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01 インドシナで死んだ二人のカメラマン

Prologue

2004年5月 再度、キャパの死の土地をさがしに行く

眼下に紅河デルタの田園風景が広がっていた。湿度のせいだろうか、晴れわたっていても、地上は淡いベールのようなもやにつつまれている。
幾筋にも枝分かれした紅河には強烈な太陽光線が射し込み、水面は乱反して虹を帯びている。
2004年5月。成田発、JAL 5135便ハノイ行き。日本航空とベトナム航空とのコードシェア便に、僕はひとりで乗っていた。
機内の空調はやわらかな照明とエアコンによって快適に維持されている。淡いベージュのフレアパンツにエンジ色のアオザイ姿のスチュワーデスが、通路を蝶の裾をひるがえしながら通り過ぎる。するとたちまち空気がベトナムの甘い香りをのせて妖しく揺れる。
僕は飛行機の小さな窓に額をつけて、地上を眺めた。機体は次第に高度を下げ、主翼を揺らしながら着陸態勢に入る。青々とした早苗の水田が窓いっぱいに広がった。
真新しい一直線の舗装道路が白く続いている。中国製の耕運機エンジンを載せた小さなトラックが一台黒い煙を吐きながら喘いでいる。カメラを向けて、数回シャッターを切る。
僕は世代の違う二人の写真家のことを考えていた。二人ともこのインドシナの地で死んでいる。
In May 2004, I went to search for the land of death once again.

Below me stretched the rural landscape of the Red River Delta. Perhaps due to the humidity, even on clear days, the ground was shrouded in a pale veil of mist. The Red River, with its numerous branches, was bathed in intense sunlight, causing its surface to ripple with rainbow-colored reflections. May 2004, JAL flight 5135 departing from Narita bound for Hanoi, a codeshare flight between Japan Airlines and Vietnam Airlines, and I was flying alone. The onboard air conditioning was maintained at a comfortable level by soft lighting and air conditioning. A flight attendant dressed in a light beige flare pants and a maroon-colored Ao Dai passed by in the aisle, the hem of her butterfly-like skirt fluttering. Suddenly, the air was filled with the sweet scent of Vietnam, and it swayed mysteriously. I leaned my forehead against the small window of the airplane and looked down at the ground. The aircraft gradually descended, its wings swaying as it entered its landing position. Green rice paddies stretched out as far as the eye could see, and a brand new straight paved road continued white. A small truck with a Chinese-made farming engine was struggling, coughing up black smoke. I pointed my camera and took several shots. I thought about the two photographers from different generations, both of whom had died in this land of Indochina.


一人は大学時代のひとつ先輩で、同じサークルにいた一ノ瀬泰造だ。
一ノ瀬は、日本大学芸術学部写真学科を卒業後、UPI通信東京支社でアルバイトをする。1972年1月、印パ戦争直後のバングラデシュに自費で行き、3月、カンボジアの戦場に立った。そこでアンコールワットにひきつけられ、その後ベトナム戦争を1年間取材。フリーの戦争写真家、一発屋、ストリンガーとしてスクープを狙った。
1973年8月、メコン川を韓国船で遡上し、カンボジアに潜入、アンコールワット一番乗り目指した。友人に「地雷を踏んだらサヨウナラ」と手紙を書き残し、11月22日もしくは23日、消息を絶つ。26歳の誕生日を迎えたばかりだった。
無名のままアンコールワット周辺で消息を絶った一ノ瀬の死については、何の記録も残っていない。クメール・ルージュに処刑されたのではないかと危惧されたが、生きているかもしれないとの楽観論もあった。ところが1982年、シェムリアップ近郊、プラダックという村の住民が泰造を覚えているとの情報があった。一ノ瀬の両親が確認に行くと、荒涼とした草原の土の中に、泥にまみれた遺骨となって眠っていた。両親は掘り起こし、近くの川で泥を洗い荼毘に付した。
一ノ瀬泰造がどういう理由で殺されたのかは正確にはわからない。ただ村人によれば、彼は捕らえられたあとも、最後までカメラを持っていて、夜は足に鎖をつながれていたが、昼間は自由に村人を撮影したという。
一ノ瀬泰造が最後に撮った「ラストショット」はどんな写真だったのだろうか。

