座右の銘「知行合一」

私の座右の銘は「知行合一」です。

知行合一(ちこうごういつ)は、中国のときに、王陽明がおこした学問である陽明学の命題のひとつ。知(知ること)と行(行うこと)は同じ心の良知(人間に先天的に備わっている善悪是非の判断能力)から発する作用であり、分離不可能であるとする考え。論語の為政第二にある「先ず其の言を行い、而して後にこれに従う」が元になっている。

王陽明は、知って行わないのは、未だ知らないことと同じであることを主張し、知っている以上は必ず行いにあらわれると述べた。真の知行とは「好き色を好むが如く、悪臭を悪むが如し」と説く。例えば、好きな色というものはそれを見た(知った)瞬間に好んでいるのであり、色を見て(知って)から好きになろうと判断するわけではないのである。朱熹の学(朱子学)が万物の理を極めてから実践に向かう「知先行後」であることを批判して主張した。

江戸時代初期の陽明学者である中江藤樹や幕末の頃の陽明学者や維新の志士たちに大きな影響を与えた。

知行合一は「知は行の始なり、行は知の成るなり(知ることは行為の始めであり、行為は知ることの完成である)」「行動を伴わない知識は未完成である」とも言い表される。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E8%A1%8C%E5%90%88%E4%B8%80

ウィキペディアでは上述のような解説がされております。
少し難しいですが、要は
「知っていても実践をしていないなら、知らないのと同じ」
「知ったら、即行動せよ」

というふうに私は解釈しています。

「知行合一」
という言葉に出会ったのは人生で3回あります。
ひとつは中学生の時。
私が中学1年生の3月、部活でお世話になったM先生が他校へ異動することになりました。父兄を交えて、送別会があり、その時にM先生から頂いた言葉が
「知行合一」
でした。色紙に書いて頂いた記憶があります。
知行合一との初めての出会いです。ただその時は特に意味を調べるどころか、読み方も分からないまま放置してしまっていました。
私とM先生とは部活を通じてたった1年のお付き合いでしたが、人生初めてのバレーボールがその頃の私が一番情熱を傾ける対象になり、1年生ながらレギュラーに引き上げて頂きました。また、練習の中で取り入れていた長距離走で、校内トップになったり、市内の駅伝大会の個人部門でもトップクラスの結果を残せたのもM先生のおかげでした。
私の人生に大きな影響を与えてくださいました。

そして2回目の出会いは、司馬遼太郎の小説「峠」です。
義父からお借りしたのがきっかけです。

浦賀に黒船が現れた数年後。越後国長岡藩では、家老の河井継之助が藩兵をフランス軍式に訓練し、世界に数台しかない最新鋭のガットリング機関砲を買い入れていた。斬新な財政改革で藩を立て直し、若き藩主や隠居した大殿からの信頼も厚い継之助だが、その大げさ過ぎる軍備拡張は、藩内で顰蹙を買い、継之助を孤立させていた。

河合継之助は世界の情勢に詳しく、福澤諭吉らの動向にも目を配り、在日西洋人の知己も多い知識人だった。その財政改革の手腕は鮮やかだったが、同時に継之助は武士の世が滅びることを予見していた。抗えない時の流れの中で芸者遊びを楽しむ継之助。ある時は酒宴に愛妻を呼び、妻も楽しんで芸者と踊った。子供は持てなかったが、二人は仲の良い夫婦だった。

1867年(慶応三年)。将軍徳川慶喜大政奉還を発令した。徳川家を他の大名と同等の位置に据えることで、開国を迫る欧米に対し団結して立ち向かう構想だったが、王政復古により政権を握った薩摩西郷隆盛らの軍勢は、慶喜の首を獲ろうと江戸ヘ迫り続けた。日本は、佐幕派の東軍と勤王派の西軍に二分して戊辰戦争が勃発した。

長岡藩士たちの意見は勤王と佐幕に二分していたが、若い当主に代わり指揮を取る「大殿」の牧野忠恭には、徳川家を見捨てる意思は微塵もなかった。家老として、どこまでも藩主の命に従う覚悟の継之助。しかし継之助の真の狙いは、あくまで不戦と長岡藩の自主独立にあった。彼は東軍の主翼を担う会津藩と西軍の間を取り持ち、話し合いによる解決を望んで、藩の発言力を上げるために軍備を増強していたのだ。

