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社会を切り取り、解釈する前に    自分の「正しさ」、を疑う胆力を

自分の正しさを主張するために社会を解釈してはならない。
間違っているのは私(私たち)かも知れない、からスタートしよう。
いつしかこのような意識で現場に立つようになっている。
これまでイラク、北朝鮮、被災地東北、沖縄をテーマにした5冊の写真集を出版してきた。東京に暮らし、メディアの情報に触れる中で蓄積された先入観を排除し、目の前にある事象を「ちゃんと見る」ことは容易ではない。地域の声に耳を傾けると、様々な立場の考えに引っ張られ、いつしか多様性の海に飲み込まれてしまう。自分の立ち位置が揺らぐ感覚こそが、私にとって作品の制作過程において一つの醍醐味だ。そこに暮らす人々は、私が眼差し解釈するために存在しているわけではないのだから。

「眼差し」をみられている

写真集を見たフォトアートの関係者の多くは、テーマの選び方や写真集巻末の長い後書き、作品発表に伴う発言内容からジャーナリズムだと感じるようだ。一方ジャーナリストからみれば、極めて個人的な写真表現として受け取られることが多い。
沖縄の写真集を例に取ると、辺野古の海で抗議船に乗り、海上保安庁職員と揉み合う写真もあれば、お盆の時期に沖縄独特の亀甲墓の上で居眠りをしている二人の少女の写真もある。天皇陛下訪沖の際、平和祈念公園入口で「天皇陛下万歳」と書かれた横断幕を掲げる沖縄右翼の整列写真もあれば、国際通りのスターバックスで勉強する黒いリクルートスーツを着た専門学校生の集合写真もある。日常を追えば政治が顔を出し、政治を追えば日常が見えてくる。目の前に繰り広げられる人間模様からファインダー越しにエッセンスを抽出していく過程で、ジャーナリスティックな問題設定そのものがむしろ変化を迫られることになる。

2015年に「周縁からの眼差し 北朝鮮、東北、沖縄報告」と題した写真展を開催した。別個の苦悩を抱える土地を並列することが、それぞれの被写体に対して不敬であることを重々考えてのことだった。
コーナーを分けての展示は、観るものにとって不思議な統一感があったようだ。一貫しているのは、哀れな被災地、非道の北朝鮮、南の楽園沖縄。我々が期待する「らしさ」がどこにも写っていない、ということだった。
言うまでもなく、写真は撮り手の眼差しの表現だ。しかし一方で被写体も撮影者を見ているのだ。カメラに向ける目線の有り無しのことではない。被災者も北の人民も沖縄人も、私がどこからやってきて、どのような態度で何を撮ろうとしているのかを、彼らは見ていた。
東京の写真展会場で作品を見る客を、被写体が写真の向こう側から眺め返えす。「周縁からの眼差し」というタイトルの意味はそこにあった。自分の都合で我々を眼差さないでください。写真の中から声を発し、そう語りかけているようにさえ思えた。

「抑圧者」自覚した学生時代

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ジャーナリストが対象に選びそうな地域に、確信を持ち飛び込むようになったのは、35歳をすぎてからだった。しかし、そのきっかけは恐らく学生時代に遡る。時間を巻き戻して記したい。
小学校の6年間、児童合唱団にいた名残で、大学生活前半はグリークラブ(男声合唱団)に所属していた。しかし、歌手を目指すわけでもなく趣味で歌っていても未来につながるとは思えず、紆余曲折を経てサークルの写真部に入ることになった。お勉強の方では文学部社会学科でジェンダーのゼミに入った。
当時はアラーキー(荒木経惟)全盛の時代であり、真似事のようにヌード写真の撮影にも憧れた。一方、男性による構造的、意識的女性差別について様々な本を読み小さな論文を書いたりした。欲望と理性が分裂し、並走することは不可能だった。フェミニズムを真面目に学ぶ男子学生として女性の指導教授にそこそこ期待されたが、卒業式後の懇親会で「何の落としまいも付けずにやめるのね」と刺さる言葉をいただき、写真家の道へと歩み始めた。
なぜジェンダーのゼミを取ったのか?差別問題の入口は被抑圧者の告発に始まるが、最終的には抑圧する側が意識を変えなければ解決に至らない。差別の問題を考えるならば、自分が抑圧者の側に身を置くテーマを選ぼう、と直感してのことだった。

