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恐怖について、ホラー創作のための考察

本記事では、ホラー作品がすきで、またホラーイラストなどを描いている筆者が、自身にとっての上質なホラーとは、恐怖とは何かを考えまとめたものとなっている。
創作大賞でホラーを制作しようと考えている皆様に、幾らかのヒントを与えることができれば幸いだが、どうしても主観的な偏りは生じることを、予めご了承いただきたい。


目次と有料範囲の説明

無料範囲である「はじめに」から「日常からみる非日常について」では、現実で体験する恐怖からはじめて、「そもそも恐怖とは何か」の根本を紐解いて、作品としての「ホラー」との違いを明確にする。

有料範囲では、具体的に非日常性としてホラーで用いられる要素を、カテゴリごとに分類し、その利点や注意点を説明する。
その後、ホラー創作論として、創作するときに気をつけるべきポイントを考えてゆく。
最後に、ホラーを考える、もっとも根本の取っ掛かりについて、ホラー論を語っていては見逃すようなポイントを付け加える。
凡そ1万文字。

はじめに

良質なホラーのために、という前提で話すので、私の主観的な判断で「こうすべき」「これはすべきじゃない」と表すことがあるが、前提として、創作とは自由なものである。
「これはすべきじゃない」と言う場合、「これで怖がらせるのは難易度が高い」くらいのニュアンスで受け取ってほしい。
もしも、あなたが「これならいけるはずだ」と思う演出を持っているのであれば、それはむしろ積極的に採用すべきだと思う。

また、前半は可能な限り言及を避けるが、後半(有料記事)の範囲内では、既存作品を例にとって解説を行ったりする。
物語の核心は語らないよう配慮するが、部分的に本編内容に触れる場合もあるかもしれないので、ネタバレに気を使いたい人は気をつけてほしい。

根源的恐怖である死について

言うまでもなく、死とは最も多くの人間が恐ろしいと感じるもの。
あるいは、自我の消滅や、その過程で起こる出来事に恐れを抱く人が多い。

先に、そうでない人のことを述べておく。
死を望む人として、希死念慮をもつ人や、自殺する人がいる。
ただし、全員が純粋に死を望んでいるわけではない。精神的摩耗や、過労による判断力の低下があったり、あるいは死の恐怖から生まれるべきではなかったと感じて希死念慮を抱く人もいる。

死を受け入れる人として、宗教を持つ人や、永遠のほうが怖い人がいる。
宗教もまた、あくまで自我の消滅以外の結末を望んでいることが多いという意味で、死は受け入れているが自我の消滅は恐れてる場合がある。
例外として永遠のほうが怖い人は、実際にそうである人が多いが、あくまで永遠と比較してるだけで、今すぐ死ぬ必要もないと思う人が大半だ。

それでもなお、多くにとって死は恐ろしい。
それは想像がつかないからであり、また絶対に先に覗いてみたり、体験することができないためであり、恐らく生物として死を避けるように進化し続けたからでもある。

しかし、死そのものをホラーのテーマとして書くのは難しい
死が万人の恐怖であることは、逆に言えば全員が「死という概念についてある程度承知している」ということであり、上記で示したように、多くの人々にはすでに、人それぞれ死に対するスタンスを確立している。

「どうだ、死とはこんなに恐ろしいだろう」と語っても、多くの人は共感できない。「でも自分はこう思ってるから……」と返されて終わりだ。
逆に、死恐怖症の人に「死はこんなもんで恐れるものではない」と語ってもやはり相手は納得しないだろう。

それらを崩す手段としては、哲学や自然科学を活用して、相手を唯物的な思考に落としてしまうことだが、それはもはやホラーという娯楽ではなく、堅苦しい論文のようになってしまうだろう。

死から連想されるもの

身体的危険について

死は最も多く人から恐れられる、というような話をしたが、ここで少しズルをさせていただくと、"その過程で起こる出来事"と言ったように、死に関連する事象もここに含めている。

例えば病気、怪我、加害、水没、火、猛獣、飢餓といったものたちだ。
これらは死に直結する。なので、生物はこれらに対して「苦しい」となるような反応を示すようになっている。
当然、苦しいことは嫌なことでないと、生存のために機能しないのだから、死、苦、嫌はすべて恐怖のベクトルでつながっている。

