さん次第で対価は決まります。主導権は大家さんです。
結局、対価を得る立場の人間は、対価を与える立場の人間に価値を提供し続けないといけないと言うことです。

ボランティアも対価があります。と言うことは僕は成果も結果も出さないといけません。毎月決まった対価を貰えることに安心して見合った範囲でしか行動しないと一生成長していきません。対価で成果や結果を決めるのではなく、成果や結果に対価が発生することは常に意識したいことです。常に主体的に仕事をする必要があります。
ボランティアが終わったら、用意された環境で決まった対価を得ることも終わります。もう一度対価を得ることができる環境を探して結果と成果を出さなくてはなりません。
と言うことは今から準備をしないといけないと言うことです。個人の実力をつけていきます。そんな環境が僕は好きです。サッカーの経験がそうさせてくれたのかもしれません。


この考えが全て正解とも思っていません。自分なりに考えて自分なりの意見を書くことで視野を広げることができると思っています。

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