デビュー、偶然のバグダッド

写真家になるには、作品が評価されなければならない。大学卒業時に応募した、ドキュメンタリー系の「太陽賞」の最終選考に残った。雑誌「太陽」の紙面には審査員の一人だったアラーキーが「これしかない。写真才あり」と賞に押したことが分かるコメントが書かれていた。憧れの天才からいただく賞賛は時に人生を大きく狂わせる(笑)。この道でいこう、と自信過剰になった。その後新宿の酒場で知り合った東京新聞記者から都内版での連載のページをもらうことができた。幸先のいいデビューだった。1年半写真と原稿の連載を150回続ける中、貸しスタジオでアシスタントして働いた。サークルの写真部ではライティングを学ぶことはできない。重たい機材を抱え地下1階から3階まで駆け上がる肉体労働の日々だった。写真家を続けるには商業カメラマンとして生計を立てる必要があった。どんな注文がきても不安なく撮影をこなす技術を身につけたかった。
20代後半に独立し依頼仕事をこなす日々はそれなりに充実した。働くほどお金が入ってくる感覚は悪くなかった。いつしか作品制作からは離れていった。依頼された条件下で最大限結果を残すことと、自発的にテーマを決め撮影し発表することの両立は極めて難しい。使う脳が違うのだ。ライターと作家の違いに例えると分かりやすいかも知れない。
20代最後の年、通い慣れた新宿ゴールデン街の店で焼酎の牛乳割りを飲んでいると、時折挨拶する新右翼団体「一水会」の木村三浩代表が入ってきた。2002年12月のことだ。「来年2月に30人を連れてイラクのバグダッドに反戦運動に行く。カメラマンも一人連れて行きたいが、よかったら行くか?」と唐突に誘われた。滞在中に戦争が始まってしまうかも知れない。そんな危険な場所での撮影を考えたこともなかったので躊躇したが、依頼仕事に追われる日々から抜け出したかったこともあり、参加することにした。
滞在時期から3週間後にイラク戦争は勃発し、2週間後にフセイン像が倒され戦争は終わった。1週間の滞在で関わったイラク人がどうしているのか気になり、戦後2ヶ月後に今度は一人で行くことになった。
帰国後、ある出版社の社長から写真集にしよう、と提案をいただき、その年の秋に「Baghdad2003」を出版した。反戦カメラマンという扱いでメデイアの取材を受けることになった。人生初の写真集を出すことができ、多少は浮かれてみたが、徐々に気持ちが落ち込んでいった。自分の行いがあまりに安易に思えたからだ。対象と関わりも単なる偶然で、滞在期間も短く、何より動機が不明確だった。自分自身の軽率さと軽薄さに耐えられなくなった。

午前5時、東京で人を撮る

そんな時期にある月刊誌から巻頭グラビアの撮影依頼がきた。東京がテーマであれば何でもいいという。しばらく考えて午前5時のポートレイトを撮りたい、と提案し承諾を得た。新宿ゴールデン街で明け方まで飲んだ後、帰宅途中に出食わす人間模様に以前から興味を抱いていたからだ。
ひと月ほど撮影を重ね、写真8点を納品したが、撮影は骨の折れるものだった。仕事が終わって帰る者、これから仕事に行く者、変わらずしゃがみ込んでいる路上生活者。「写真を撮らせてください」と頼み込んでもほとんどは断られた。テッシュ配りが無視をされるのと同じような扱いを受けた。昼間はスタジオでカッコよくアイドルを撮っている自分との落差から自尊心が傷ついた。
しかし、本来人の写真を撮る、とはこういうことなのではないか?という気付きも得た。バグダッド写真集の挫折から立ち直るためにも、必要な苦労だと感じた。「東京午前5時、200人のポートレイト」を発表するまでに、断られた数は1000人を超えた。それでも3年間、自分が住む街において被写体一人一人と向き合ったことで、次の段階に進んでもいいような気がした。

「全否定される国」へ

バグダッドで私が見たものは独裁国家がアメリカの一方的な攻撃を受け滅びる姿だった。日本のすぐ隣にある北朝鮮のことが気にならないわけがなかった。
拉致問題と核・ミサイル問題で日本政府、メディア、国民から全否定されているこの国を自分の目で見たい、という欲求が膨らんでいった。イラク渡航は成り行きだったが、北朝鮮については様々な本も読み、一定の考察を経て、2009年に朝鮮総連に企画書を提出することから始まった。
その後7回訪朝し2冊の写真集を出版するほど執着することまでは予測はしていなかったのだが。

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2010年から初訪朝し、2011年から撮影を開始する予定だったが、そのさなかに東日本大震災が起きてしまった。
宮城県名取市に入ったのは翌日だった。おそらくどの写真家や映像作家よりも早かった。フリーランスは上司に行け、と命じられることはない。従って自分がそこに行く意味があるのかを決断しなければならない。何を撮りどう伝えるかを考える以前にまずは行くことを選んだ。