ちなみに飢餓に関しては、実際に飢えるよりも、飢えそうな予感の段階のほうが、恐怖としては勝る。実際に飢え続けてしまえば、思考力も低下するからだ。

ホラー作品において、死と連想されていて、且つ現実にある概念として、特に使われているものは以下の3つである。

ここであえて「負傷」や「怪我」ではなく血と表記したのは、ホラーにおいて、赤色であることそのものに、ある程度の効果があるためである。
敵であれ味方であれ、顔面が血まみれだったら尋常ならざる状況に感じるし、自身の血、味方の血、襲うものの血、誰のか分からぬ血、あるいは、血ですらなくとも……どんな場合でも、赤いドロっとしたものは、人の感情を駆り立ててくれる効果がある。
しかし、血は歴史上、不浄の概念としても扱われてきた。やりすぎると不快感や嫌悪感が勝ったりするし、特に不浄として扱うことそのものが現代にそぐわない場合もある。嫌悪としての血と、危険としての血はよく考えて使い分けないとならない

視界不良

真っ先に思い浮かぶのは暗闇であろうが、霧や水中なども手法としてよく使われる。
自分に害を為す存在がいても、気づいたときには手遅れの距離でないと目視できなかったり、仮に逃げることができても、どこに壁があるのか、床に抜けはないか、そもそも出口があるのかも分からない状態で、手探りで進まねばならないのは大きな恐怖だ。
また、死をイメージするとき、一般に暗闇として表現されることも忘れてはならない。むろん、実際の"消滅"は闇すらないのだが、死のイメージカラーとして浸透するだけ、死に結びついていることは間違いない。
ただし、目が見えてない人にとっては、日常生活でも危険や恐怖が多く、それが日常であるがために、恐怖演出としては効果が薄いおそれもある。

遭難

今のホラージャンルにおいて特に人気があるのがファウンド・フッテージと海外で呼ばれているジャンルであり、行方不明になった人物の残した撮影映像が後から見つかり……というパターンだ。
ファウンド・フッテージに限らず、今の自分の場所が分からない、という状況は不安・孤独感を大きくする。
ちなみに、遭難とひとことで言うと、山の中や、Backroomsのような無限ループする空間を思い浮かべるが、「変哲もない家の中で遭難する」みたいなことも考えられる。

しかし、これらをテーマにホラー作品を書くこともまた、死そのものをホラーの主題とすることと同様に厳しい部分がある。
テーマとしてあるのは別に問題ないし、良いアイデアがあるなら率先してそうやるべきだが、ここに示されているものは「現実に即した恐怖」であり、現実以上のものではなく……ホラーを望んで見る人の需要とは異なる場合が多いためだ。

また死と同様に、やはりいつ自分の身に訪れてもおかしくないものであるので、ある程度の対策を心得として身につけているし、また上に挙げたみっつ以外の猛獣や火なども含め、日常において「気をつける」だけで回避できる種類は多い。

そこで重要となることが、ホラーが「恐怖」ではなく「ホラー」であるための最も重要な要素、非日常についてとなる。

非日常のヒントとしての崇高について

ホラーは恐怖だけでは成り立たない

幼少を除けば誰もが架空の話と割り切れるファンタジーと違って、ホラーは「もしかしたら現実であるかもしれない」と感じる人がいるほど現実側にシチュエーションを寄せた作品が多く、なかには「実話系」として、本当にあった出来事として語られるものも多い。

極端な話、ホラーがただ恐怖的なものであり、読み手に何のメリットも与えないのであれば、それは上で語った「加害」としての存在となんら変わりがない。人々はホラーから身を守る対策をして、またホラーに遭わないよう、かえってそこから離れてしまう。
(あるいは、ホラーが特別苦手な人にとってのホラーとは、恐怖だけのものなのかもしれない。)

ホラーはただの恐怖であってはいけないが、空想すぎてもいけない。
しかし何故、そのようなバランスが望まれているのだろうか。

ここでもう一度だけ、現実的な恐怖に関連する話題を取り上げたい。
「崇高」についてだ。

力学的崇高

美学において崇高さという概念は、たとえば巨大な自然災害や、あるいは巨大な自然そのものに言い表されることが多い。
災害の津波などではネガティブな感情が大きくなってしまう人も多いだろうが、例えば火山の噴火や、富士の樹海などを想像してみると、そこには畏怖の感情と、美しく感じる感覚が同居してることも多い。
哲学者のカントは『判断力批判』において、こうした大自然の破壊に感じる畏敬の念を力学的崇高と呼んでいる。

大自然に対する恐怖は、極めて本能的なものだが、美しく感じるような感情はどこから来るのだろうか? なぜ美しさを感じてしまうのだろうか。
カントは、強大な力の前で、人間のちっぽけさを自覚させ、自らの道徳観を見直すような機会を生み出してしまうことによって、自然に対して尊敬のようなものが発生するとした。

このためには、自らが危険に晒されていてはならない。自分が災害に巻き込まれる立場にあると、ただ恐怖のみが優先されてしまう。高台に避難したとき、津波に一切合切が流されているとき、それを呆然と眺めて自身の無力さとの対比が発生する、ということだろう。