1868年(慶応4年)5月2日(旧暦)。迫り来る西軍の陣地に出向く継之助(小千谷談判)。西軍が要求する軍費や兵の提供には応じぬまま、継之助は戦いが起こらぬよう東軍の諸藩を説得すると提案した。大総督府に宛てた嘆願書も差し出したが、受け取りを拒否する西軍の軍監。深夜まで頭を下げ続け、臆病と揶揄されても粘ったが銃剣で追われた継之助は、やむなく戦いを覚悟した。

新政府軍を榎峠で迎え撃つ長岡藩兵たち(北越戦争)。しかし、新政府軍は手薄な城下へ奇襲攻撃をかけ、5月19日には早くも長岡城が奪われた。長岡藩兵は加茂に集結して体制を立て直し、7月24日に長岡城を奪還。だが、城を維持できたのは僅か4日で、継之助は足に被弾し重傷を負った。

生き残りの長岡藩兵は、藩主や大殿が避難している会津若松への退却が決まった。歩けずに急ごしらえの籠に乗った継之助は「置いて行け」と、奉公人だけを連れて郊外の民家に残った。継之助の両親や妻は足手まといになる事を憂いて避難せず、危険を覚悟で城下の家を離れなかった。継之助は、騒動の全ての責任を負って自刃し、生き残った人々は苦難の中、教育をもって戦後の復興に務めた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%A0_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)

長岡藩の河井継之助は陽明学徒であり、知行合一を貫く生き方をしていました。吉田松陰も同じく陽明学を行動指針としていたようで、無謀にも黒船に乗り込んでいったのは、思ったら行動するという思想を体現していたと捉える向きもあるようです。

その峠という小説を読んだときは、小説としての面白さは感じていたものの「知行合一」にそれほど関心を向けていなかったように記憶しています。

そして3度目の出会いは、現在も所属している経営者の勉強会でした。ここではバイブル的扱いをされており、何度も読み返し、「知行合一」は経営者にとって何よりも必要な資質・態度だと私は確信しました。

それまでの私はなるべく失敗して、自分が傷つくことを恐れて、また周囲の目を気にしながら生きてきました。
失敗して恥ずかしい想いをするぐらいなら、、という想いが先立ち、挑戦することを異様に恐れていました。
しかし心のどこかで、世の中を変えてみたい!という密かな野望も持っていました。いつかその時が来るだろうと。
しかし、同じ日常を繰り返していては、そんな日はいつまでたっても来るはずはありません。
行動を起こす以外、変化を起こすことはできません。
どれだけたくさん知識を得ても、実践が伴わなければ、何も変わらないのです。きわめて当たり前のことですが、そんなことすら気が付かず、いつか世の中の方が変わって、私の方を向いてくれる日が来る、などと淡い期待をもっていたのだと思います。

そういった原理原則を体感し、現在はやろうと思ったことは実行することにしています。もちろんあまりにも可能性の低いことやコスト的に会社が傾きかねないようなことはしません。自分なりの勝算を見出すことが必要です。もちろん全く先が見えなければ、スモールスタートで少し足を踏み入れてみるなど何かしらのアクションをして、続けるか否かの判断をします。

かつて私がそうだったように、世の中には、分かったふうな顔をして、行動に移さない人がいると思います。
それは人生の幸福にとって、とてももったいないことです。
行動することは手段であって、目的ではありません。そこは軸として持っておいて、どのように動いたら目的が達成されるのか?
常にその視点を持っていなければなりません。

挨拶は良いことだと知っていても、挨拶しなければ相手との関係は作れません。
掃除は良いことだと知っていても、掃除しなければ汚れは募るばかりです。
素直さは良いことだと知っていても、いつも反論していては、誰も良い情報を教えてくれなくなります。

ということで、今回は座右の銘ということで
「知行合一」
についてご紹介させて頂きました!


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