写真家ロバート・キャパの最期は、一ノ瀬と違い、まるで大スターが舞台の上で死を迎えるかのように、タイムライフの記者ジョン・メクリンによって、時間や場所、そして戦闘状況までが克明に記録されている。
ただリチャート・ウイーランやアレックス・カーショウの伝記の中に、インドシナとキャパの死については数ページしか割かれていないことが不思議だった。まるでつけたしのような印象である。

その日、キャパが撮った「ラストショット」は、特に有名な写真だ。一般的にそれはモノクロ写真だといわれているが、その十数秒後に撮影したカラー写真が本当の意味の「ラストショット」だ。
1984年、日本で開催された写真展「戦争と平和」で、初めて公開された。
キャパのモノク―ムの写真はどれも高く評価されているが、カラー写真は、中国でも、ヨーロッパでも日本でもかなり撮影されているはずなのに、ほとんど紹介されていない。一部が見つかり公開されたが、まだどこかに大量に眠っているのだろうか。
One person was a senior in college and a member of the same circle, named Yasuzo Ichinose. After graduating from the Department of Photography at Nihon University College of Art, Ichinose worked part-time at the UPI Tokyo branch. In January 1972, he went to Bangladesh at his own expense, just after the Indo-Pakistani War, and in March, he stood on the battlefield in Cambodia. There, he was drawn to Angkor Wat and then covered the Vietnam War for a year as a freelance war photographer, a "one-shot wonder," and a stringer, aiming for scoops. In August 1973, he sailed up the Mekong River on a Korean ship and infiltrated Cambodia, aiming to be the first to get to Angkor Wat. He left a letter to a friend saying, "If I step on a landmine, goodbye," and disappeared on November 22 or 23. He had just celebrated his 26th birthday. There is no record of what happened to Ichinose, who disappeared without a name in the vicinity of Angkor Wat. Some feared he had been executed by the Khmer Rouge, but there was also optimism that he might still be alive. However, in 1982, there was information that the residents of a village called Pradak near Siem Reap remembered Yasuzo. When Ichinose's parents went to confirm this, they found his remains, which had turned into mud-covered bones buried in the barren soil of a grassy plain. They dug him up, washed the mud off in a nearby river, and cremated him. It is not clear why Yasuzo Ichinose was killed. According to the villagers, even after he was captured, he still had his camera with him and was chained to his feet at night, but he was free to photograph the villagers during the day. What kind of photo was Yasuzo Ichinose's "last shot"?