「桜に希望」、よそ者の感覚

夜明けを待ち、水の引いた宮城県名取市閖上に消防団と共に入った。瓦礫に覆い尽くされた一帯には道路がなかった。足元に注意しながら歩くと100メートル進むのに5分かかった。建物がなくなったことで5キロ先の海岸を見渡すことができた。そして何より印象に残っているのは静寂さだった。核戦争が起き、地球全土が消滅した後は、こんな感じなのだろうか、と冷静に想像した。不思議と悲しみの感情は湧き上がってこなかった。静けさだけが身に染みた。
さて、ここからどうするか?地平線まで続くかと思われる荒野を眺めながら考えた。新聞社の腕章を付けたカメラマンが時折通り過ぎた。彼らには翌日の朝刊に載せる写真を撮る任務があった。私自身は何をしてもしなくてもよかった。少なくとも1年間は通い撮り続けよう、と漠然と直感し決意した。この状況をどう受け止めるか、焦る必要はなかった。時折空間や遺体に向けてシャッターを切ったが、人として優先すべきことは生存者の発見だった。団地の上の階まで上がり、一部屋ずつ廻って「誰かいますか」と声を掛け続けた。

その後は気仙沼を拠点にふた月に3回のペースで被災地を巡った。4月の終わり、車が多数浮いたままの気仙沼大川の土堤の桜並木に一斉に花が咲いた。私はそこにわずかな希望を感じ夢中でシャッターを切った。当初の計画通り1年後に写真集を作り、気仙沼で仲良くなったお茶屋さんの一階で写真展を開催した。街行く人たちが気付くように、店の外に本の表紙に使用した桜の写真を飾った。多くの住民が立ち止まってその1枚を不思議そうに眺めていた。彼らは皆同じことを口にした。「桜が咲いていたのを覚えていない」
確かにその頃、街のあちこちに桜は咲いていた。被災者の多くは、仮設住宅に入ることができず、ストレスと疲労は限界に達していた。昼間は自宅の泥出しに行く者も多く、食事は炊き出しの列に並んだ。彼らに満開の桜を見る心の余裕はなかったのだ。力強く咲き誇った桜の花に希望を見出しシャッターを切った自分がいかによそ者であったかを思い知らされた。マスメディアが報じる復興物語を拒絶していた私もまた、自分のイメージの中で安易なストーリーを組み立てていたに過ぎなかった。

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現地ではイベントなどの情報を知るためもあり、割とよくテレビを見ていた。そこで地方のニュースと東京のニュースの意識や感覚のズレを、30代後半になって初めて知ることになった。震災復興合コンを始め、震災をネタにした様々なイベントのニュースも流れていた。地方出身者であれば、多くは18歳までに、在京メディアの異常さを知った上で都会にやってくるが、東京にしか住んだことのない私には、この感覚が欠落していた。政治、経済、メディアの中枢、すなわち様々な権力が集中している東京で暮らしてきたことで、私自身に内面化された思い上がりを自覚する日々となった。

「写真より基地を持ち帰れ」

東北は23回、北朝鮮は4回訪れ、2012年に2冊の写真集を出版する過程で、私は次のテーマを沖縄と決めていた。果たして沖縄から東京がどのように見えているのか?ただ、沖縄に関しては東京から時々通う、というスタンスでは十分に理解を深められないような気がした。2013年11月から、カメラマンとして依頼される仕事を捨てて、沖縄に移住することにした。
最初のひと月はほとんど写真を撮らずに飲み歩いた。酒場で出会う人たちの話に耳を傾ける中で、驚きと発見が蓄積され、撮るべき対象が浮かんでくるのを待った。「自分の感性に引っ掛かってくるものを丁寧に拾っていけば、必ず普遍性を伴った一冊になる」という無根拠な確信のもとの滞在だった。写真集発売後、数々のメディアからのインタビュー記事で見出しとなったのは、滞在中のある晩、スナックのカウンターで初老の男に言われた一言だった。「写真を持ち帰るくらいなら、基地の一つでも持ち帰ったらどうかね」