数学的崇高

またカントは、もうひとつの概念として数学的崇高も挙げている。
たとえばピラミッドなどの巨大な建築物や、無限に広がる星空を見たときなど、単純に巨大・無限を感じさせる体験をしたときに現れるものだ。
ここでもやはり、自身の想像力の限界と、それを凌駕するものという対比が起こることが、崇高という念を出現させることになる。
死や永遠について考える時も、この数学的崇高に当てはまるかもしれない。

カントの崇高論において重要なのは、カントの場合、崇高さは美しさとは別物であると強調しているところにある。崇高さは「自身との対比」という、理性的な思考によって生じるので、直感的に感じる美しさとは別になる。

こうした崇高さを浴びせられたとき、われわれは理性の限界を越えた存在への挫折と挑戦を繰り返しめぐり、やがて何らかの方法で乗り越えたり、克服するという、一種の悦楽を得ることができる。

カントの崇高に関する理論は古いものであり、当時の哲学者からはもちろん現代に至るまで、批判も多く存在する。しかし、恐怖と魅力の同居という観点において、ホラーについて考える場合は、ひとつのヒントとなる

恐怖と魅力は矛盾しない。だからホラーにはその両方が含まれている。

未知という恐怖

死や永遠、そして崇高さなどは、すべて「自身の想像の限界を越えた」という体験を引き起こす。想像できないこと、つまり未知とは、多くのホラー論で語られるように、語られ尽くしてなお、語られ続けるほど重要な属性だと言える。

視界不良も未知を引き起こすものである。
何が来るか分からないという「未知」は、恐怖や焦燥感を簡単に引きずり出すことができる。これは場所に関わらず、敵意を向ける存在そのものがよく分からないことでも同様だ。

これらはとりわけ、「不安」の感情が大きくなるのがポイントで、この不安は原因、つまり答えが分かるまで蓄積し続け、徐々にその人の精神を蝕んでくる。原因が分かっている怪我などの身体的危機とは属性が異なるので、併用して演出することでより強大なホラー効果を得られる。
(ただし怪我など身体的危機のシチュエーションにおいても、「いつまで経っても救助が来ない」など、時間に応じた不安の蓄積は存在する)
この答えが分かるまで積み重なるという属性も、崇高さをはじめとした、理解外の恐怖によく似ている。

しかしこれが作品演出にとって悩みの種となる。
詳しくは創作論の異常存在の造形で語る。

日常からみる非日常について

筆者にとっての非日常

まずはじめに、私個人にとっての「非日常とは」を解説する。
私は大昔からファンタジーなどが大好きであったが、物心つくにつれ、ファンタジー的な出来事というものは、空想上のものであり、実際にはないものだと薄々理解してしまった。
そこで、空想への希望をホラーに委ねた。
ホラーが恐怖演出として語る「あなたの身に降りかかるかもしれない」は、私の代わり映えしない日常に非日常を与えてくれるかもしれない、という期待になるのだ。
そうは言っても、実際に霊に呪い殺されそうになったなら嫌がるだろう。と言われればその通りだが、同時に、もしも霊が呪い殺しにきたら、「霊がいること」つまり、肉体的な死を迎えても自我の消滅になるとは限らないことが主観的に立証される。これは死の恐怖に対する希望である。
よって、私にとってホラーとは「期待」である。
(そんなわけだから当然、所謂ヒトコワよりも怪異のあるホラーが好きなのだが、ヒトコワを好まないわけではない。)

世間にとっての非日常

世間にとってはどうか……という部分は正直主観的な話なので、あまりここで詳しく語ることは残念ながらできない。
人によっては、私のように日常の刺激としてそれを期待してる人もいるだろうが、カントが示したように、自分の身に降りかからないという安全性があるからこそ楽しめる人も多いはずだ。
あるいはもっとライトに、友人たちと叫んだり大きな声を出すことで気分を発散させる楽しみ方をする人もいると思う。

どんな理由にしてもたいていは「日常に刺激を」という考えが前提にあることが多い。そのためにはホラーは「日常」であってはいけない。
そういう意味では、「非日常であること」は、恐怖であることや危険であることよりも優先される場合もある。怖い話のなかには、遺族に安心を与えるために夢枕に立つ家族などの、感動をベースにした話も多い。

結局、「ホラーは娯楽として日常のリフレッシュになっている」という、誰でも分かるような答えにはなってしまうのだが、その日常スレスレに位置する非日常性がホラーの肝となっている。

上質で身近なシチュエーションのホラーを見たとき、見終わってしばらくしてからも、ふだんの日常にホラーの恐怖が入り込む。しかし実際には、その恐怖によって、日常の鬱屈の気晴らしをしているのかもしれない。

では、ホラーとしての、日常に近い非日常とはどのようなものだろう。

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