In contrast to Ichinose's demise, the final moments of photographer Robert Capa's life were meticulously recorded by Time-Life reporter John Mecklin, as if a big star was dying on stage, including the time, place, and combat situation. However, it was strange that biographies of Richard Whelan and Alex Kershaw only dedicated a few pages to Indochina and Capa's death. It gave the impression of being something of an afterthought. Capa's "last shot," taken that day, is a famous photograph. It is generally said to be a black and white photo, but the true "last shot" was a color photo taken a dozen or so seconds later. It was first publicly exhibited at the 1984 photo exhibition "War and Peace" held in Japan. Capa's black and white photos are highly regarded, but his color photos, which must have been taken extensively in China, Europe, and Japan, have hardly been introduced. Some have been found and published, but many more may still be hidden somewhere.
僕は、キャパが撮ったカラーの「ラストショット」に、モノクロとは違った、不気味さを感じる。
そこには、戦車のあとを等間隔に散開しながら、前進する10数名ほどの兵士の後ろ姿が写っている。空の部分は青く澄み、地平線近くは筋状の雲が流れている。目の前の兵士は司令官だろうか大きく腕を振り、武器も持たず、通信兵と並んで歩き、危険を感じている雰囲気はない。足元は雑草が青々と茂る荒れ地だ。右前方には背丈ほどの堤防が続き、次第に右にカーブしている。そこにも雑草が生い茂り、数本の背の高い灌木が見える。
まるでピクニックでも行くようなな気持ちのよさそうな写真。キャパの死の予感は微塵も存在していない。
キャパはこの写真を撮った直後前方のなだらかな土手に登り、そして地雷を踏む。僕はキャパの「ラストショット」を見るたびに、いつかその土地に行き、花を手向けたいと思っていた。
I feel an eerie sense in Capa's color "Last Shot" photo, different from that of black and white. It captures the backs of about a dozen soldiers marching forward in equal intervals behind tank tracks. The sky is a clear blue with streaks of clouds near the horizon. The soldier in the foreground, perhaps a commander, swings his arms widely and carries no weapon. He walks alongside a communication officer, and there is no sense of danger. The ground is a rough terrain with lush green grass. To the right, a embankment about the height of a person stretches out and curves gradually to the right. There, a thicket of tall bushes can be seen amidst the overgrown grass, creating a sense of picnic-like comfort. Capa had no premonition of his own death in this photograph. Just after taking this picture, he climbed up a gentle slope and stepped on a landmine. Every time I see Capa's "Last Shot" photo, I feel a desire to visit that place someday and offer flowers.
1954年5月25日(火曜日)キャパ最期の土地
その日キャパたち一行は、ナムディンからタイビンに向かう道路に沿って、20マイル東にあるドアイ・タンとタンとタン・ネという孤立した要塞を引き払い、爆破させる作戦に従軍した。そこでキャパは地雷を踏む。
ロバート・キャパ最期の日の記事は、キャパの撮影した写真とともに「ライフ」に掲載された。それはこんな皮肉なタイトルがつけられている。
”He said:This is going to be a beautiful story" by John Mecklin
TIME LIFE correspondent who was Capa on his last mission
『これは素晴らしいストーリーになるよ』とキャパは言った。ジョン・メクリン」-タイム・ライフ特派記者はキャパの最後の報道任務に同行したー

キャパたちは午前7時、モダンホテルに向かえに来たフランス軍のジープに飛び乗り、ナムディンの町はずれにあるフェリー乗り場に向かった。200台の車両と2000人の兵士が紅河を渡るのを待つ間、キャパはジョン・メクリンと、スクリップス・ハワードの特派記者、ジム・ルーカスに言った。
「これは素晴らしいストーリーになるよ」と。
紅河を渡れば、そこから戦場になるという決意表明だったのかもしれない。キャパはその日のフォトスト―リーに「にがい米」というタイトルまで考えていた。
水田地帯を行軍する縦隊は何度か攻撃を受けて、立ち往生しながらも、最初の目的地ドン・キトンの要塞に、午前10時前には到着している。しかしその先のたもとが破壊されており、修復に数時間を要するとのことだった。キャパたち3人のジャーナリストはその要塞の大佐に昼食を招待されたが、キャパは一人で2キロ先の道路を補修している地点にジープで向かい、撮影を続けた。そのためキャパは昼食を逃してしまう。午後食事を終えたメクリンたちは、車の下で昼寝しているキャパを見つける。

ようやく道路の補修が終わり、隊列が動きだしたのは午後2時ごろだった。
次の要塞、ドアイ・タンに到着したのは午後2時25分ごろ。要塞は爆破の準備を着々と進めていた。
「最後にこのトーチカが爆破する場面を撮ったら、このフォトストーリーは
完成だ」

キャパはそういいながらも先を急いだ。
ドアイ・タンを過ぎてすぐにべトミンの攻撃を受ける。
すぐに縦隊は動き始めたが、ドアイ・タンから1キロ、
最終目的地、タン・ネまであと3キロの地点でふたたび立ち往生した。
キャパはジープから飛び降り、堤防の陰に隠れる。道は水田から3,4フィートの高さで、右側を流れる運河の堤防を兼ねていた。その先の道は大きく左にカーブしている。キャパはあたりを見回してから一人で先に行く。メクリンとルーカスはまだ危険だと思い待機していた。
午後2時55分。
大きな爆発音とともに大地が揺れる。
後方、西の地平線から一条の茶色い煙と火炎が噴きだした。ドアイ・タンの要塞が爆破されたのだ。
その時ジム・ルーカスが叫んだ。
「畜生!これがキャパの欲しがっていた光景なのに!」