「変人枠」「表現者枠」

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時折思い出す子供の頃の経験が一つある。小学校4年の4月に転校した頃のことだ。新しく友達が作れるだろうか?と不安になるのが転校だ。比較的仲良くなった男子たちがこう告げた。「窓際に座っているA子ちゃんは臭くて汚いから関わらない方がいい」
いじめっ子たち、傍観者たち、そして一人のいじめられっ子、というよくある構図だった。数日後、私は休み時間に彼女に話掛けに行った。なぜだかはよく覚えていない。みんなが否定するので確かめにいったのかも知れない。彼女は「私と話していいの?」という表情を浮かべた。
彼女はなぜか、臭くはなく汚くもなかった。ある時にたまたま臭かったことがあり、一つのキッカケでいじめられっ子になった彼女は、本当に臭いかどうかはその後関係なくなったのだろう。教室にいる大多数は不思議そうな顔でこちらを見ていた。男子たちは僕を奇妙だと思ったのだろう。ある放課後、「お前、変な奴だな」と言われたことを記憶している。おそらく私が「変」であったのは他にも理由があったのかも知れない。
いつしか私は「変人枠」となった。そのことによって私自身がいじめられることにはならなかった。それからも時々その子に話しかけたが、かといってその子をめぐる可哀想な状況を変えさせよう、という意欲はもたなかった。私にとって、彼女は普通の子。それだけだった。
クラスの「変人枠」が大人になって社会の「表現者枠」に移行したのかも知れない。
なぜ北朝鮮を撮ろうと思ったのですか?とインタビューで聞かれるたびに、「みんながダメだっていうと見に行きたくなるんです。」と答えている。

「権力都市」東京人として

「表現者枠」に身をいて気付いたことがある。彼らの中に、成人するまでに深い心の傷を負っている割合が多いことだ。そのことで、人の悲しみに共感する感受性が育ち、傷を共有したり傷から解放されたりする手段として表現を用いることが多いのだろう。深い傷を負っていない自分は一般的には幸福だったが、表現者としては不幸なのかも知れない、と悩む時期もあった。
近年、私の作品を見た一般の読者や評論家、同業者から、「初沢さんじゃないと、世界をこんなにフラットに撮ることができないだろう」と言われることが増えた。その言葉が私にとって救いなのかはよく分からない。しかし、どのような生育歴を経ようと世界に向き合う感性を育てることはできるはずだ。
ジェンダーのゼミにおいて、たった一人の男子学生だった私は発表内容や発言に対して女生徒たちから批判を浴びた。構造的抑圧者が一人で、被抑圧者が残りの全てなのだから致し方ない。その状況に耐えられる、と直感したからこそ私はそのゼミを選んだはずだ。沖縄での1年3ヶ月、ウチナーンチュの本心に触れ続けることは想像以上に辛かったが、間違っているのは我々かも知れない、という自己否定の日々を過ごすことができたのは、根底に自己肯定感があったからかも知れない。
日本による沖縄への抑圧構造を前提に、カメラで視虐を繰り返す搾取行為が上乗せされる。だからこそ、沖縄をちゃんと理解した上での作品でなければならず、被写体を傷付けるものであってはならない。眼差しそのものの暴力性も自覚していなければならない。
意識せずとも眼差す側に立っている「東京人」と規定し、3つの地点を掘り下げた私に残された課題は、権力都市東京を再び撮ることだろう。

感動より、戸惑ってほしい

ジェンダーゼミを選択したもの、イラク行きを決めたのも深い思慮に基づいたものではなかった。偶然得た問題意識を繋いで見ると、緩やかな線で結ばれていることに気が付く。その先には自ずと取り組むべき課題も見えてくる。
恐らくは20歳以前にその起点はあったのだろう。何に喜び、苛立ち、怒りを覚えるのか。ジャーナリズムを通じて社会との関わりを求める若者には、すでにその起点が存在しているはずだ。
その上で大切なことは、自分の感覚、感情がどこに由来するのか、を日々振り返ることだ。欠落を自覚するものが、それを埋めるために社会に怒りをぶつけることはよくあることだ。しかし、どんな時も、自分が正しいとは限らない。間違いに気付き修正する柔軟性をもたないと、正しさを主張するために人や社会を利用することになりかねないからだ。

私は写真集の読者に感動を期待しない。戸惑って欲しいのだ。著者が被写体との関わりにおいて何に躓き、打ち砕かれ、反芻し、再構築しようしたのか。我々が立っている場所、蓄積された思い込み、築き上げた価値観が必ずしも絶対ではないことを共に考えるキッカケとして写真が機能することを願う。
時が経てば社会の価値観や常識は変化する。私なりに辿り着いた一抹の真実がのちの時代に不正義に変わることもあるかも知れない。そのことにより30年後、作品への解釈が変わり、私が撮影した被写体が貶められ、傷付く可能性もある。
少なくとも自分が生きている限りは、写され発表された被写体への責任を持ち続けなければならない。
歳を重ねることでものの見方が硬直化するのではなく、柔軟性を増すためには自分を疑い続ける胆力が必要だ。若い世代からの批判も多いに浴び、伝える仕事について共に試行錯誤していきたい。

Journalism 2018.10

ShINC 6号 特集 初沢亜利

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