数分後鉄兜の兵士が駆けつけた。
「ル・フォトグラファー・エモール - 写真家が死んだ!」
そして第二のベトナム兵が飛んできた。
「もしかしたら死んでないかもしれない。臼砲で負傷して、トレ・グラーブ
―重症だ」
ルーカスとメクリンは飛び上がった。溝に沿って兵隊と一緒に駆け出した。土手をよじ登り、再び道路を走って低地に下りた。
爆破でできた土の穴から1フィートばかりのところに、左足を吹き飛ばさたキャパが仰向けになって倒れていた。胸も深くえぐられている。メクリンは彼の名を呼んだ。二度、三度、深い眠りを邪魔されたかのように、キャパの唇がかすかに動いた。それがキャパの最期の動作だった。
時刻は午後3時10分だった。

Capaモノクロラストショット1080

↑キャパの撮った最後のモノクローム モノクロは不気味だ。何が起きるかわからない緊迫感がある。1988年にキャパの死の場所を探したときには、この写真しか持っていなかった。
コンタックS 50mm フォルムはコダックダブルXだ。

画像8


カラー写真はモノクロと違って緊迫感がない。
そのため当初は評価されなかったのかもしれない。
まるで映画のワンシーンのように作り物めいている。
でもこれがリアルに近いことは確かだ。
50mmをつけたコンタックスから、
カラーの入ったニコンSに持ち替えて撮った。モノクロの兵隊がカラーの地点までの距離は約10m、10秒ぐらいのあとの写真だ。
フィルムは、コダクローム(ISO15)レンズはニッコール35mmだ。

不思議なことに地雷を踏んで倒れていた時、ニコンには50mmレンズがついている。キャパはレンズ交換をしたことになる。

50mmと35mmレイヤー

重ねてみると、35mmと50mmの画角の違い、
そしてモノクロが先でカラーが後であることがわかる。

カラーモノクロ1080

ロバート・キャパ取材中 厚い辞書のようなフィールドノートに記録をした。
東京書籍版の紙の本も、巻末に一部この取材ノートを紹介しているが
noteでは、完全版として、フィールドノート全部を紹介するつもりだ。
お楽しみに。
東京書籍版の文章は、ほんとんど直すことなく、掲載する。時々補足の注をつけたいと思っているし、今だから書けることもプラスする予定だ。
お楽しみに。

0525capa最期の地1920

キャパが地雷を踏んで倒れた直前にった場所と同じ50年後の場所

画像8

2004年 このように手前は住宅が建っている。
キャパの撮ったこの一角だけが50年間残っていた。
この半年後、この場所は、韓国の靴工場となり、消滅する。

フィールドノート全体

この記事は、マガジンになっています。
一冊一冊より、これからずっと続くので、マガジンとして購入したほうがお得だと思います。

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このシリーズは、完成形ではありません。半公開をしながら、日々、調査したことを反映し、ロバートキャパの晩年、「失意の死」を検証することです。本当にキャパは、行かなくてよい戦争にゆき、死ななくてよい、汚点だったのでしょうか?そのため、キャパの自伝の、公式版でも非公式版でも日本滞在と、ベトナムでの死について深く調査はされていません。
キャパの死の土地は、1954年から僕が取材した2004年まで、市街地化したベトナムでも、唯一その場所だけが残っていましたが、僕が取材した半年後韓国の靴工場になってしまいました。キャパが最後に撮った場所は、今はもう存在していません。僕がその場所を特定することを待っていたかのような奇跡でもあります。

ロバート・キャパ最期の日 マガジン 

#1 「ロバ―ト・キャパ最期の日」をnoteで書く理由。
#2 「崩れ落ちる兵士」は、FAKEか? 無料

ロバート・キャパ最期の日
01 ロバートキャパ最期の日 インドシナで死んだ二人のカメラマン
02 キャパの死の場所が見つからない 
03 ロバート・キャパ日本に到着する
04 ロバート・キャパ東京滞在
05 キャパと熱海のブレファスト
06 キャパ日本滞在 焼津~関西旅行 生い立ち
07 1954年4月27日 カメラ毎日創刊パーティ
08 ロバート・キャパ、日本を発つ 4月29日~5月1日
09 キャパ日本滞在中 通訳をした金沢秀憲に会いにゆく
10
11

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